渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ロードレース・ジャパン1993 第4回/RoadRaceJapan #4

2024年04月26日 | open

ロードレース・ジャパン1993 第4回
RoadRaceJapan #4


1993年、全日本選手権に
キング・ケニーの息子の
ロバーツ・ジュニアが
GP250クラスにヤマハ
ワークスマシンで参戦
した。
監督はヤマハワークスで
全日本3年連続チャンピ
オンだったWGPライダー
の平忠彦。
メカニックはウェイン・
レイニーの父である名
メカニックのサンディ・
レイニーが務めた。

これは歴史的な事だった。
後年、ロバーツ・ジュニア
はスズキからのエントリー
で500cc世界チャンピオン
に輝く。
元々は父がいたヤマハの
出身だ。
世界チャンピオンのレイニー
も父親に顔が似ているが、
ケニー・ジュニアもそっく
りだ。
イタリアの偉大な世界チャ
ンピオン、バレンティーノ・
ロッシも父がGPライダーだ
った。ロッシは父のゼッケン
46にこだわり、ずっとそれ
をつけていた。
そういう個人ナンバーの嚆矢
は英国の世界チャンピオン、
バリー・シーンが7番をつけ
た特例から始まり、80年代に
はアメリカのケヴィン・シュ
ワンツが34番を使い続けた。
その後、個人ナンバーは一般
化するようになった。
世界最速だったフレディ・ス
ペンサーはチャンピオンナン
バー1をつけたが、別枠での
再エントリーの時などは19番
にこだわっていた。
そうしたゼッケンナンバーの
選手によるこだわりは時々
みられる。
日本の中野真矢も56にこだわ
り、引退後のブランド名も56
にした。
それは彼がバリバリ伝説の
熱烈大ファンだったからだ。
バリ伝グンちゃんがGPで活躍
した時のナンバーが56だから。
通常、レーシングマシンの
ナンバーは前年度の順位の
ナンバーが付与される。
個人ナンバーが固定化したの
は今世紀に入ってから。

1993年。日本の原田選手が
世界グランプリ250クラスで
日本人初の世界チャンピオン
に輝いた。
タイトル争いは最終戦まで
もつれこんだ。

 


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