野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

ウクライナ戦争をめぐるコープランド教授との対話

2024年05月22日 | 研究活動
ロシアのウクライナ侵攻の原因や帰結をめぐっては、さまざまな分析や見解がさまざまな媒体に発表されています。戦争と平和を実証的に研究する論文を掲載する専門誌にも、ウクライナ戦争の原因を究明する手堅い論考が発表されるようになってきました。たとえば、若手の政治学者であるブラッドレー・スミス氏(バンダービルト大学)は、『紛争管理と平和研究』誌において、「コミットメント問題」(国家が約束を遵守するかどうかの問題)の観点から、この戦争の原因を以下のように説明しています。

「交渉は、衰退する国家が、将来的に弱い立場から取引するよりも、強い立場から戦う方が望ましいと考え、即座に軍事行動を選択することで決裂し得る。重要なのは、この論理を侵攻前夜のプーチンの計算と結びつけることだ。 プーチンは、ウクライナがいつかNATO(北大西洋条約機構)の一員になることを予期して、将来の交渉力が低下すると考えていたのだろう。 プーチンは、NATOが自分の意志をウクライナに武力行使で押しつけられなくなってしまう未来を恐れ、現在の軍事作戦を最も有利な選択だと考えたのかもしれない」。

要するに、ウクライナ戦争はプーチンとNATOの主要な指導者がバーゲニング、すなわち、ウクライナのNATO加盟をめぐり、さまざまな交渉や駆け引きを行ったにもかかわらず、それが解決策に結びつくことなく決裂した結果であるということです。こうした分析は一定の説得力を持っていますが、ウクライナ戦争の原因をめぐる議論が依然として収斂しない1つの決定的な論点は、それがプーチン大統領という個人の属性に帰することができるのか、それともロシアを取り巻く国際環境の変化がプーチンを戦争へと促したのか、ということです。前者は、プーチンが「帝国主義者」であり、旧ソ連帝国の再来を目指す「失地回復主義者」であると見なします。だから、NATO拡大といった外的要因は、戦争の原因ではないと退けられます。他方、大半のリアリストは、ウクライナ戦争を典型的な「予防戦争」であると判断しています。すなわち、NATO拡大によりウクライナが西側の「防波堤」に組み入れられることは、ロシアの生存を脅かしてしまった結果、プーチンは、そうなることを「予防」するためにウクライナ侵攻に踏み切ったということです。

ウクライナ戦争の原因をめぐるリアリストの意見対立
興味深いことに、予防戦争としてのウクライナ侵攻論は、全てのリアリストに受け入れられているわけではありません。デール・コープランド氏(バージニア大学)は、代表的なリアリストであるジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)やスティーブン・ウォルト氏(ハーバード大学)の指導を受けたリアリストであるにもかかわらず、自分の師匠たちの「予防戦争論」を受け入れていません。彼は、主著『大戦争の起源』において、戦争の原因はパワー・シフトにより衰退国がライバル国に対して決定的に不利な立場に追い込まれることを恐れて、それを防ごうとする国家の行動にあると主張していました。この研究書は世界的に注目されて、中国語訳も出版されたほどです。私も拙著『パワー・シフトと戦争』を執筆した際には、同書を先行研究として重視しました。しかしながら、コープランド氏は、この自分自身の理論を使って、ウクライナ戦争を説明することに反対しています。彼は、何がウクライナ戦争を引き起こしたのかについて、NATO拡大によるパワー・シフトではなく、プーチンの「保身」や「野心」に、その原因を求めているのです。

私は、コープランド氏の主張に納得できなかったので、X(旧ツイッター)上で、意見交換を何度も行いました。こうした日米間の研究者による知的交流が、この記事を読む皆さまの参考になることを願って、ここで、その1部を紹介します。なお、コープランド氏には、私とのやり取りを公開することに同意していただきました。

ウクライナ支援か外交的妥協か
コープランド氏(一部省略)「(政治を専門に扱う)『ポリティコ』誌でさえ、T氏(トランプ氏のこと)がホワイトハウス(での大統領の地位)を獲得できれば、エルブリッジ・コルビーが国家安全保障担当補佐官になる可能性が高いと示唆しているのだから、BC(コルビー氏のこと。彼はBridgeの愛称で呼ばれているので、その最初の文字Bをとっています)の中途半端なシニカルな世界の見方は暴露されなければならないと私は強く信じている…あなたのシニシズムと、T政権であなたに地位を与えてくれるかもしれない共和党の人々を喜ばせたいという願望は、その後、ウクライナ軍がここ1カ月で実際に劣勢に立たされているという事実を祝うほど強いものなのでしょうか(私には疑問だ)」。

*ご参考までに、私はコルビー氏と何度もメッセージをやり取りしてきました。

野口「こんにちは、デールさん。実現可能な目的もなく、重要な国益もなく、現実的な手段も出口戦略もない遠い地域での戦争に60億ドルもの大金を(アメリカが)投じることに、良識ある人なら誰もが重大な疑問を呈するのは道理ではないでしょうか。それよりも、ウクライナの犠牲者を最小限に抑えるために、あなたは、なぜ停戦を提案しないのですか。それとも、アメリカからの財政的・軍事的支援が増えれば、ウクライナがロシアを1991年ラインまで追い詰めることができると本気で信じているのですか。それが事実上不可能であるなら、満足のいかない妥協をするしかないでしょう。

あなた以外のほとんどのリアリストは、ウクライナでの戦争を終わらせるための外交を提唱しています。先日あなたへの返信で引用した若手のリアリストたちや、ヴァン・エヴェラやポーゼンといった長老のリアリストたちも、停戦交渉の開始を求めています。ウクライナのロシアに対する抵抗力がこれ以上弱まれば、停戦条件はますます悪化するでしょう。これはウクライナにとって悪夢です。消耗戦の結果を左右する最大の要因のひとつが、死傷者に代わる新たな兵士を供給するマンパワーであることはご存じの通りです。ウクライナはロシアに比べてこの能力が低い。

もし、結果倫理が、実現可能性の低いロシアの敗北より、ウクライナの犠牲者を最小限に抑えることを優先する選択を支持するならば、戦争継続を支持するのではなく、外交こそが今なすべき道徳的要請でしょう」。

スティーブン・ヴァン・エヴェラ氏やバリー・ポーゼン氏はマサチューセッツ工科大学の政治学教授であり、著名なリアリストです。ウクライナ戦争に関する彼らの主張はMITのウェブサイトに掲載されています。ここで私が引いた若手のリアリストは、エマ・アシュフォード氏(スチムソン・センター)やジョシュア・イツハク・シフリンソン氏(メリーランド大学)らのことであり、『フォーリン・ポリシー』誌において、ウクライナ戦争を「永遠戦争」にしないための停戦交渉を始めるよう、強く訴えています。

停戦は成立するのか
コープランド氏「和彦さん、コメントありがとうございます。 まず、ウクライナに関する私の投稿をすべて読むと、私は常にウクライナの強い反発姿勢(つまり、ロシアのさらなる進出を阻止すること)と外交的解決の必要性を結びつけています。 私が言及し続けているのは、ダン・ライターの著書『How Wars End(戦争はいかにして終わるか)』であり、そこで彼は、戦争は双方が膠着状態に陥り、戦争を続けることで『それ以上』の利得を望める可能性がなくなると見るまで終わらないという貴重な経験的指摘をしているのです。

つまり現在、ロシアは、特にハリコフに向けて、さらなる利益を得ることを許されている。まさにBC(コルビー氏のこと)のような人々が、ウクライナにさらなる援助を与えるべきではないと共和党の極右に主張してきたからです。 HIMARやATACMSなどのハイテク兵器を使えば、アメリカはウクライナの後方攻撃を支援し、ロシアの兵站構造を劇的に混乱させることができます。これこそが遅れていることであり、これこそがロシアにウクライナの領土をさらに獲得する希望を与えているのです。したがって、『戦線を維持する』ことが短期的な急務であり、アメリカの援助とEUの援助だけがこれを可能にするのです。

また、私は1991年の国境線が交渉による和平の出発点だと言ったことは一度もありません。私が言ったのは、もしウクライナ人がこれ以上のロシアの前進を阻止し、ロシア人が戦争を続けることが自分たちの利益にならないと考えるほど押し返すことができれば、停戦やプーチンのためのある種の『面目を保つ逃げ道』が用意されるかもしれないということです (例えば、クリミア半島とドンバスの一部を名目上『独立』させ、ロシアと『提携』させるが、正式にはロシアの一部にはしないという『主権提携』の取り決めが、そのような『面目を保つ逃げ道』になるかもしれない、と私は言ったのです)。

だから、私の投稿をよく読んでほしい。 戦時下での交渉は最もやっかいなものです。感情が高ぶり、何十万人もの軍隊を失ったり傷つけられたりした後では、誰も自分たちの望むものがすべて手に入らなかったとは認めたくないからです (1914年から18年にかけての第一次世界大戦を思い浮かべてほしい。塹壕戦が続いていた1915年半ばまで、なぜ終結しなかったのでしょうか?)。 これで少しはわかってもらえましたか」。

ダン・ライター氏(エモリー大学)は、著名な政治学者です。彼の戦争終結に関する著書については、私のブログ記事を参考にしてください。

野口「デールさん、思慮深い返事をありがとうございます。特に停戦が成立しうる条件に関して、あなたはいくつかの有効な指摘をしていますが、私はあなたの主張の大部分には同意できません。

第1に、モスクワが戦場で前進できると信じている限り、ロシアの停戦へのインセンティブが低いのは事実かもしれません。しかし、その論理はウクライナにも当てはまります。なぜゼレンスキー政権は停戦合意案であるイスタンブール・コミュニケを進めなかったのでしょうか。アメリカをはじめとするNATO加盟国からの大量の軍事物資は、ロシアを敗戦寸前まで追い詰めることができるという、キーウにいるゼレンスキーの期待を高めたのかもしれません。しかし、双方は現在、ほとんど前進できない消耗戦を戦っています。この戦争は1年以上も行き詰まっているのですから、ロシアとウクライナの間に停戦を実現する可能性があるはずだということを忘れないでください。さらに、あなたが言及したダン・ライター氏は、2022年9月に『ニューヨーカー』誌で『ウクライナは防衛可能だ、彼らはそれを証明している』とまで述べています。

第2に、『HIMARやATACMSなどのハイテク兵器を使えば、アメリカはウクライナの後方攻撃を支援し、ロシアの兵站構造、ひいては前線部隊への補給能力を劇的に混乱させることができる』というあなたの核心的主張は、あまりにも危険で説得力も乏しいです。急逝したブラウメラーが警告したように、どんな戦争も些細な事件や未知の小さな要因によって、急激かつ不意にエスカレートする可能性があります。その結果、誰も予測できなかったような大惨事が起こるかもしれません。サラエボでのたった一発の銃声が、1500万人以上の死傷者を出す大戦争に発展するとは、当時誰が予想できましたか。さらに悪いことに、ウクライナ、アメリカ、西ヨーロッパ諸国は、世界最大の核保有国と戦っているのです。ケネディ大統領が言ったように、核時代の鉄則は、正義の前に平和を守ることなのです。

第3に、既存の実証的研究は、少数の特定の兵器が戦争の結果に大きな影響を与えないことを示しています。私たちは、M1エイブラムス戦車のようなアメリカの兵器が『ゲームチェンジャー』であり、ウクライナに戦術的優位をもたらすと言われ続けてきましたが、果たしてそうだったのでしょうか。戦争における戦術レベルでの勝敗は、特定の兵器そのものではなく、部隊の運用方法に大きく左右されるのです。残念ながら、AFU(ウクライナ軍)は、ビドルの言う『近代的なシステム』を運用することができません。上記の分析が正しければ、HIMARやATACMSのようなアメリカの兵器は、ウクライナでの戦争の最終結果を変えることはなく、ロシアの停戦への動機付けにほとんど影響を与えないでしょう。

繰り返しになりますが、あなたからの反論を大いに歓迎いたします」。

ビア・ブラウメラー氏は、戦争研究の第一人者であり、亡くなられる前に、ウクライナ戦争のエスカレーション・リスクを警告していました。スティーブン・ビドル氏(コロンビア大学)は、軍隊の効率性について傑出した研究成果をだした、この分野の第一人者です。彼の言う「近代システム」については、私のブログ記事をお読みください。

エスカレーションのリスクをどう考えるのか
コープランド氏「和彦さん、ご丁寧なコメントとお返事をありがとうございます。どちらも注意深く読ませていただきました。全体的に、同意できる部分が多いです。 そして、あなたの重要なポイントである、少なくとも戦場においては、核兵器を持ち込むようなエスカレーションのリスクが高まっているということは確かです。

私の重要なポイントはこれです。すなわち、プーチンは、単に『国家安全保障』のためにこうしているのではないことを、疑いの余地なく示しました(大国の指導者は自国の安全保障を合理的に向上させるために行動するというのがリアリズムの基本的な前提なので、そう信じたいのは山々ですが)。このような長期的な戦争は、ロシアの安全保障を向上させるものではありません。今年、ロシアのGDPが短期的には3%上昇するという『ケインズ主義的』な効果があったにせよ、全体としては、この戦争によってロシアは今年末までに、戦争が起こらなかった場合より、R自身の統計によれば、GDPが14%減少することになります (これは私の以前の投稿から引いています。基本的には、Rで計算した戦前の成長率は5%であり、2022年[戦後]の成長率は-5%であったことを指摘しました。したがって、戦争と制裁による純損失は-14%ということになります)。

さらに、ここで1980年代のソ連問題が非常に高い軍事費によって引き起こされたことを思い出す必要がありますが、『大砲』のためにバターや投資を犠牲にすることで、ロシアは長期的な経済基盤を弱めています。要するに、プーチンがこの戦争を続けることは(リアリズム的な国家安全保障の観点からは)合理的ではないのです。ウクライナの主要都市を『占領』しながら破壊すればなおさらです。

私は、彼がこの戦争を続けているのは、自分自身の国内での生き残りのためであり、彼が考える『歴史における自国の地位』(1914年以前のロシア帝国の一部を回復する手助けをしたこと)のためだと考えています。この時点で、彼がまだ『NATOの拡大を恐れている』という考えは、もっともらしさを失います。彼の行動によってスウェーデンとフィンランドがNATOに加盟し、自国の包囲網が拡大したのだからです。

なぜこれが重要なのでしょうか。 それは、(a)例えばラトビアやリトアニアを狙うことのコストとリスクを彼に示すことで、(必ずしも2022年以前の現状にさえ押し戻されないにしても)彼が実際に『止めなければ』ならないこと、(b)Rで算出された長期的な衰退を悪化させている混乱から抜け出すための面子をかけた交渉を始めなければならないことを意味するからです。

さて、エスカレーションのリスクについてです。 たしかにリスクはあります。しかし、それはかなり誇張されていると思います。まず、ウクライナは2年前からロシアの艦船や兵站施設を攻撃ししたが、モスクワはエスカレートしていません。だから、HIMARSやATACMがウクライナ国内や黒海にあるロシアの補給施設に命中しても、モスクワが『エスカレート』することはありません。では、ウクライナがアメリカの兵器を使ってロシア領内の補給基地や軍事組織を攻撃したらどうなるでしょうか。 そう、その方がより『リスキー』です。しかし、プーチンは合理的な国内的理由から、アメリカとの戦争を望んでいません。自軍を攻撃する兵器がウクライナからもたらされ、ウクライナ人によって発射されるのであれば、プーチンはワシントンとチキンゲームになる道を歩むつもりはないでしょう。

今、アメリカはウクライナの本土に米軍を駐留させるべきでありません。『発砲』するかどうかは、常に、常に、常に、ウクライナ人次第にしなければなりません。プーチンがエスカレートする唯一の方法は、本当に戦争に負けたと思った場合だけです。しかし、クリミアとドンバスの一部に名目だけの『主権』を与えることで面目を保ち、2022年の現状に押し戻せば、プーチンは戦術核兵器にさえ頼らなくなるでしょう。長くなりすぎましたが、この投稿が首尾一貫したものであることを願っています」。

ウクライナ戦争の原因をどこに求めるのか
野口「こんにちは、デールさん。ウクライナ戦争の原因と結果に関するあなたの広範かつ詳細な分析は、私自身の考えに見直しを迫りました。あなたの議論を注意深く読み、納得できる点をいくつか見つけました。例えば、国家の行動は、国際システムレベルの要因だけでなく、国内レベルや個人レベルの要因によっても形成されるということを再認識させられました。一方、サム・ハンティントンがかつて主張したように、社会科学者の主な仕事は、重要な出来事を引き起こしたであろう単一または複数の強力な要因を見つけ出し、それをできるだけ単純に説明することです。構造的リアリズムは、この目的のための優れた分析ツールです。この観点で説得力を持って戦争の原因を説明すべきならば、他のレベルの複数の原因を取捨選択することは、方法論的に問題ないでしょう。

第1に、NATOの拡大がロシアのウクライナ侵略の主因であるという十分な証拠があります。プーチン大統領はバイデン大統領と会談した際、ウクライナがNATOに加盟しないとの確約を求めましたが拒否されました。プーチンは再びストルテンベルグNATO事務総長に、ウクライナがNATOに加盟しないという確約書を求めましたが、同様に拒否されました。バーンズはワシントンへの機密文書で、ロシアにとってウクライナのNATO加盟はモスクワのレッドラインだと警告しました。にもかかわらず、アメリカはウクライナを自国の同盟構造に事実上組み入れる『戦略的パートナーシップ』を進めたのです。そしてロシアはしばらくしてウクライナに侵攻しました。

第2に、NATOの拡大はロシアと西側のパワー配分を劇的に変化させました。冷戦終結後、NATO加盟国の数はほぼ倍増したのです。その結果、ロシアは相対的に深く衰退しました。これは、あなたが前作で大戦争の原因を特定した際に強調した、典型的な「予防戦争」の原因です。そもそもプーチンは、冷戦後のヨーロッパにおける現状維持を選好していました。にもかかわらず、なぜプーチンは戦争の動機を高めたのでしょうか。外部からの刺激なしに、プーチンが帝国主義に転じたと説明するのは不可能に近いでしょう。むしろロシアは、ウクライナのNATO加盟を自国の存亡にかかわる脅威だと認識したのです。プーチンはそれを防ぐために戦争を始めたのであり、侵攻直後の声明でもそう述べています。これが彼のプロパガンダだという証拠はあるのでしょうか。要するに、(戦争になるのであれば)『早いに越したことはない』という論理が、プーチンをはじめとするクレムリンの主要な指導者たちを突き動かしたのです。

第3に、北欧諸国が開戦後にNATO加盟を申請したことは、戦争の原因とは何の関係もありません。これは、シカゴ大学であなたの指導教官だったスティーブ・ウォルトが構築した『脅威の均衡理論』で説明できます。繰り返しますが、ロシアにとってのレッドラインは、ウクライナのNATO加盟への動きだったのです。

上記の私の主張があなたを完全に納得させることにはならないでしょうが、ロシアのウクライナ侵攻が『予防戦争』であったことを否定するならば、戦争の原因に関するあなた自身の理論の妥当性にも疑念が投げかけられることになります」。

*「脅威の均衡理論」とは、攻撃的意図を持つ強力な国家に地理的に近かければ、それらの国家は、軍備増強や同盟形成といった対抗策を講じるようになるという有力な国際関係理論のことです。サミュエル・ハンチントン氏は、ハーバード大学の著名な比較政治学者でした。

批判的思考の欠如と論壇の貧困
長い記事になってしまいましたが、これらはコープランド氏と交わした意見のほんの1部です。こうしたやり取りを読んだ皆さまは、どのような感想をお持ちになったでしょうか。私が彼との意見交換をあえて投稿したのは、民主主義における「開かれた議論」と「建設的な相互批判」の大切さを訴えたかったからです。「言論の自由」は、民主主義を支える根幹です。にもかかわらず、われわれはウクライナ戦争に関する言論空間で、道徳的な自己検閲をかけたり、声の大きな人たちに忖度したりしていないでしょうか。そうであれば、我が国の現在の論壇は、誠に不健全であると言わざるを得ません。

私は、ウクライナ戦争の継続を擁護する学者や識者の主張、すなわち、「ロシアがウクライナに勝ってしまうと、独裁者たちがあちこちで侵略を企てる、恐ろしいジャングルのような世界になる」とか、「リベラル国際秩序を守るために、何としてもロシアを敗北させなければならない」とか、「ウクライナへの支援は、民主主義を守ることである」とか、「ロシアのウクライナ侵攻の原因をNATO拡大に求めるのは、プーチンを擁護する親露派の言い分だ」とか、「ロシアを敗北させないと、中国が大胆になって台湾に侵攻する可能性が高まる」といった言説には、真正面から反論してきました。なぜならば、私は、それらが論理も根拠も弱いと判断したからです。くわえて、たとえ、それらの反論が結果的にロシアを利する内容を含んでいるとしても、事実ならば、それに口をつぐんではいけないのです。事実こそが、学術論議や政策論議の基盤を提供することは、誰でも認めるでしょう。なお、偽情報を無分別に警戒してしまうと、人々はデジタル空間での言論統制に肯定的になることも分かってきました。「ロシアからの発信は全て偽情報でありプロパガンダである」というステレオタイプは、言論の自由を侵食してしまうのです。重要なことは、ロシアに関する数多くの情報から、シグナル(信号=事実)を拾い上げて、ノイズ(雑音=偽情報)を排除することです。

誠に残念なことに、我が国の「国際政治学者」たちとは、コープランド氏と交わしてきたような意見交換はできませんでした。大半の日本人の「国際政治学者」や「軍事専門家」とは、相互の議論が成立しないのです。この根本原因の1つは、おそらく社会科学の基礎的な方法、とりわけ「価値中立」に立脚して事実や真実を出来る限り客観的に追究するという職業上の行動規範が、我が国の「国際政治界隈」に定着していないからでしょう。

学問の世界では、学者仲間の友情を深めることより、真実の探求が優先されなければなりません。同時に、上記の学問的な作法を共有している学者同士ならば、どれだけ激しく相互に批判したとしても、それが論理と根拠にもとづくものであれば知的交流を保てるのです。私は、コープランド氏以外の海外の学者(例えば、「核使用のタブー論」で有名なニナ・タネンワルド氏など)と何度も率直な意見交換をしています。それにより相手との関係が崩れたことは、ほとんどありません。われわれは素直に、アメリカを中心として活躍する優れた政治学者の学問的営為をもっと見習うべきだと強く思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

核武装が招く「予防戦争」のリスク

2024年04月12日 | 研究活動
核兵器を開発したり、保有したり、配備したりしようとする国家は、「予防戦争」を誘発するリスクを負います。このことは国家安全保障上の重要なテーマであるにもかかわらず、我が国では、ほとんど議論されることがないようです。そうした日本の言論空間の隙間を埋めるために、私は、この記事を書くことにしました。国家は核武装する際、敵対国から、それを阻止したり遅らせたりするための「予防戦争」や「予防攻撃」を仕掛けられる恐れがあります。その一方で、現在の核兵器保有国は、そうした武力行使に妨害されることなく核武装を成功させました。はたして核拡散(核兵器を保有する国家が増えること)を封じようとする予防的な軍事介入は、どのような条件が整えば実行されるのでしょうか。

核武装、予防戦争と政治指導者の信念
これは現代世界における最も重要な問題の1つです。なぜならば、新たな核拡散と予防戦争が現実味を帯びているからです。伝えられるところによれば、イランの核兵器の開発は加速化しており、アメリカは同国の核保有を「許さない」と警告しました。そのイランは先日、イスラエルに対してドローンなどによる直接攻撃を行いました。これに対してイスラエルのネタニヤフ首相は、「我々に危害を加える者には反撃する」との声明を発表しました。もはや両国は「一触即発」の状態であり、かねてからイランの核開発を懸念していたイスラエルが、それを阻止するための「予防攻撃」へのインセンティブを高めそうな気配です。核不拡散を研究するシンクタンクの研究員であるアンドレア・ストリッカー氏は、イランが核兵器の製造に近づくと、イスラエルもしくはアメリカによる関連施設への「予防攻撃」を招きかねないと、かねてから警告していました。今回のイランによるイスラエル本土への武力行使は、この予防攻撃の実行を促す「触媒効果」として作用してしまうことが懸念されます。

それでは何が核拡散を阻止する予防攻撃を引き起こすのでしょうか。このパズル(謎)に取り組み、1つの答えをだしたのが、若手政治学者のレイチェル・エリザベス・ウィットラーク氏(ジョージア工科大学)による力作『あらゆる選択肢が検討されている—指導者、予防戦争、そして核兵器の拡散—』です。彼女によれば、政治指導者は、核兵器の拡散が国際システムを不安定化したり、抑止不能な核武装した敵国を台頭させたりすると恐れる、「核の悲観主義(nuclear pessimism)」 の信念を持つと、敵国の核武装を防ぐために軍事攻撃を行うか、少なくとも、そのようなオプションの実行を真剣に検討するということです。この仮説を検証するために彼女が取り上げた事例は、中国の核兵器開発計画に対するケネディ大統領とジョンソン大統領の対応、北朝鮮の核開発計画に直面したブッシュ(父)大統領、クリントン大統領とブッシュ(子)大統領の核拡散防止をめぐる政策決定、イスラエルの歴代首相によるイラク、シリア、パキスタンの核武装化に対する予防攻撃の意思決定過程です。



核兵器開発計画が引き起こした予防戦争の事例
核拡散について悲観的な信念を持っていたケネディ大統領は、中国が核兵器の保有に向かうことを深く憂慮して、その関連施設を破壊する軍事介入をかなり真剣に検討しました。しかしながら、その選択肢が実行されなかったのは、彼が大統領の任期の途中で暗殺されてしまい、後任のジョンソン大統領が中国の核武装をアメリカへの直接的な脅威とはみなさなかったからだと本書は論じています。イラクの核開発計画について、「核の楽観主義者(nuclear optimist)」だったブッシュ(父)大統領は、同国がクウェートに侵攻して国際秩序を脅かしたことに付随して懸念した程度であった一方で、クリントン大統領は核の悲観主義者であるがゆえに、イラクの大量破壊兵器関連施設に対する「砂漠の狐」作戦を実行したのみならず、北朝鮮の核兵器開発を阻止する外科手術的な予防攻撃も発動する寸前でした。後者が実行されなかったのは、カーター元大統領が電撃的に平壌を訪問して金日成国家主席と会談した結果、金氏が国際原子力機関(IAEA)の核査察を受け入れる意思を示したことをきっかけとして、同国の核開発を凍結する「枠組み合意」が成立したからだということです。要するに、これで北朝鮮への核拡散を防ぐことができる目途が立ったので、軍事介入は不要になったということです。その後、ブッシュ(子)大統領は北朝鮮が密かに核兵器を開発していたことを知りましたが、2003年から始まったイラク戦争の泥沼化により、軍事オプションによる阻止を試みる余裕を持てなかったようです。

そのイラク戦争は、ブッシュ(子)大統領がサダム・フセイン政権の核保有を阻止するために行ったものでした。彼は父とは違い、核拡散の悲観主義者でした。そして9.11テロ事件は、イラクの核兵器がテロリストにわたり、それがアメリカの安全保障を脅かすことへの恐怖を増幅させました。テロリストと結びついた核兵器を持つサダムは、封じ込めることも抑止することもできないという判断が、ブッシュ政権をイラクに対する予防戦争へと駆り立てたのです。

本書では、さらにイスラエルのベギン政権とオルメルト政権が、それぞれイラクとシリアの原子炉を破壊する軍事作戦を決定して実行する過程も克明に分析されています。くわえて、ベギン政権はパキスタンの核武装を阻止する共同軍事行動をインドに打診しましたが、不首尾に終わりました。これはあまり知られていない事実でしょう。なお、イスラエルがパキスタンの核武装を恐れたのは、主要な直接の敵国だからということではなく、イスラマバードの核兵器が敵対するイスラム国家に渡るのを恐れてのことでした。その一方で、ラビン政権のイスラエルは、イラクの核関連施設を大胆に攻撃するより国防軍を強化することによる抑止を選好しました。なぜならば、ラビン首相は核拡散に対して、それほど悲観的ではなかったからだというのが、ウィットラーク氏の結論です。

予防戦争を招かなかった核武装の事例
このウィットラーク氏の理論は、敵国からの同じような核武装の脅威に直面したアメリカやイスラエルが、その政策決定に最も重要な影響力を行使できる大統領や首相の核兵器に関する信念により、対応が異なることをよく説明できます。すなわち、国家の最高指導者が「核の悲観論者」の時には、敵国の核施設を叩く「予防戦争」に走りやすい一方で、「核の楽観主義者」の時には、抑止政策を選択するということです。ただし、政治指導者の信念が国家の意思決定で果たす役割の程度については、かなり議論の余地を残しています。彼女自身も認めているように、この理論では、なぜアメリカやイスラエル以外の国家は敵の核武装を阻止する予防攻撃に傾きにくいのか、うまく説明できないのです。

大半の核拡散の事例では、予防戦争は起こっていません。ソ連やイギリス、フランスはもちろんのこと、イスラエルやインド、パキスタン、南アフリカも敵対国からの軍事攻撃により妨害されることなく核保有国になりました。こうした核拡散のパズルについて、アレキサンダー・デブス氏(イェール大学)と故ヌノ・モンテーロ氏は大著『核政治』において、すべての核拡散の事例を詳しく調べた結果、国家の核武装を成功させる必要条件が、それを阻止するための予防戦争を敵対国に躊躇させるだけのパワーを持つことであると結論づけています。確かに、彼らが言うように、ソ連やイギリス、フランスは国際システムにおける強力な主要国である一方で、核兵器の開発計画を予防攻撃で阻止されたり遅延させられたりしたイラクやシリアは、中級程度を下回る国家といえるでしょう。このことは核拡散の成否が国家間に配分されたパワーに左右されることを示しています。その一方で、国家の意思決定者に焦点を当てた理論には、核拡散の「母集団」の一部分しか説明できないという限界があるのです。

直視すべき核武装に伴う予防戦争のリスク
こうした核拡散といった核兵器をめぐる国際政治については、優れた学者たちによる研究が急速に進んでいます。この記事で取り上げたウィットラーク氏による学術書も、その1つです。これらの地道な実証研究の結果から今の段階で言えることは、ある国家が核武装を進めるにあたっては、①敵対国に軍事力といったパワーの指標で劣る場合、②敵対国の政治指導者が「核の悲観主義者」である場合、予防攻撃を受けやすくなるということでしょう。核兵器の保有に向けた計画とそれが引き起こすであろう予防戦争は、我が国にとっても他人事ではありません。

この記事の冒頭で述べたように、日本人の生活に不可欠な石油の輸出先である中東地域では、イランの核兵器開発計画がイスラエルの予防攻撃を招くリスクを高めてきました。①について、イランはアメリカとイスラエルの事実上の「同盟」に国力で劣ります。ただし、イランはイラクやシリアより国土が広く、軍事力も強力であるために、その核関連施設を武力行使により破壊することは、イラクやシリアの事例より明らかに困難であり、反撃されることに伴うコストも高くなります。このことはネタニヤフ氏やバイデン氏にイランへの予防攻撃をためらわせるよう働くでしょう。

②について、ウィットラーク氏は、「ネタニヤフが核拡散の悲観主義者であるのは明らかだ…バイデン大統領は歴史的に公の場で繰り返して、イランの核兵器を未然に防ぐ武力行使を支持してきた…彼はトランプやネタニヤフと同様、核拡散の悲観主義者である」と分析しています(『あらゆる選択肢が検討されている』、192ページ)。実際、かつてバイデン氏は、イランの核武装を阻止するための最後の手段として、武力行使を用意していると述べました。ただし、現在のアメリカはウクライナにおけるロシアとの「代理戦争」にかなりの国力を割いているだけでなく、台頭する中国を封じ込めなければならないために、イランを攻撃することには限られた戦略的資源しか投入できませんので慎重になっています。バイデン氏はイスラエルによるイランへの反撃作戦に参加せず、そうした作戦にも反対だとの考えをネタニヤフ氏に伝えたそうです。これにネタニヤフ氏も理解を示したということです。

しかしながら、これでイランの核開発をめぐる予防戦争の危険が消えたわけではありません。そしてイランとイスラエルもしくはアメリカが戦火を本格的に交えることになれば、これが日本に悪影響を及ぼすのは必至です。

隣の韓国では、ある世論調査によれば、7割の国民が独自の核武装に賛成しています。同時に、韓国の核武装に関するデメリットとしては、厳しい経済制裁を招くとか、米韓同盟にヒビが入るとか、核拡散のドミノが起こる、といったことが指摘されていますが、予防攻撃を受けるリスクの評価までには、ほとんど話が及んでいないようです。しかし、核拡散に伴う最大の危険は、韓国のケースでも予防戦争の招来なのであり、そうなった場合、地理的に近い日本の安全保障は損なわれることになるでしょう。

ウクライナ戦争におけるロシアの核威嚇は、多くの人たちに核抑止の効用を再認識させているようですが、核抑止力を持つまでのプロセスにおける予防戦争のリスクとメカニズムは見過ごされているようです。この考えたくもない恐ろしい問題に正面から取り組むみ、核拡散に対する政治指導者の悲観的な信念が予防戦争と結びついていることを明らかにした『あらゆる選択肢が検討されている』は、我が国で、もっと広く読まれるべきだと私は強く思います

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畏友・宮下明聡氏の死を悼む

2024年02月07日 | 日記
私にとって、良き研究仲間であり、優しい友人であり、教師のような存在でもあった、政治学者の宮下明聡氏(東京国際大学)が急逝された。世界の政治学界/国際関係学界は、偉大な学者を失った。これは決して誇張ではない。彼はトップクラスの学者として日本国内にかぎらず海外でも活躍していたからである。宮下氏は、コロンビア大学政治学部博士課程を修了して、Ph.D.の学位を取得しており、同じ時期に大学院生だったポール・ミッドフォード氏(明治学院大学)が、Facebookに寄せた追悼メッセージには、世界中の政治学者から彼を悼む「コメント」が続々と寄せられている。これは宮下氏が、いかに世界中で評価されていたのかを示す、何よりの証拠であろう。

私が宮下氏と最初に会ったのは、今から30年以上も前のことである。当時、私は大学院生であり、海外から日本に留学していた博士候補生や若手の研究者と勉強会を持っていた。彼は博士論文の資料を収集するために日本に一時帰国した際に、この勉強会に顔を見せたのであった。この勉強会のメンバーは、2週間から1月に1回のペースで原宿や神楽坂のカフェに集まり、注目度の高い政治学や国際関係論の研究書や論文について意見交換するというものであった。勉強会は、資料を選んだメンバーが、その要約と評価を行い、その後で意見を交換するという流れで進められた。使用する言語はもちろん英語だ。私は、ここでどれほど学問的に鍛えられたか分からない。

宮下氏に対する私の最初の印象は、物静かな大学院生というものであった。世界中から俊英が集まり切磋琢磨しているであろう、コロンビア大学大学院の博士候補生にしては、おとなしい人という印象であった。しかし、彼が思慮深く、鋭い批判的思考の持ち主であることは、すぐに分かった。宮下氏は舌鋒鋭く批判を述べるタイプではなく、静かな口調で誰もが考えさせられるような問題提起や論理矛盾を淡々と述べる、高度に知的な人物だったのだ。

その後、宮下氏はコロンビア大学に戻り、博士論文を完成させた。彼の論文テーマは、当時、世界の政治学者が盛んに議論していた「外圧反応型国家」論争に関連づけられており、日本が国益を損なう時でさえ同盟国であるアメリカの圧力を受けて、その海外援助政策を変更してきたパズルを説明することであった。そして、この研究成果は、Limits To Power: Asymmetric Dependence and Japanese Foreign Aid Policy, Lexington Books, 2003として出版された。本書には、そうそうたる学者が賛辞を寄せている。T. J. ペンペル氏(カリフォルニア大学バークレー校)、渡邊昭夫氏(東京大学)、そして、彼の指導教授であったジェラルド・カーティス氏(コロンビア大学)である。

宮下氏は、その後も「外圧反応型国家」論争に関心を持ち続けて研究を進めた。圧巻なのは、この政治学の難問について、国際チームを結成して共同研究を行い、一定の答えを導き出したことだろう。彼は、佐藤洋一郎氏(立命館アジア太平洋大学)と編んだ高著『現代日本のアジア外交―対米協調と自主外交のはざまで―』ミネルヴァ書房、2004年(英語版は、Japanese Foreign Policy in Asia and the Pacific: Domestic Interests, American Pressure, and Regional Integration, Palgrave, 2001)において、「日本はアメリカと利害の一致する場合には協力を続けることもあろうが、そうでない場合にはより独立した外交政策を展開するであろう」(270頁)という結論を下している。なお、この研究には、国内外のトップクラスの学者が参加しており、それをまとめ上げた宮下氏の手腕がひときわ光ってる。

日本に帰国して母校の東京国際大学に職を得た宮下氏は、私に研究会を持とうと声をかけてくれた。もちろん、私が喜んで賛成したのはいうまでもない。そして私たちは、数名の知り合いを集めて定期的な研究会を開催することにした。そこで最初に資料として選んだのが、Colin Elman and Miriam Fendius Elman, eds., Bridges and Boundaries: Historians, Political Scientists, and the Study of International Relations, The MIT Press, 2001だった。本書は、国際関係を研究する歴史学者と政治学者が、両者の共通点や相違点などを探究する内容である。ここでは方法論的な多様性を擁護しつつも、著名な歴史学者と政治学者が、相互に激しく批判し合っていた。我が国の「国際政治学」は、歴史的アプローチと理論的アプローチが「共生」していると肯定的に評価されることがよくあるが、私は、それが「馴れ合い」のようにも感じられて、もやもやとした感情を抱いていた。エルマン夫妻が編集した本書は、国際関係研究における歴史学と政治学の相違点を明確に示していたので、私の頭の中にあった「わだかまり」を吹き飛ばしてくれた。これに衝撃を受けた私は、宮下氏に「本書を翻訳して、日本の読者に紹介しましょう」と提案した。彼は二つ返事で同意してくれた。こうして上記書の訳出が始まったのであるが、その後で、私は自分の翻訳の提案に半分後悔することになる。



宮下氏は「職業としての学問」(マックス・ウェーバー)において、仕事の「鬼」であった。私は、第9章「冷戦史研究における資料と方法」(デボラ・ウェルチ・ラーソン氏)、第10章「コメントー歴史科学と冷戦研究―」(ウィリアム・ウォールフォース氏)、第11章「国際関係史と国際政治学」(ロバート・ジャーヴィス氏)、第12章「国際関係史」(ポール・W.シュローダー氏)を担当した。どの論考も力作であり、それらを訳出することで、私の国際関係研究における歴史学と政治学への理解は深まった。しかしながら、訳文は簡単には訳書にはならなかった。宮下氏は私が訳出した日本語に、それこそ何十回も手を入れたのである。私が訳文を見せるたびに、それに彼は真っ赤になるほど修正の筆を入れたのであった。そうしたやり取りが延々と続いた。私は半分うんざりしてしまい、「完璧は無理です。ある程度で妥協しましょう」と申し出たが、彼はこれを断固拒否した。私が彼による代替訳文を受け入れなかった際には、「なぜそうしないのですか、納得のいくように説明してください」と、静かながら厳しい口調で言ってくるのである。彼を説得できる反論を持ち合わせていなかった私は、彼の示唆にしたがわざるを得なかった。というより、彼の指導に従うべきだったのだ。私が宮下氏を教師のような存在であったというのは、こうした理由からである。

この翻訳プロジェクトは、コリン・エルマン/ミリアム・フェンディアス・エルマン編『国際関係研究へのアプローチ—歴史学と政治学の対話—』東京大学出版会、2003年として公刊された。私は、この仕事に誇りを持っている。自画自賛といわれるかもしれないが、これはよい翻訳書になったと確信している。これも宮下氏のリーダーシップの賜物である。この仕事を彼と共同で行ったことにより、私がどれだけ「職業としての学問」を学んだことだろうか。彼には感謝してもしきれない。

宮下氏とは、その後も知的交流は続いた。防衛省海上自衛隊幹部学校の指揮幕僚課程が「政策と戦略」を全面改訂する際、私と宮下氏そして田中康友氏(北陸大学)で、新しいプログラムを作ったことが懐かしく思い出される。「一人で研究していても息苦しくなってしまい、生産性もあがらないでしょうから、勉強会を持ちませんか」と誘われて立ち上げた「国際関係理論研究会」は、今でも続いている。そこには、我が国の国際政治学界は社会科学の方法論や理論をより重視すべきであるという問題意識を共有する研究仲間が集い、数か月に1回のペースで、国際的に注目されている研究動向や自分の研究をまとめて発表して討論したり、トップ・ジャーナルに掲載された意欲的な学術論文を取り上げて議論したりしている。それまで必ず研究会に出席してきた宮下氏が、1月下旬の会合に無断で欠席したので、仲間と「どうしたのでしょうね」と話していた矢先に、彼の愛弟子の西舘崇氏(共愛学園前橋国際大学)から、彼が急逝したとの訃報を知らされたのである。その時、私は宮下氏の死をどうしても信じられなかった。私の頭に浮かぶのは、彼の温和な笑顔しかなかったからだ。

宮下氏には、私が最近に共同研究の成果として出版した『インド太平洋をめぐる国際関係』芙蓉書房出版、2024年を献本したばかりであった。刊行する前に、本書に寄稿した拙論「構造的リアリズムと米中安全保障競争」の草稿を宮下氏に見せてコメントを依頼した際、彼らしい鋭いコメントが寄せられた。もし拙論が読むに耐えるものになっているとすれば、それは宮下氏の指導のおかげである。私は、研究論文を執筆した際には、そのほとんどすべての草稿を宮下氏に読んでもらいアドバイスを仰いできた。そのたびに、彼は貴重な時間を割いて読んで下さり、質の高いコメントや批判を戻してくれた。このような素晴らしい研究仲間を持てた私は、なんて幸運だったのだろうと、あらためて思わずにはいられない。それだけに、彼がこの世を去ってしまった喪失感はとてつもなく大きい。

私は宮下氏とは、国際関係研究における社会科学方法論と理論の大切さと有用性の意識を共有し続けた。そして、私たちは、我が国の国際政治学界に社会科学方法論に関する優れた学術書を紹介する努力を行ってきた。私は、渡邊紫乃氏(上智大学)とスティーヴン・ヴァン・エヴェラ『政治学のリサーチ・メソッド』勁草書房、2009年を翻訳した。宮下氏は泉川泰博氏(青山学院大学)とヘンリー・ブレイディ/デイヴィッド・コリアー『社会科学の方法論争(第2版)』勁草書房、2014年を翻訳した。とりわけ後者の巻末にある用語解説は、主要な社会科学のキーワードや概念を理解するには、きわめて便利で役に立つものである。これだけでも同書には高い価値がある。ここでも彼は素晴らしい仕事を成し遂げている。

国際関係研究を志す若い人は、宮下氏の遺志を継いでほしいと願わずにはいられない。この分野を目指す人たちには、少なくとも社会科学の方法論に立脚した研究を目指していただきたい。我が国の「国際政治学」は数理的・定量的研究は別にして、事例研究を用いる定性的研究では、歴史的アプローチや記述的アプローチなどが混然一体としており、はたして厳格な社会科学方法論にどれだけもとづいているだろうか。とりわけ、日本外交研究では、社会科学の方法論が置き去りにされがちではないだろうか。だからこそ、宮下氏は『現代日本のアジア外交』の結論において、「日本外交政策の研究に方法論上の厳格性を取り入れるという目的は、それなりに達成された」(273頁)と同書のオリジナリティと学術的意義を宣言したのである。もし、若手や大学院生が手本となりそうな宮下氏の方法論や理論に厳密な論文を示してほしいと言われたら、"Where Do Norms Come From? Foundations of Japan's Postwar Pacifism," International Relations of the Asia-Pacific, Vol. 7, No. 1, 2007を上げたい。これは、日本の「反軍主義」や「平和主義」は規範で説明されることが多かったところ、構造的・物質的要因に影響されていることを見事に論証した論文である。この論文の被引用回数は112件であり、とても高く評価されている。ご一読を強くお勧めしたい。

この場を借りて、宮下明聡氏のご冥福を心よりお祈りする次第である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界は核武装国が好き勝手できるようになるのか

2023年11月15日 | 研究活動
ロシア・ウクライナ戦争や中東のガザ地区でのイスラエスとハマスとの「戦争」は、われわれに国際関係における利害対立や武力衝突の危険を再認識させました。こうした混沌とした世界の動きを読み解くためには、国際関係理論がとても役に立ちます。この知的ツールを利用すれば、世界で起こっていることを完全に理解できないまでも、世間の注目を集める国際的な出来事について、その都度、直観的に考えるより、はるかに正確な考察ができるでしょう。人間は「代表性ヒューリスティック」、すなわち、自分が注目した衝撃的なニュースなどを典型的で普遍的な事象の代表と勘違いしがちです。しかしながら、ある特定の出来事は、それを構成する母集団のほんの1つのサンプルに過ぎません、もしかしたら、例外的な事象(外れ値)かもしれません。こうした認知バイアスを避けるには、国家間の関係の一般的パターンを説明する理論を使うことが有効です。

核武装国と強制行動
国際関係にアプローチする際に、なぜ理論的分析が役に立つのか、1つの例を挙げて説明します。我が国では、ロシアがウクライナを侵攻するにあたり、核兵器の威嚇によりNATO(北大西洋条約機構)をけん制したことから、「ロシアを敗北させなければ、核武装国が好き勝手にできてしまう世界になる」という言説が一部でささやかれています。しかしながら、政治学の標準的な研究は、そのような主張を否定しています。トッド・セクサー氏(ヴァージニア大学)とマシュー・ファーマン氏(テキサスA&M大学)は、核武装国が行った強制外交、すなわち核恫喝により相手国の行動を意のままに動かそうとしたことを統計分析と事例研究で詳しく調べた結果、それらの試みは軒並み失敗してきたことを明らかにしています。

ここで注意していただきたいのは、強制外交とは、国家が軍事力の威嚇により、自らの政治的意思を相手国に戦争をせずに受け入れさせることです。これに失敗した場合、強制する側は、武力を引っ込めるか、それとも行使して戦争に訴えるかのどちらかを選択するよう迫られます。ロシアのプーチン大統領は、アメリカのバイデン大統領にウクライナがNATOに加盟させないことを約束するよう迫りましたが断られました。そこでクレムリンは、ウクライナ国境付近に大量のロシア軍を展開して、再度、NATOに同じ要求を書面で誓約するよう要求しました。しかしながら、NATO事務総長のイェンス・ストルテンベルグ氏は、これを拒否しました。これによりプーチンらの指導者は、振り上げた拳を下すか振るうかの選択に直面して、後者、つまりウクライナ侵攻に至ったということです。要するに、ロシアは強制外交に失敗したから、戦争を決断したのです。

核恫喝を盾にした侵略
ロシアは核兵器でウクライナやその支援国を威嚇することにより、同国に供与される兵器の種類や量を制約させたり、NATO加盟国による直接の軍事介入を阻止したりしているようにみえます。これは核兵器による強制ではなく、抑止になります。抑止とは、相手国に望ましくない敵対的な行動を思いとどまらせることです。これは国家が相手国に既にとった特定の行動を自らの要求に従って変更させる強制とは異なります。

抑止は強制よりも成立しやすいというのが、政治学の常識です。なぜ、そうなるかといえば、人間は利得より損失に敏感だからです。プロスペクト理論が示唆するように、政治的指導者は損失を避けようとする際には、リスクを冒しても頑迷に抵抗する傾向があります。だから、国際関係では現状維持の方が現状変更より達成しやすいのです。

ロシアの核兵器による威嚇は、ウクライナ侵攻において、おそらく「シールド(盾)」のような役割を果たしたのでしょう。すなわち、モスクワは核兵器による懲罰の脅しを西側諸国にかけることで、その軍事介入やロシア本土への打撃を抑止する一方で、ウクライナへの通常戦力による侵略を実行しやすくしたということです。これは古くから「安定と不安定のパラドックス」(グレン・スナイダー氏)として、よく知られています。この理論は核戦争へのエスカレーションのリスクが全面戦争を防いでいる状況において、通常戦力による戦争の可能性がかえって高まってしまうという逆説的な現象を説明しています。近年の「核シールドの理論」は、これを肯定するものです。核武装国は相手国を破滅させられる核兵器の第二撃能力を持つと、究極の生き残りを確実にできるので、通常戦力を使った行動をとりやすくなるというのです。

それでは、この核シールド理論は、どの程度の一般性を持っているのでしょうか。前出のセクサー氏とファーマン氏によれば、この理論は「俗説」のようなものだということです。

「神話8:核兵器は侵略のシールド(盾)になる……これが正しければ、核武装国は既成事実化により現状を自国にとって有利に変更できる……2014年初め頃のロシアによるクリミア編入は、これがいかに上手くいくかを例証するものだ……我々は、このシールドの主張をテストしたところ、物足りないことが分かった。国家が核兵器を保有しても、(1)強制の威嚇を発したり(2)領土の現状維持に軍事力により挑戦したり(3)領土をめぐる現存する紛争を拡大したり(4)軍事力を使って領土紛争を有利に解決したり出来るようにはならない。核武装国による軍事力を使った領土の現状変更への挑戦は、大きな変更を生じさせることに7割がた失敗している……我々は1つや2つの事例を一般化する際には慎重になるべきだ……1999年のカーギル危機での冒険が領土の現状維持に変更をもたらさなかったことを思い出すのは大切だ」(同書、250ページ)。



そのカーギル危機において、核武装したパキスタンは核保有国のインドとの領土紛争を優位にしようと通常戦力に訴えましたが、結局のところ失敗しました。

核兵器による強制外交は、①政治目的を通常戦力で達成できるかどうか、②強制に賭けるものがどのくらい大きいものなのか、③強制を実行する際に支払うコストはどの程度になるのか、といった要因に左右されます。ロシアが核恫喝で西側をけん制しながらクリミア半島を編入して既成事実化したことや、1962年10月のキューバ・ミサイル危機において、ケネディ政権がソ連のフルシチョフ首相にキューバに配備した核ミサイルを強制的に撤去させたことは、②の条件を満たす稀な事例でしょう。

ダビデがゴリアテを倒す世界
現代における国際関係は、核武装した大国が中小国の抵抗にあったり振り回されたりするストーリーに満ちています。セクサー氏とファーマン氏によれば、核武装国の強制は、第二次世界大戦から2001年までの全ての事例において、40件も失敗しています。核兵器を持たない小国でも核大国に平気で歯向かうのです。プエブロ号事件において、超大国のアメリカは小国の北朝鮮に振り回されました。1968年、アメリカの情報収集艦プエブロが北朝鮮に拿捕され、乗組員のアメリカ人は人質にとられました。アメリカは原子力空母や戦略爆撃機を北朝鮮周辺に展開して、同号の返還と人質の解放を要求する「瀬戸際外交」を展開しました。しかしながら、北朝鮮は強硬な態度を貫きました。結局、アメリカは人質を解放させるだけにとどまり、北朝鮮に対して謝罪することに追い込まれただけでなく、プエブロ号を取り戻せませんでした。その他、マヤグエース号事件のカンボジア、米大使館員人質事件のイランなどもアメリカに盾付き、武力の威嚇による要求も受け入れず抵抗しました。

日本が尖閣諸島を国有化した際に、中国は核兵器で脅して、この問題を自国にとって有利にしようとしましたが、日本政府にはまったく効きませんでした。多くの事例では、核による強制は、それを成立させる条件が満たされないので、その威嚇は信頼性に欠けてしまいます。その結果、国家は核兵器で恫喝しても、相手はそう簡単には言うことを聞かないのがしばしばなのです。

要するに、政治学の常識は、核兵器による強制を否定しているのです。このことについて、ジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)とセバスチャン・ロザート氏(ノートルダム大学)は、「核兵器による強制の理論は、核兵器を持つ国家が、それを使って非核国を脅して……その行動を変えさせられるという……しかし、この理論を経験的に検証したところ、学者のコンセンサスは、これには信ぴょう性がないということであった」(John J. Mearsheimer and Sebastian Rosato, How States Think: The Rationality of Foreign Policy, New Haven: Yale University Press, 2023, p. 58)と結論づけています。

強制外交だけでなく戦争においても、核武装した大国は小国に何度も敗れています。冷戦の二極システムにおいて、アメリカはベトナム戦争で北ベトナムに敗れました。これはソ連と中国というパトロン大国がクライアント国である北ベトナムを支援したからだと説明できるかもしれません。それでは、ニクソン政権は核兵器による脅しを北ベトナムにかけて屈服させようとした強制外交は、どうだったでしょうか。これはハノイ政権には全く効きませんでした。アメリカの核恫喝は北ベトナムから何の譲歩も引き出せなかったのです。冷戦後の単極時代には、アメリカはアフガニスタンとイラクに侵攻しましたが、これらの「永久戦争」において、アメリカは事実上、敗北しました。アメリカ以外の大国も小国に対する戦争で何度も苦戦もしくは敗退しています。1979年、ソ連はアフガニスタンに侵攻しましたが、これはみじめな失敗に終わりました。中国はベトナムに対して「懲罰戦争」を行いましたが、その結果は「勝利」とは程遠いものでした。

羊飼いのダビデが巨人兵士のゴリアテを倒す物語は、『旧約聖書』に載っている有名なものです。国際政治の世界において、このストーリーさながらのことは、私たちの直観に反して何度も起こっているのです。国際関係の分析において、感覚的な思考や判断はあまり当てにできないからこそ、信頼性のある理論(=政治学の常識)が必要になるのです。こうした点について、政治学者の河野勝氏(早稲田大学)は次のように主張しています。「メディアに登場するコメンテーターや評論家たちが、何の根拠もなく、また政治学の常識からすると明らかに間違った解説を平気で述べていることに対しては、『プロ』としてチェックの目を働かせ、時には憤りを感じて彼らを批判し、学生たちに対してはそうした素人たちの誤りを見抜くリタラシーを高めよ、と教育する(のだ)」(河野勝『政治を科学することは可能か』中央公論社、2018年、ivページ)。私がどれだけ能力のある「プロ」なのかはさておき、この指摘には頷くしかありません。核武装国が中小国に対して無理難題を強要できるようになるという言説は少なくとも、核兵器を使用することのコストとリスクを軽視しているだけではなく、損失を回避するためにリスクを顧みずに死に物狂いで抵抗する中小国の行動を理解していない「俗説」、すなわち「政治学の常識」に反するといってよいでしょう。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウクライナ戦争の倫理的判断を問う

2023年09月28日 | 研究活動
政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)がアメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』に寄稿した記事「ウクライナ戦争をめぐる倫理は、とても陰鬱なものである」は波紋を広げています。彼は、リアリストが伝統的に重視する「結果(責任)倫理」の基準から、今や「通説」として定着しつつある「ウクライナ軍によるロシア軍への反攻は正しい」という言説をこう批判しました。

「もし友人が何か不用心なことや危険だと思うことをしようとする場合、その友人がどんなに強い意志を持っているとしても、あなたには、その努力を助ける道徳的義務はない。それどころか、彼らが望んだとおりに行動するのを手助けし、その結果が悲惨なものである場合、あなたは道徳的にとがめられることになる。

強硬派には、戦争に対する彼らの妥協なきアプローチが、長期的にはウクライナにより甚大な害を及ぼしうることを認めてほしい。それは強硬派が望んでいるからではなく、彼らの政策提言が生み出すものであるかもしれない。プーチンには戦争を始めた責任が…ある一方、この悲劇の責任の一端は、(NATO拡大などの)自分たちの政策がどのような事態を招くかについての以前の警告をすべて拒否した西側諸国の人々にもある。

同じような人々の多くが、戦争を継続し、賭け金を高めて、西側の支援を強化するよう声高に訴えていることを考えれば、彼らの助言がウクライナにとって過去と同じように今日も害を及ぼすかどうか、疑問に思うのは当然だろう」。

ここでウォルト氏が主張したいことのポイントは、次のようになるでしょう。①ウクライナ軍が「反転攻勢」を続けてもロシア軍を占領地から完全に撤退させられる見込はほとんどなく、むしろ、さらに多くの犠牲者を生み出すことになるだろう。こうした結果になることが分かっているにもかかわらず、それを後押しすることは倫理的に正当化できない。②国際法を破ってウクライナを侵略したロシアが悪いのは当然であるが、ロシアの言い分を無視して同国を追い詰めたのみならず、外交による戦争回避のチャンスを活かせなかったアメリカやその同盟国にも道義的責任はある。

私は、ウォルト氏の主張がもっともだと判断したので、彼のX(旧ツイッター)のアカウントに賛同する旨の投稿をしたところ、これに同意する人はほぼ皆無であるどころか、猛烈に罵倒されました。ウォルト氏や私に対する非難のパターンは、おなじみのものです。すなわち、ウクライナのロシアに対する「徹底抗戦」に少しでも疑問をはさむ人間は、恥ずべき「親ロシア派」であるということです。ご参考までに、ウォルト氏のXのアカウントに寄せられた「イイね」の数は約1200件である一方、コメントもほぼ同数です。コメントにざっと目を通したところ、大半が彼に対する批判のようでした。

正義の戦争と不正な戦争
国家間の関係をみるレベルは、4つに分けることができます。すなわち、①国際関係の基本的ロジックの「理解」、②国際関係の現象の一般的原因の「説明」、③国際関係の歴史の「記述」、④国際関係の出来事に対する倫理的「判断」、です(中本義彦「規範理論」吉川直人・野口和彦編『国際関係理論(第2版)』勁草書房、2015年、296頁)。ロシア・ウクライナ戦争の言論空間では、これら4つの次元で、さまざまな議論が展開されています。国際関係論のリアリズムやリベラリズムといった理論的パラダイムは①に関するものです。「なぜロシアがウクライナを侵略したのか」という疑問は、②についてのことです。リアリストは主としてNATO拡大、リベラル派は、民主主義の波及やプーチン大統領の帝国主義的野心とか失地回復主義の野望などに原因があると主張しています。戦争の経緯の報道は、主に③の領域になります。そして、多くの人たちは、ウクライナ戦争について、①~③の議論だけではなく、④の倫理的判断も下そうとしているのです。

われわれは、国際関係の出来事を説明したり理解したりする際に何らかの理論に頼るのと同じように、倫理的判断をする際にも、何らかの基準を必ず用いています。その際、ほとんどの人たちは、その基準を明確に意識していないようです。しかしながら、国際政治の世界にも、倫理に関する「規範理論」があり、多くの研究者が長い時間をかけて、それを発展させてきました。その代表的なものが「正戦論」でしょう。正戦論では、戦争は「正義の戦争」と「不正な戦争」に分類されます。国境を越えて武力で他国の領土に侵攻する行為は、原則として「不正な戦争」、わかりやすく言えば「侵略戦争」になります。したがって、道義的に正当化はできません。ロシアのウクライナ侵略は、もちろん「不正な戦争」として批判されるべき悪い行為です。その一方で、国家の独立や主権を守るために侵略国に武力で立ち向かうことは「正義の戦争」、わかりやすく言えば「自衛戦争」です。したがって、ウクライナがロシアの侵略に対して占領地を取り戻そうとして戦っていることは、「正義の戦争」として擁護されるべき行為ということになります。これにはリアリストもリベラル派も、ほとんど全員が同意するでしょう。もちろん、私もこの判断に異論はありません。

政治の世界における倫理的パラドックス
水戸黄門の時代劇のように、正義に立った者が常に悪者を倒すのであれば、世界の出来事は単純な倫理的規準で判断しても問題ないでしょう。人は正しいと思うことを素直に実行すればよいということになります。しかしながら、政治の世界は、必ずしも、そうなりません。すなわち、善いと思う行為が悪い結果になったり、悪いと思う為が善い結果になったりすることが珍しくないのです。たとえば、人々が平等に暮らせる世界は望ましいものであると、多くの人は考えるでしょう。共産主義国は、こうした平等な社会の建設を目指しました。その結果は、どうだったでしょうか。旧ソ連や中国、カンボジアといった国家では、特権階級あるいはブルジョワジーに属すると判断された人たちが、徹底的に弾圧されたのです。

毛沢東が始めた「大躍進政策」では、ブルジョワ階級の人たちは強制的に農業に従事させられました。だれもが農作業をやれば平等であるというわけです。しかしながら、素人が突然に農業を始めたところで、その生産力は向上しません。むしろ、大躍進は大飢饉を招きました。その結果、中国では約4500万人もの人が非業の死を遂げたのです(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』草思社、2011年)。しかも、こうした悲劇は中国だけに限られたものではありません。いわゆる「共産主義国」では、誰もが平等で幸せに暮らせる社会が創られるどころか、国家の官僚機構が国民生活を統制することにより人々の自由が奪われ、共産主義体制を脅かすという理不尽な理由などにより、反体制派に対する徹底した弾圧が断行されたのです。その結果、おびただしい無辜の市民の命が理不尽に奪われました。共産主義政権の圧政下で失われた命は、ソ連では約2000万人、中国では約6500万人、北朝鮮では約200万人、カンボジアでは約200万人といった想像を絶する数に上るのです(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』恵雅堂出版、2001年、12頁)。

「地獄への道は善意で舗装されている」という格言があります。これは政治の世界を倫理的に考える際には、決して忘れるべきではない言葉です。

逆に、悪いと思われる行為が善い結果をもたらすこともあります。その1つが相互核抑止でしょう。私が居住する周辺地域の自治体は、こんなことを言っています。「私たちは、平和を愛するすべての国の人々とともに、真の永久平和を実現することを決意し、ここに『核兵器廃絶平和都市』を宣言します」。核兵器は、ヒロシマ・ナガサキで20万人以上の市民の命を奪いました。これは文字通りの「悪魔の兵器」でしょう。その一方で、核兵器は第二次世界大戦後の「長い平和」を維持する大きな役割を果たしたと言われています。冷戦史の大家であるジョン・ルイス・ギャディス氏(イェール大学)は以下のように主張しています。

「(冷戦期に)どれほど多くの危機が米ソ関係に振りかかったことか。これが他の時代、他の敵対国間のことであれば、遅かれ早かれ戦争になっていたであろう。戦争にならなかったのは……核抑止の作用から生まれた……戦後国際システムの安定化効果……である。核兵器は、かつてならば戦争になってもおかしくないエスカレーション・プロセスを(米ソの政治指導者に)思いとどまらせた」(ギャディス『長い平和』芦書房、2002年、396-398頁)。

要するに、究極の殺戮道具である核兵器は、それが使用された場合のコストがあまりにも大きいために、核武装した国家の指導者は、相互に戦争になるような行為を避けるようになった、ということです。その結果、冷戦は国際政治史上、最も長い間、大国間戦争が起こらなかったという意味で「平和」だったのです。もちろん、核抑止は「恐怖の均衡」と呼ばれるように、核武装国同士が「絶対兵器」で脅し合うことで戦争を防ぐのですから、これを拒絶したい感情を持つ人は少なくないでしょう。相互核抑止は「過剰殺戮」という手段に訴えるものである以上、人道に反するのだから、倫理的に正当化できないという主張は、正しいように思えます。しかし、よく考えると、そうとも言えないことが分かります。なぜなら、悪である核兵器を廃絶した世界が、今よりも安全であるとは思えないからです。このことについて、ジョセフ・ナイ氏(ハーバード大学)は、核抑止をこう擁護しています。

「核兵器の恐怖につきまとう精神的な苦痛といったものは存在する。それは、いってみれば抑止の利益にたいして課せられたコストなのである……核時代の憤怒は高いものにつくかもしれない……反核十字軍運動が、かえって破局的結果を招くことにもなりかねない……絶対主義の類推にもとづく(核廃絶)政策は、核戦争の危険を小さくするよりもむしろ大きくするであろう……ある国がごまかしをやろうとしたばあい、いったいどうするのか……核廃絶に調印したからといって、そのような行動をなくせるとでもおもっているのだろうか」(ナイ『核戦略と倫理』同文舘、1988年、115、138-141頁)。

核軍縮が極度に進んだ世界は、皮肉なことに、核兵器の政治的価値を吊り上げてしまいます。そして、ある国家が少数の核兵器であれ単独で保有することになれば、それを脅しの手段として利用して、他国を支配しようとするかもしれません。そのような事態になることを恐れる国家は、敵対国の核保有を阻止するために予防戦争に訴えるインセンティブを高めるでしょう。こうして核廃絶に近づく世界は、核抑止が効いている世界より、はるかに不安定で戦争が起きやすくなると容易に予測できるのです。そして、こうした危険を避けること、すなわち、相互核抑止を維持することは、道義的に正しいと判断することができます。

結果倫理と信条倫理
政治の世界における倫理的パラドックスは、われわれに厳しい道義的判断を要求します。すなわち、いかなる政治問題であれ、国家や人間の行為がもたらす結果は、慎重に考慮すべきということです。このことの重要性を100年以上前に厳しく説いたのが、偉大な社会科学者であるマック・ウェーバーでした。かれは社会主義を目指す過激な暴力革命運動に陶酔する学生や知識人たちをこう諭したのです。少し長くなりますが、大切な部分なので引用して紹介します。

「信条倫理的な原則にしたがって行動するか(宗教的に表現すれば、キリスト教徒として正しく行動することだけを考え、その結果は神に委ねるということです)、それとも責任倫理的に行動して、自分の行動に(予測される)結果の責任を負うかどうかは、深淵に隔てらえているほどに対立した姿勢なのです……信条倫理の側は最終的には破綻せずにはいられないと思います……ドイツ軍の将校は、前線に攻撃にでかけるたびに兵士たちに……これで勝利すれば平和が訪れると言い聞かせたものでしたが、それと同じことです。

政治に携わる者……は悪の権力と手を結ぶ者であること、政治家の行動については、『善からは善だけが生まれる』というのは正しくなく、その反対に『善からは悪が生まれる』ことのほうが多いことを熟知していたのです。これを知らない人は、政治の世界では幼児のようなものなのです。

わたしが計り知れないほどの感動をうけるのは、結果にたいする責任を実際に、しかも心の底から感じていて、責任倫理のもとで行動する人が、あるところまで到達して『こうするしかありません、わたしはここに立っています』と語る場合です。これは人間として純粋な姿勢であり……誰もがいつか、このような立場に立たされることもありうるからです」(ウェーバー『職業としての政治/職業としての学問』日経BP、2009年、131-153 頁)。

もしわれわれが、ウクライナ戦争を信条倫理すなわちウクライナは正義の戦争を行っているのだから、倫理的判断はそれだけで済むと考えるのであれば、それで話は終わるでしょう。この戦争の結果がどうなろうと、ウクライナ人にどれだけの犠牲者がでようと、これがエスカレートして第三次世界大戦あるいは核戦争になろうと、正しい戦争を行っているのだから構わないという結論になります。私には、多くの人が、このように考えているように見えます。世の中には「善人」と「悪人」がいて、善人の行為は何でも正当化でき、悪人の行為は何でも不当であるという世界観です。これは信条倫理が支配する世界では、間違いなく正しいでしょう。

結果を見すえた倫理的判断の重要性
もしわれわれがウェーバーの主張を受け入れて、ウクライナ戦争を結果倫理から判断するのであれば、話は全く違ってきます。第1に、ウクライナ軍がロシア軍に勝利できる実行可能な戦略を持たないまま「反転攻勢」を続ける結果は、うまく行ったとしても、ごく狭い範囲の占領地の奪還である一方で、おびただしい戦死者をだすことになると高い確度で予測できるならば、それは必ずしも倫理的に正しい行為であるとは言えないということです。

今年の6月から本格化したウクライナ軍の反攻は、失敗に終わったと言ってよいでしょう。『ワシントン・ポスト』紙(2023年9月8日付)の記事に掲載された下のグラフを見れば分かる通り、この4か月間の「反転攻勢」でウクライナがロシアから奪還した占領地は1%未満に過ぎません。その反面、戦死者は約5万人にも達しました。そして、このような結果になることは、リアリストらが正確に予測すると同時に警鐘を鳴らしていたのです。残念ながら、こうした警告は、ことごとく無視されました。そして、このグラフの線が、今後、突如として下降することなど、「ブラック・スワン」が登場しない限り、そうならないだろうと予測するのが妥当でしょう。



それどころか、ウクライナは今よりも悪くなるかもしれません。戦争の行方は彼我の物質的な軍事バランスに大きく左右されます。ロシアとウクライナの兵力、火力といった要因を比較考量すれば、前者が後者に優位性を持っていることは否定できません。このことについて、これまでもウクライナ戦争について的確な分析を行ってきた、アメリカ陸軍の退役軍人であるダニエル・デーヴィス氏は、こう予測しています。

「主要な戦争の大半は……最も基本的な戦闘力を保持している側が勝利してきた。今回の場合、それはロシアを意味する……ロシアは、ウクライナの戦力より多くの兵力、戦車、大砲を保有している(航空戦力と防空能力における永続的な優位性は言うまでもない)。単刀直入に言えば、ロシアとの消耗戦でウクライナを支援し続けることは、さらに何万人、何十万人ものウクライナ人の命を奪い、さらに多くのウクライナの都市の破壊を招き、最終的にはプーチンに軍事的勝利をもたらす可能性が高い……道義的には、西側諸国はウクライナの勝利という軍事的に達成不可能な目的を達成するための虚しい努力を続けるべきでない。特に、そのような支援は、ウクライナの人命と領土を無意味に失う結果にしかならない可能性が高い場合には妥当ではない」。

この地図は、今年1月からの9か月間で、ウクライナの戦況がどのように推移したのかを示したものです(New York Times, 2023. 9. 28)。オレンジ色はロシアが拡大した占領地であり、水色はウクライナが奪還した領土です。ロシアは全ドンバス地方の掌握に失敗しましたが、占領地をほぼ維持してきました。その一方で、ウクライナの反攻はほとんど成果を挙げていません。ロシアの進軍は、我が国ではほどんど報道されていないようですが、実際には、このように占領地をわずかながら拡大しています。継続する膠着状態は西側のウクライナへの支援を減らすことになりそうなので、そうなるとロシアがウクライナにさらに深く攻め入る事態にもなりかねません。


こうしうた陰鬱な予測は信じたくないという気持ちも理解できますが、現実から目を背けても現実は変わりません。ウクライナは破壊されていくであろうことが分かったうえで、ウクライナ人に戦争の継続を勧めることは、はたして倫理的に正しい行為なのでしょうか。ウォルト氏は、そうではないと批判を恐れずに主張しているのです。

第2に、ウクライナ戦争は、アメリカや同盟国の外交により避けることが可能であった悲劇だということです。世界には善人と悪人が存在している、アメリカや西側諸国は「善人」であり、ロシアは「悪人」であるという「常識」は、われわれが受け入れやすい世界観ですが、そこには落とし穴があります。そもそもロシアをウクライナへの侵略へと駆り立てた1つの有力な原因は、善玉であるアメリカが主導する軍事同盟であるNATO拡大でした。だからこそ、こうした戦争原因論は「悪玉ロシアのプロパガンダに冒された陰謀論」であると広く信じられてきました。しかし、それは違います。ストルテンベルグNATO事務総長は、この戦争とNATO拡大の因果関係を最近になって遠回しに認めました。

「プーチン大統領は2021年秋に宣言して、NATOをこれ以上拡大しないとNATOが約束して署名することを求めた条約案を実際に送ってきた……そして、それがウクライナに侵攻しない前提条件だった。もちろん、私たちはそれに署名しなかった」。

ロシアによるウクライナのNATO非加盟の要求は理不尽である、NATOに入るかどうかはウクライナとその加盟国が決めることであり、ロシアにとやかく言われる筋合いはない、と多くの人は思うかもしれません。これは典型的な信条倫理による判断でしょう。しかし、その結果は、ロシアによるウクライナ侵攻であり、ウクライナの領土の約18%が占領されて、数百万人の国外難民が発生しただけでなく、約7万人のウクライナ人の戦死者をだしたということです。もちろん、これはロシアの悪行ですが、こうした悲惨な結果は、アメリカやその同盟国が、NATO拡大に対するロシアの警告に耳を傾けて、それを外交努力により妥結へともっていけたならば避けられた可能性が大いにあったのです。これは一種の「悪魔の取引」であり、信条的には受け入れがたいでしょう。ですが、これで戦争が回避できたならば、果たして、こうした妥協さえも不要であり不当であったと退けてもよいのでしょうか。ウォルト氏が、この戦争の責任は西側の人たちにもあるというのは、そういうことなのです。

最悪の事態を避ける政治的英知
ウクライナ戦争は核戦争にエスカレートする危険性を孕んでいます。これは決して考えられないことではありません。軍事や安全保障に関する世界屈指のシンクタンクであるランド研究所は、最近、この戦争が核戦争に拡大することを警告する報告書を発表しました。そこにはこう書かれています。

「ウクライナを停戦に追い込むようNATOを強制するために、ロシアは核兵器を使用できる。その目的は、戦況を安定させなければ、全面核戦争に発展するリスクが高まるとのシグナルをウクライナとNATOに送ることだ……ロシアがウクライナ国内で核兵器の使用を決定した場合、その数や種類は制限されないかもしれない。ロシアの指導部は、少数の核兵器や小型の核兵器しか使用しない場合のコストやリスクは、より多くの核兵器や大型の核兵器を使用する場合のコストやリスクと劇的に変わらないと認識する可能性がある」。

我が国には、ロシアの核の威嚇は「ブラフ」であることが分かったとか、それに怯むことは「プーチンの思うつぼ」であると主張する専門家と言われる人がいるのには、私は本当に驚かされます。なぜなら、そうした人たちは、核兵器を用いたバーゲニングやエスカレーションのメカニズムの本質を全く理解していないように思われるからです。核兵器による威嚇は、トーマス・シェリング氏が、60年以上前に「偶然性に委ねられた脅し」として説明しています。すなわち、核兵器で脅す側も脅される側も、それが暴発するかどうか、確実に分からないから威嚇として機能するということなのです(シェリング『紛争の戦略』勁草書房、2008年、第8章)。

ですから、核時代における鉄則は、正義が平和に道を譲ることに他なりません。実際、冷戦期において、米ソの指導者が核武装国への十字軍的な行動を抑制してきたからこそ、大国間戦争を起こさずに済んだのです。アメリカはソ連の勢力圏を尊重して、ハンガリー動乱もチェコスロバキアにおけるプラハの春も黙認して自重しました。ソ連も、アメリカが地域覇権の握る西半球に足を踏み入れたことにより起こったキューバ危機において、最終的には引き下がりました。こうした自制心や警戒心がウクライナ戦争に関与する核武装国の指導者には弱いように見えることは、たいへん心配です。

核戦争へのエスカレーションを避けなければならないという主張には、「ロシアの不当な侵略を許すというのか」という反論や、「ウクライナのことはウクライナ人が決めるべきである」という批判が必ず寄せられます。信条倫理は結果がどうなろうと、侵略国ロシアを罰するべきであり、ウクライナが徹底抗戦することは正しいとわれわれに告げます。しかし、このような判断は、核戦争へのリスク判断が甘いだけではなく、ウクライナが今よりも、さらにロシアに蚕食されて、最悪の場合、「破綻国家」になることを考慮に入れていません。この点について、前出のデーヴィス氏の以下の指摘は、傾聴に値すると思います。

「ウクライナの人々のために、戦争未亡人のために、日々生み出される父親のいない子供たちのために、ウクライナの街全体が無分別に破壊されることを悲しんでいる。もし自分の国が侵略されたら、私は悪魔のように戦うだろう。

しかし、抵抗を続けることが完全な敗北を招くのであれば……。

その時は、別の道を選ぶ英知が必要だ。ウクライナが豊かな未来を手に入れるためには、現在の厳しい試練を乗り越えなければならない。私は、キーウ、ワシントン、ブリュッセルの指導者たちが、ウクライナを存続させるために必要な厳しい選択をする知恵と能力を持つことを祈る」。

要するに、政治の世界では、より少ない悪を選択する高度な判断が、時に必要になるということです。それでも「ウクライナのことはウクライナ人が決めるべきだ!」という主張もあるでしょう。もしウクライナが単独でロシアと戦っているのであれば、これは政治的にも倫理的にも全く正しいといえます。しかしながら、ウクライナは、日本を含めた西側諸国の莫大な支援を得て、ロシアと戦争を行っています。株主が当該会社の経営に対して発言権があるように、ウクライナの要請を受けて税金から財政支援を行っている国家の国民にも発言権が認められるというのは、当然のことではないでしょうか。とりわけ、ウクライナ戦争が万が一、核戦争に発展してしまったら、我が国も無傷ではいられないでしょう。アメリカがウクライナに集中して資源を投入すれば、その分、アジアへの備えはおろそかになります。その結果、中国はより大胆な行動をとるようになり、日本の安全保障を脅かすかもしれません。ですから、そうした予測される悪い結果を避けようとするのは、決して批判されることではありません。われわれには、将来のある我が国の子供たちを守る義務があります。

マックス・アブラハム氏(ノースイースタン大学)は、「(ウクライナ戦争の)エスカレーションを防ぐために全力を尽くすべきだと考える人は、今や裏切り者なのだ。そして、新しいマントラはこうだ。われわれは、核兵器が炸裂した爆風を顔に感じるまでにならなければ、ウクライナでは十分に努力していないということになる」と、この戦争をめぐる異様な言説を皮肉っています。核のホロコーストを防ごうとするリアリストは、なぜ「裏切り者」の烙印を押されなければならないのでしょうか。こうした戦争拡大の危機感がほとんど共有されずに、信条倫理の判断だけが広く受け入れられる世界は、誠に恐ろしいものではないでしょうか。冒頭に紹介したウォルト氏の主張は、ウクライナ戦争をめぐる政治的現実を冷厳に見すえた政治学者による、倫理的に妥当で勇気のある発言であることをわれわれはもっと理解すべきでしょう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする