Kazuko MISAWA World

三沢かずこの青の世界 ー 作品の周辺

自分とは何か

2016-02-29 19:04:33 | アトリエから

絵が完成に近付くと、何か同じ雰囲気の絵になってしまう。技法を変えたり、新たに気付いたことを取り入れたりしているのに。

新境地の作品ができたと嬉しくなるのもつかの間で、その新境地(?)の作品の浅さにあきれて、次の日それをつぶしてしまう。

新しい絵って何だろう。少しは絵が変わったかもしれないが、ほとんど大きな変化はない。どこかで、見たような、何か懐かしい

絵が立ち現れてくる。これは、私の原風景なのだろうか。もっと知らない新鮮な何かを求めているのに、懐かしいとしかいえない

ような絵が目の前にある。次々と作風が変化する軽やかさなど全くなく、堂々巡りのような絵を描き続けている。

これが、自分を知るということだろうか。自分とは何か、を知ることが、時代に流されない創作のあり方、とある彫刻家が語って

おられた。時代に迎合せずに、自分自身に向き合い続けること。救われる教えだ。

何だか代わり映えしない作品。でも、これが等身大の、私なのか。

 

 

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気分良く

2016-02-20 12:37:18 | アトリエから

先週、神戸の北野坂の画廊で、生徒が個展を開催した。バレンタインデーの14日が最終日だった。その日には、コンサート、出版

した絵本などの朗読会などがあり、反響も大きく、なかなかよい内容の個展だった。本人は、70代の後半だが、本当に良く頑張っ

たと思う。迫力のある赤を中心にした抽象画の展示空間は、とても伸び伸びとした空気に包まれていた。

気分のいい時に、描きます、と彼女は言う。本当にそう。以前、書道の専門学校に通っていた頃、いつも、際立っている書を書く

人がいた。何が違うのか、その時の私には分からなかったが、その人も、確か、「気分のいい時に書くだけ」と、言われていた。

共通するものは、気分、だ。画業を仕事にしていると、その気分のいい時だけに仕事をするということが難しくなる。来る日も来

る日も調子の出ない時が続くことがある。休みたくても、休めずに、自分を叱咤激励して仕事に向かわせる。

でもこころのなかでは、この教訓のような、「気分のいい時に」を忘れずにいる。何とか気分を良くしようと、日々、努力をして

いる。今は、気分が動くようなクラシック音楽を低音でかけっぱなしにして、制作をしている。音を止めると気分が重くなってく

るような気がするので、効果があるかもしれない。柿の種をガリガリかみ砕いたり、クッキーを次々に食べたりすることはやめら

れたので、良い気分を探すための、小さな成長につながっているようだ。

 

 

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偶然性

2016-02-19 19:28:35 | アトリエから

日ざしが強くなった。外を歩くと、風はまだ冷たいけれど、ほかほかと背中が暖かい。今年の気候は変化がとても激しいけれど、

それでも三寒四温という春へのステップを着実に踏んでいる。今日も、だいぶ暖かな日になった。月二回教えている教室を終え、

自宅のある駅に真っ直ぐに帰った。駅前で母に頼まれた用事をすませるためだ。

今日の教室は、いつもより出席者が少なかった。少し時間があったので、創作の基本というか、自分なりに経験してきて、気付い

たことなどを喋った。一人の生徒に向かって言ったつもりだったが、狭い教室、他の方々に聞こえないわけがない。皆、しっかり

聞いていたらしい。メモしました ! などと言われた。

絵においての偶然性、その偶然性をとても大切なものと考え続けてきた。昨年、かなり腑に落ちたことがあった。偶然性だけで

作品制作は無理だということ。偶然性をいかに制作に取り込めるか、が大切なのだと理解できた。作品を創るという意志や行為

がある以上、偶然性だけではその要求が満たされないだろう。偶然に導かれた画面が美しくても、何か、おもしろみがあっても、

それを表示しただけでは人のこころに届くものには至らない。そこに何かを加えたり、消し去ったりしなくてはならない。

作品を創るというのは、まことに作為の固まりの行為だ。だから、なかなか先に進まない。空の雲をぼうっと見るしかない。

 

 

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平常無事

2016-02-08 18:52:34 | 日々の思い

朝、少しこだわっていることがある。急須に多めに入れた知覧茶に冷ましたお湯を注ぐ。茶葉の周りからそのお湯をゆっくりと回

し入れる。しばらく時間をおいて、高い位置から茶碗に注ぐ。濃い緑色の甘みの濃厚なお茶がいただける。お茶と一緒に、種を手

で一粒一粒取ってあるプルーンをいただく。このプルーンは、母親がのどに詰めないように、半分にカットしてある。柔らかな果

肉と煎茶がよく合って楽しみなひとときだ。美味しいねえ、と母親が実感がこもる声で言う。お湯を沸かしてくれるのも、プルー

ンをカットするのも母親で、朝から忙しい私には大助かり。だから、お茶を気持ちをこめて入れる。

永井宗直さんの著書『禅、ていねいな生き方』(三笠書房)を読んでいて、お茶のことが書かれた文章に目が止まった。

『臨済録』という禅語録に書かれている仏法の真理とは、日常の当たり前の生活を当たり前におこなうこと、『平常無事』とあ

る。お茶を飲む行為にも、とても大事な要素が含まれている、と記されている。我が家では、本当によくお茶を飲む。パソコンで

頭が煮詰まった時、もう少しだと頑張っても、スムーズにはかどらずに、かえって、時間を無駄に使ってしまうことがある。だか

ら、仕切り直しが必要不可欠で、お茶の時間の登場ということになる。

アトリエでも同じように、紅茶の時間が頻繁だ。たいして進まない制作状況の連続だが、当たり前の一日が過ごせてよかったな、

と感じている。

 

 

 

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小川千甕展

2016-02-04 18:02:57 | アトリエから

アトリエに保存していた新聞を、時間が空いたので広げた。昨年の暮れに日経新聞『美の美』の中の一枚の絵に惹きつけられて、取っ

ておいたものだ。読み始めると、この展覧会が、京都文化博物館で開催されていると分かった。それが何と翌日が最終日だった。大分

迷った。最終日だから、混んでいるに違いない。人の背中ばかり見ても仕方ないとか。京都までの時間を制作にあてたほうがいいかも

などと。でも、意を決して京都に見に行った。よかった。とても素晴らしい展覧会だった。浅井忠に洋画を学び、日本画に転じ、独自

の生き方を貫いた画家の、約140点もの作品が展示された展覧会だった。昨年、新聞の図版で惹きつけられた『朝明の霞』を実際に観

ることができてとてもしあわせだった。画面が動いている。格調の高いゆらぎだ。帰りがけにもう一度、その絵の前に立った。こんな

ふうにぎりぎりに展覧会を観ることができたのは初めての経験だった。観る必要があったのだ、とつくづく感じた。

この作品は、長い間、所在がわからなくなっていたが、ドラマチックな成り行きで、この大規模な回顧展に出品がかなったというもの

だ。世俗にまみれない生き方を貫いた画家の作品が、一人歩きをしたのかもしれない。

絵を描く者の生き方を深く教えられた展覧会だった。捨てられない絵を描こう....と、こころに誓った。

 

 

 

            

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