近畿圏に住みながら、一度も行ったことのない高野山に夫と二人で行って来た。朝、6時台に家を出て、バス、電車、ケーブルカーと乗り継いでようやく、高野山に着いた。長旅だ
った。この旅は、いのちや自分たちの日常に、ゆっくりと向き合える旅になった。独特な宗教都市だ。奥の院の古来からのお墓のなかを歩く。苔むす墓石を見上げながら、今生きて
歩いている実感を強く感じ、自分を見つめる時間がしばらく続く。
宿坊に泊まり、朝の勤行に参加し、般若心経の写経もした。精進料理をいただいて、ほんとに短期間だったが、ミニ修行に行ったような気がしている。夏に入院していた夫の全快祝
いを兼ねての高野山行きだった。宿坊での朝食の折に、思いがけない人に出会った。神戸在住の現代美術家、榎忠さんだ。食事中だったので、少し迷ったけれど、声をかけた。榎さ
んが高野山で出品されている現代美術展『いのちの交響』は、もう大分前から始まっており、すでに終了しているものと思っていた。榎さんに聞くと、ちょうど、搬出の最中である
とのこと。まだ、残骸が残っているよ。と言われ、急いで、金剛峰寺へ向かった。間に合った、残骸!であるかもしれないけれど、榎さんの宇宙にまた出会えた。宿坊での出会いは、
この作品に会うための縁のような気がした。奥殿という、普段は入れない所に、作品群が広い台の上に鈍い金属の重みを放っていた。その背後に、この金属の作品群を生み出した人
間の存在を確かに感じ取れる。古い寺院のふすま絵の前の磨き上げられた金属の作品は、時間や空間と見事にとけ合っていただろう。(この展覧会は、11月3日で終了)
作品というのは、作品を創り出す人が全面にあぶり出される。現代美術であっても、伝統的な美術であっても同じだと思う。作り手の心情や生き方が感じられる作品でありたいと思
う。それは、表面に表れるものでなく余韻のようなものだろうか。
フォト 2015