きょうのさきがけ新聞夕刊の文化欄に、大塚英志さんの、宮崎事件から学び考えると題して、「異質への不寛容が生む悲劇」という一文がありました。
わたしは、死刑が執行された日のブログで、宮崎勤が反省もなく、謝罪もない・・というような報道を鵜呑みにして、感想を書き込んでいましたが、きょうの大塚さんの文章を読んで、なにも知らないのに、知ったかぶりだった・・と恥ずかしくなりました。
もしかしたら、宮崎勤という人は、今でいう発達障害、アスペルガーとか、広汎性機能障害というようなこどもだったのではないだろうか・・(と思ったのですが、調べてみたいと思っています。)もし、そうでなかったとしても、少しだけ変わった者に社会は不寛容だった・・と大塚さんは書いています。
「異質なものへの不寛容さ」 まさに、私が、息子の言動を受け入れられなかった頃の・・その心根を言い当てることばです。人間の多様性を標榜しながら、実際には自分の子どもたちの「少しだけ変わった」ことに寛容になれない自分がいたのですから。
だからこそ、そこから学んでいこうと思っています。
大塚さんの文章の最後を引用したいと思います。
理解して、学ぶことへのサボタージュが「理解できない犯人像」をつくりだしていることに気づくべきである。現に僕たちはあの事件をきっかけに多くのことを学び考え、自分たちの思想や表現や人生をつくりだしていった。僕が今もものを考え続けているのはそういう理由からである。
きょうのこの文章はよかった・・。さきがけに電話したい気分になりました。
そして、教訓をたれ得意になっている人の、いかに多いことか。また、他人の生き様に口出ししたり、正義を振りかざす人のいかに多いことかと思います。
ただし、罪は罪として受け止めなければならないのは当然ですが。
思い上がることなく生きていたいと思いますが、まだまだ修行がたりません・・。
被害者の立場にたてば、許される行為ではありません。そのことも厳粛に受け止めたいと思います。