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卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)

2020-07-27 20:44:27 | 古代史
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八幡大神の登場について卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)の(注2)に以下のとおり記述しました。

応神八幡神/顕現伝承に詳しい。それによると幾つかある八幡大神の顕現伝承の最古といわれるものに承和縁起(「宇佐八幡弥勒寺建立縁起」)に載る以下の説があります。
伝承①--大神清麻呂解状(弘仁6年-815-12月10日、解状-ゲジョウ--所管の宮司に上申する文書)--大神(おおが)氏系
伝承②--辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)--辛嶋氏系

①は「大御神は、欽明天皇の御世(539--71)、豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕れた。大神比義が戊子の年〔欽明29年-568・同32年-571-ともいう〕、鷹居社を建てて祝(ハフリ・神官)となって祀り、後に菱形小椋山に遷し祀った」〔 〕内は原注とあり、応神天皇としていますが、②の後追いで作られたようです。
②によれば、創建年がハッキリしているのは和銅三年(710年)乙咩神社(おとめじんじゃ)のようですが、応神天皇ではなく比売大神です。それ故、宇佐神宮年表では和銅五年の鷹居社からにしているようです。


この辛嶋氏伝承では、「八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山?)に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、当社乙咩社、 泉社、 瀬社、 鷹居社、 小山田社、現社地へと移った」とされ、辛嶋勝乙目(からしまのすぐりおとめ)という巫女が関わったとされています。 応神八幡神/顕現伝承には①と②の「両伝承が上申された弘仁年間(9世紀初め、平安初期)は、宇佐における応神八幡神信仰が定着した後のことで、大神氏に主導権を奪われた辛嶋氏としては、自家の伝承に応神霊を付加せざるを得ず、為に、自家に伝わる伝承を改変したともとれ、本来の辛嶋氏系伝承はこれとは違っていたと思われる。」とあります。これは正しいと思います。

辛嶋氏の姓(かばね)は勝(すぐり)であり、スサノヲの子イタケルを祖とする祢宜(ねぎ)に任じた女性を主体とする氏族のようです。辛嶋氏は半島から渡来した氏族で、勝(すぐり)は村主と言う意味のようです。前回に述べましたが、ムナカタ族は、北部九州の倭国を占領した物部によって排除されたはずですが、280年頃に応神天皇が祭祀王として大和で即位したことにより復活したようです。同様に、スサノヲ・大国主ゆかりの半島南部の倭人(三輪氏・葛城氏・和邇氏・秦氏などの祖)も許されて、共に中央に進出できるようになったようです(注1)。

辛嶋氏も半島南部から九州東部に帰還した比売神卑弥呼にゆかりのムナカタ族でしょう。辛嶋氏が比咩神卑弥呼を祀っていたのを、大神(おおが)氏が八幡大神を応神天皇という伝承を作ってすり替えたものだと思われます。鎌倉時代に弥勒寺学頭僧神吽(しんうん)が撰した「八幡宇佐宮御託宣集」にある「鍛冶の翁」伝承はその頃に創作されたものかも知れません(^◇^)

Wiki「大神氏」によれば「大神氏、大三輪氏(おおみわうじ)、または三輪氏(みわうじ)、神氏(みわ/じんうじ)は、大和国磯城を発祥とし、大田田根子を祖神とする氏族」と言われています。崇神紀に登場する大物主大神(大国主)の子です。

当時疫病などが流行り民の半分以上が死に、民心が離れてしまった大変な状況だったようですが、大物主大神の神託により、大田田根子に祀らせろということで、そのとおりしたらようやく収まりました。漢風諡号どおりでした。神に祟られた崇神天皇、神の求めに応じた大田田根子が応神天皇で同一人物です。二人を異なる時代に分解して誤魔化す日本書紀のやり方だと関裕二さんが最初に見破りました。

刮目天は、大国主・台与の祟りでヤマトの後ろ盾の呉が280年晋によって滅ぼされてしまったので、次はヤマトが滅ぼされる番だと恐怖におののいたのが応神天皇の即位の真相だろうと考えました(何故、大和をヤマトと呼ぶのか?)。それで、これも関さんの推理ですが南九州(大隅正八幡宮?)に逃亡していた大国主・台与の間の子ホムダワケを探し出して祭祀王として大和に迎えたということです。日本書紀では建国の真相を隠ぺいするために、初代神武天皇の東征神話を創りましたが、応神天皇が神功皇后によって仲哀天皇の皇子たちを殺してヤマトで即位した、神武と似たような東征神話も創作でした。これも「日本書紀の筆法」でした(注2)。

話をもとに戻して、すでに卑弥呼の墓の伝承の話の中で紹介した安心院町の妻垣(つまがけ)神社の主祭神が比咩大神(宗像三女神)です。由緒書きによれば、「天平神護元年(765)、宇佐宮の八幡大神(八幡大菩薩)、この地に神幸し比咩大神と利生を語り合われました。また同年閏10月8日、八幡神は勅使石川朝臣豊成に『我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下されました。そこで豊成は当地に社殿を造り、共鑰山の比咩大神と八幡大神が併せて祀られました。天長年間(823~834)には宇佐宮より神功皇后が勧請し、お祀り申し上げました。」とあります。

共鑰山(ともがきやま)は妻垣(つまがけ)神社の創建年よりも古くからある奥宮の一柱騰宮(いっちゅうとうぐう、古事記では足一騰宮あしひとつあがりのみや)がある場所です。日本書紀では神武天皇の母玉依姫を比咩大神として祀ったところとし、東征を開始して最初に立ち寄った神武天皇をウサツヒコとウサツヒメがもてなしたという伝承となっています。

しかし、卑弥呼が殺されて、安心院町三柱山の径百余歩(直径約150m)の円墳に埋葬されたのを、大国主と台与がここに遷して祀ったと推理しています(卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆)。ウサツヒコとウサツヒメは二人をモデルに作られましたが、日本書紀では藤原氏の遠祖天種子命がウサツヒメを娶った話を作って誤魔化しています。藤原氏にとって重要な伝承、実は真相を隠すためのものですが、これを古事記が無視していますからデタラメな伝承だと直ぐに分かります(^_-)-☆

つまり、比咩大神は大国主と台与が一柱騰宮で改葬し、祀った卑弥呼のことだと考えています。

大国主と台与がヤマトによって滅ぼされた後に、筑紫水沼君が三柱山の三女(さんみょう)神社で三女神を祀ったという伝承があり、盆地内に御水取した水沼社があります。水沼君は三女神を祀るムナカタ族という説もあるようですが、「日本書紀」では筑後国三潴郡(現・福岡県久留米市三潴町)の水沼氏が登場するので、そうであれば景行天皇の子孫水間(沼)氏のようです。一方、「先代旧事本紀」には水沼君の祖は物部阿遅古とあり、物部氏の支族という説もあります。

景行天皇は仲哀天皇の祖父で、仲哀天皇は景行天皇の皇子ヤマトタケルの子ということですが、日本書紀の記述から計算するとヤマトタケルが死んで38年後に仲哀天皇が生まれたことになりますから、杜撰な作り話です(注3)。纏向の外来土器の約半数を占めるのが東海のものですから、仲哀天皇のモデルは狗奴国ヤマトの大王(物部氏)と同族の尾張王だと推理しました。(2023.5.30 赤字訂正)

大国主・台与をヤマト勢が滅ぼした第三次倭国大乱を日本書紀では景行天皇の九州遠征の話にして誤魔化していることを発見しました(【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*))。ですから水沼氏が物部の支族であるのが正しいのかも知れませんが、景行天皇は、記紀では仲哀天皇の祖父ですが、仲哀天皇は大国主に殺された尾張王ですから、その後継者をその祖父の景行天皇と設定していることから、尾張王と考えるのは正解のような気もします。そうなると水沼氏は尾張王の一族ということになります。物部と尾張はニギハヤヒを祖とする一族ですから、今のところどちらでもいいかも知れません(*^▽^*)。

水沼氏が宗像氏でもないのに三女神を祀るのは古代としては異例に思われます。親魏倭王卑弥呼を直接殺したわけでないと推理していますが、ヤマトの倭国追討軍の到来と247年3月24日の日蝕が重なって卑弥呼が殺されたと推理しているので、ヤマトも卑弥呼から恨まれ祟られるのを恐れてこの時の大王家(物部氏)が配下の水沼氏に奉祭させたものと推理しています。何と、比売大神を祀る妻垣神社の宮司矢候氏も天種子命を祖とする藤原氏でした(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟昭和56年、p.128)。


それだけヤマト朝廷にとって卑弥呼は超重要人物だと見られていたということです。

ですから、三世紀末か四世紀初頭には沖ノ島祭祀が始まるのだと思います。


ところが六世紀の筑紫の君磐井とヤマト朝廷が半島経営で対立し、反乱を起こした磐井と共に水沼氏も一緒に滅んだと考えられます(磐井君が新羅からワイロを貰ったという日本書紀の話は全く信用できません。現在調査中です)。宇佐国造の祖がウサツヒコだということであれば、刮目天はその正体を大国主久々遅彦と推理していますから、後でまた述べますが、宇佐国造の正体も水沼氏か、同じ物部氏か尾張氏ではないかと考えています( ^)o(^ )

さて、ここまで書いて、いよいよ比売大神を八幡神応神天皇にして隠すアイデアを出したと思われる本命の出番ですが、長くなったのでお楽しみは次回に回しましょう(^◇^)

【参考記事】古代史の謎を推理する(^_-)-☆


(注1)辰韓・弁韓の倭人が応神天皇即位により、三世紀末から技術や大陸・半島系の文化を持って日本に渡来しました。秦氏の祖も日本書紀では百済弓月君ということで、数多くの民を引き連れて帰化したように書いてますが、百済ではなく伽耶・新羅が本当でしょう。百済はシナの史書と日本書紀が基にする百済三書が食い違っていますから、百済三書の方が怪しいです(現在調査中)。(2020.7.28 赤字訂正)

(注2)神武東征を史実だと主張する方は、纏向に北部九州の土器がほとんど見られず(あっても外来土器の1%以下)、逆に北部九州に畿内の庄内式や布留式土器が数多く見つかっているという考古学の成果を全く無視しています。北部九州の倭国がヤマトを滅ぼしたのではなく、大和勢に滅ぼされたというのが事実ですから、神武東征神話に全く騙されていますよ。これに気付けば、何で大和をヤマトと呼ぶのか?とか、何で出雲の神大国主を三輪山で祀っているのかなど、古代史の多くの謎が解けますよ(^_-)-☆

(注3)「日本書紀」にタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の父のヤマトタケルが、祖父の景行天皇40年に薨去したと書かれています。その20年後(景行60年)に景行天皇が崩御して成務天皇が即位しています。そしてタラシナカツヒコは成務天皇48年に31歳で皇太子となったと書かれていますから仲哀天皇は成務天皇が即位して18年後に生まれた計算になりなります(^_-)-☆
結局、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)は父のヤマトタケルが亡くなって20+18=38年後に生まれたということになります( ^)o(^ )
(2023.5.30 赤字訂正)


つまり、景行天皇から仲哀天皇のまでの話が史実に基づく部分があるとしても、その年代は全く信頼できないということなのです。そして、【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)で述べたように、景行天皇の九州遠征は仲哀天皇が亡くなった後の話だと考古学的に分かりました(^_-)-☆

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2 コメント

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Unknown (pin)
2020-07-29 12:36:06
初めまして、pinと申します。
私は歴史の素人なんですが、最近桂川光和という人の「この人が卑弥呼」
という本を読み、書いている内容に衝撃を受けました。

・この人が卑弥呼  桂川光和 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07BYVJ43L/ref=ppx_yo_dt_b_d_asin_title_o00?ie=UTF8&psc=1

素人ながらこういう本を古代史に詳しい人が読めば、この本の内容が
世の中に広がるのかな~と思って、ここに書き込みさせて頂きました。
もし良かったら読んで欲しいように思います。

私的にはすごいことが書かれていると思いました。
返信する
Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2020-07-29 14:14:11
コメントありがとうございます。
この本は読んでませんが、根拠とする籠神社に秘蔵されていた「勘注系図」の存在は知っています。Wiki「海部氏系図」に史料批判がまとめてありますがご存知ですか?「古代史の謎を推理する」に書きましたが、書かれてあることが事実かどうかは考古学や民俗学や分子人類学などの助けを借りて検証を繰り返さないと確信は持てません。アマゾンで本の目次も見まして、考古学である程度検証してあるようなのですが、検証はそれで十分なのかよく分かりません。
海部氏の祖のヒコホアカリが物部氏の祖のニギハヤヒと同一の奴国第19代王天照大神尊だと突き止めていますが、その下の系図についてはその真偽はほとんど分かりません。

刮目天の「古代史の謎を推理する」で述べた研究手法を理解していただければ、すでに古代史の多くの謎が解けたことが分かりますよ。まだでしたらどうぞ(*^▽^*)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/e5f3c79c776262d1ae311988f7e58e3e                   
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