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纏向遺跡は卑弥呼に敵対する狗奴国だった(^_-)-☆

2024-02-08 19:55:35 | 古代史
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2023-02-04 15:44:11に記事にしましたが現在図のリンクが切れていましたので修理しました。よろしければご確認ください(#^.^#)

2022-06-30 17:59:01に5.大国主と台与の謎
①纏向遺跡は卑弥呼の裏切りに対応するために造られた政治都市だった
という記事にしましたが、説明不足の個所に加筆して改訂しましたので、また、おつきあいください(#^.^#)


5.大国主と台与の謎
①纏向遺跡は卑弥呼の裏切りに対応するために造られた政治都市だった

玄界灘を支配する卑弥呼の父(先代)赤坂比古が狗(旧)奴国を裏切って倭国側についたために、狗奴国側への半島の鉄の流通が止められてしまったと推理しました。狗奴国勢は衰退・滅亡の危機を感じました。そこで卑弥弓呼大王は、後でまた述べますが、狗奴国王に従う東海や山陰・北陸などに分散している勢力を集めて対抗するために、祭祀施設を持つ広大な政治都市の纏向遺跡(桜井市)を建設したと推理しました(注1)。纏向遺跡は環濠は造られていませんが、西側の金剛・生駒山系によって防御されており、万一攻撃されても東側の山地を抜ければ東海方面へも逃げることができる安全と思われる場所に作られたわけです。周囲に水田はないので、食料は外部から調達したということで、祭祀を中心とする政治都市です。

下の図は纏向遺跡の築造と関わりある唐古・鍵遺跡と一緒に、纏向遺跡の遺構・遺物の変遷を示すものです。唐古・鍵遺跡の人々ですが、出土した絵画土器に鳥の羽を纏った巫(かんなぎ)や巫女が描かれており、銅鐸を祖霊・穀霊祭祀に用いていた縄文系の人々と考えられます。吉備で隆盛になって奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫が東に進出し、播磨・河内から大和盆地に移動してきたので、唐古・鍵遺跡の人々はニギハヤヒの子ウマシマジの子孫物部氏の祖の卑弥弓呼大王(記紀では開化天皇と崇神天皇)に従ったと考えています。纏向遺跡の構築や食料供給は唐古・鍵遺跡の人々が行ったのでしょう。



ニギハヤヒ大王の子天香久山命が葛城山麓の高尾張(御所市)を治め、さらにその子孫の乎止与命(ヲトヨノミコト)が、東海に進出しました。すでに弥生前期からアズミ族が遠賀川式土器を持って伊勢湾沿岸部に進出していましたが、海部氏系図によると彦火明命(ニギハヤヒ)を祖とする海部氏(あまうじ)が海部郡(蟹江町)などを開拓していたので、乎止与命が尾張王となったと考えています。

また、伊勢湾岸地域から濃尾平野は北側の関が原を越えると琵琶湖に繋がっていますので、北陸・上越などを活動域として琵琶湖東部・南部沿岸部を根拠地としていたムナカタ族息長氏の祖とも深いつながりがあったようです。記紀で乎止与命を仲哀天皇としていますが、息長宿禰王の姫巫女台与(トヨ)を神功皇后のモデルとしていますので、尾張氏と息長氏は血縁で結ばれていたようです。神功皇后の系図でも父の息長宿禰王は第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)の王子とされていますが、迦邇米雷王の迦邇(カニ)は尾張の代名詞で「米」は首長を意味しますので、「迦邇米(かにめ)」は尾張王という意味です。そして「雷王(いかずちのみこ)」は大国主に国譲りさせた「タケミカズチ」を連想させ、史実は乎止与命を大国主勢に殺されて仇討ちをした尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト)を記紀では国譲り神話のタケミカズチとし、乎止与命が正体の仲哀天皇の祖父の景行天皇としています。乎止与命は神話ではタケミカズチの父で火の神カグツチとされ、イザナミが生んだために死んだので、怒ったイザナギに切り殺されたとあります。イザナギの子孫の大国主に殺されたということなのです。なので、この系図も藤原氏によって創られたものだと推理しています。しかし、血縁関係で結ばれてはいたとは考えています。

そして、前方後方墳は濃尾平野で盛行していますが、初期のものが清須市廻間SZ01墳丘墓に見られますので、wiki「前方後方墳」によれば、「伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考えられる」とあり、当時の伊勢湾は現在の内陸まで広がっていましたので息長氏の祖のムナカタ海人族のものと考えられます。東近江市神郷亀塚古墳は三世紀前半に作られた最古級の前方後方墳ですが、その近くに乎加神社(おかじんじゃ)があります。「豊遠迦比売命(豊岡姫命)を主祭神とし、白山比売(白山比咩神)を配祀する」とあり、伊勢神宮外宮の豊受大神として祀られている女王台与なのです。息長氏の祖が支配したと考えられる守山市から栗東市にかけて弥生後期の国内最大級の集落伊勢遺跡がありますが、「伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます」とあります。伊勢神宮の地ももとは息長氏の祖のムナカタ海人族の支配地だったと考えています。

スサノヲ大王の子孫で、山陰から北陸などを活動域とするムナカタ海人族の王久々遅彦は、豊岡市竹野町鷹野神社を王宮としていました(「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。先代は魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗で、先代が戦死して跡目を継いだ王、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、スサノヲの子イタケルの子孫です。

これらの狗奴国と関係する地方の有力者やそれに次ぐクラスの人々が続々と纏向遺跡に集まってきたことは、下で示す外来土器の出土状況や首長クラスの人々が生活する掘立柱住居が多数造くられていることから分かっています。



纏向遺跡の狗奴国の勢力は、連日、祈祷を行い、スサノヲ大王を殺して倭国を奪った恨みのある師升(儺升)の一族の難升米(儺升王)と裏切り者の赤坂比古らを呪詛したと考えられます。大量に出土した桃の種はこのころの祈祷と関連していると考えられています。そして、238年8月に倭国の後ろ盾だった公孫氏が魏の司馬懿によって滅ぼされて、狗奴国勢は一時喜んだと思います。

ところが、前回述べたとおり、倭国王難升米の果敢な積極外交によって、表向き(先代)赤坂比古の姫巫女(卑弥呼)を女王に立て親魏倭王の金印が授けられ、魏を後ろ盾にして益々、隆盛になってしまいました。

これは纏向遺跡での200年頃から250年頃までの上の外来土器の変化の図から読み取れます。当初見られた四国東部や和歌山などの土器が纏向三式の時期には見られなくなりました。奴国の交易センターに集まり、華僑や半島南部の鉄を入手する交易をおこなって倭国側についたわけです。狗奴国側は半島との交易が停滞して相当苦境に陥ったと考えられます。

狗奴国の卑弥弓呼大王はようやく倭国遠征軍を送る決断をしました。各地から集まった狗奴国側の勢力も倭国追討軍に参加する決心をしたと推理しています。外来土器の構成から東海地方からのものが半分近く占めますので、上述のとおり卑弥弓呼大王と同じニギハヤヒの子孫尾張王が最有力者だと分かります。纏向三式の時期には、山陰・北陸・近江・関東のムナカタ海人族を率いる久々遅彦の勢力や卑弥弓呼大王がもとの根拠地の吉備から率いて移動してきたと思われる河内・播磨の勢力が増えています。

久々遅彦はすでに述べた通りスサノヲ大王の子イタケルの子孫ですので、代々半島南部とのつながりがあり、鉄の交易の元締めだったので、赤坂比古よりも久々遅彦と関係の深い各地のムナカタ族が傘下となっていたのだと考えています。つまり、歴代の久々遅彦が元締めとして運営する鉄交易ネットワークに参加するために、各地の部族長は妃を出して婚姻関係によって久々遅彦と関係を深めていたのだと推理しています。大国主命に数多くの妃が居るのは、各地の首長の政略なのでしょう(^_-)-☆



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(注1)纏向遺跡の外来土器に九州の土器がほとんど見当たらないので、倭国の外交や内政の拠点として一大率を置いた伊都国や、列島最大の交易センターがあった奴国からも人々が纏向遺跡に来ていないと考えられます。三世紀に成立したヤマト王権のシンボルの前方後円墳が作られた纏向遺跡での祭祀に、倭国のあった北部九州の人々が参加してはいないのですから、纏向遺跡に集まった勢力と北部九州の倭国勢力とは対立していたと分かります。つまり、纏向遺跡の勢力は邪馬台国と対立する狗奴国の勢力であることが考古学の成果から明らかになっているのです。邪馬台国畿内説の根拠が考古学の成果から完全に否定されているのです(^_-)-☆。


つづきは「②卑弥呼の死後の千人死んだ殺し合いは倭国追討軍の内輪もめだった」です。ここまでお付き合い、ありがとうございます。次もよろしくお願いいたします( ^)o(^ )
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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