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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?(^_-)-☆

2023-01-03 00:38:06 | 古代史
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倭国は二世紀初頭に奴国宮廷楽師だった師升が反乱を起こし第十八代奴国王素戔男尊(宋史王年代紀、記紀神話のスサノヲのモデル)を殺し、107年(永初元年)に朝貢して、王に立ちました(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照。125年(延光四年)に祭祀を整えたことを記念する室見川銘板が発見されたことによって、師升王が伊都国の三雲遺跡を王宮としていたことが分かりました(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。倭国は、代々その子孫が統治しており、楽浪郡から華僑が倭国の珍しい産品を手に入れるために三雲遺跡番上地区に滞在し、今宿五郎江・大塚遺跡、潤地頭給遺跡などや、列島各地の倭人がたくさん集まる奴国の比恵・那珂遺跡などで交易がおこなわれて、その取引税収入によって倭国は隆盛になっていたと考えられます。

しかし、魏志倭人伝に「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年(その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年)」とあります。この頃に倭国大乱が起こりました。

二世紀末の後漢の宮廷内部が宦官と豪族の権力争いで乱れ、政治腐敗による民衆への苛政や天候不順による凶作もあり農民たちが黄巾の乱などの大規模な反乱を起こして王朝は末期的な様相を呈していました。楽浪郡の半島支配も弱まり、韓人や濊人が勢いをつけ、その影響で倭国は楽浪郡との交易が困難になり衰退気味になったのが原因です。

一方、旧奴国の勢力は、半島南部の鉄生産地を支配していたと考えられるスサノヲ大王が殺され、クーデターを逃れたスサノヲの子孫が不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群が中心)から山陰・北陸までの日本海沿岸を根拠地とするムナカタ族の王久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、代々襲名、王宮は兵庫県豊岡市竹野町鷹野神社)となって、半島南部の鉄素材を盛んに入手し、各地の首長に供給する鉄交易のネットワークを築いて大きな勢力となっていました。

久々遅彦はさらに、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて半島の鉄による武器製造の集落を数多く造り、さらに熊本県菊池川上流の方保田東原遺跡、うてな遺跡を最前線基地として、山陰や畿内から兵を呼び寄せて、倭国側をしばしば攻撃して恨みのある倭国王を苦しめていました。

ところが、公孫氏が半島を平定して204年に帯方郡を置きましたので、倭国は息を吹き返し、菊池川上流の基地を急襲しました。不意を突かれた久々遅彦はその地で戦死したと推理しています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。その墓が前回に見たとおり、これらの遺跡を見渡せる山鹿市一本松公園内の茶臼塚古墳です。

これによって倭国の情勢が一変しました。王を失った玄界灘を支配するムナカタ海人族の族長先代赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王に懐柔され、娘の卑弥呼が告げる太陽神の神託によって倭国の政治を行うことを条件に、狗奴国を裏切って倭国側についてしまいました。倭国は鉄資源を独占的に手に入れ、帯方郡との交易もできるようになったので、九州全土、中国地方西部、四国の人々は狗奴国を離れて倭国側についてしまい、倭国は隆盛になりました。

狗奴国は、鉄の供給が途絶えてしまい、卑弥弓呼大王は衰退の恐れを感じて、新たに奈良県桜井市纏向に建設していた王宮に、各地に散っていた狗奴国側の首長を集めて、倭国懲伏の祈祷や卜占を行って倭国追討の作戦を協議していたと思われます。出土した大量の桃の種はその時に占いに用いたものだと考えられます。

そのような中で、238年(景初二年)8月に公孫氏が魏の明帝曹叡に命ぜられた司馬懿の四万の軍勢によって滅び、楽浪郡・帯方郡も明帝が軍船を送って陥落させ、半島は完全に魏の支配下になってしまいました。

その年の12月に明帝が病で危篤になり、司馬懿を呼んで幼子の曹芳(少帝)の補佐役に命じ、そのまま崩御しました。今まで公孫氏に朝貢していた倭国王は次に魏に滅ぼされることを恐れていましたが、司馬懿は翌年に部下の劉夏に倭国懐柔を命じて、明帝が就けた太守劉昕(りゅうきん)を更迭して、帯方郡に派遣しました。魏に朝貢するように命じられた倭国王は早速(景初三年)六月に朝貢のために帯方郡に使者として大夫難升米を派遣したと魏志倭人伝に記されています(注1)。

実は、難升米が師升王の子孫の伊都国男王で、実際の倭国王だったことが判明しました。難升米は漢字が堪能で、恐らくシナ話も話す教養人だったことは、伊都国という魏の役人が到底当てるはずのない深い意味のある国名が書かれていることから分かり、これによって邪馬台国の謎が一気に解けてしまいました。詳細は、「伊都国の意味がヒントだった?」を参照してください。

司馬懿は自分の功績を魏第一等とするために、劉夏と難升米との話し合いで、倭国の王都である伊都国よりもずっと南の呉の東方海上にある、戦略的に重要な位置にある大国ということにしたのです。つまり、帯方郡から東南万二千余里で、洛陽から楽浪郡まで五千余里ですから、洛陽から万七千余里にある、計十五万余戸の遠い大国ということにしたのです(注2)。

そのため卑弥呼(姫巫女、ひめご)を倭国女王ということにしました。これは魏の朝廷の人々の注目を浴びるためでもあると思います。倭国大乱期に疎開していた卑弥呼の野麻国(やまこく、宇佐市安心院町)の居城を邪馬台国と名付け、下図のような行程の書き換えを行ったと推理しています。邪馬台国は、ヤマ国にいる女王(台)の国という意味なのです。このようなトリックに気づかずに多くの研究者が魏志倭人伝をどのように解釈しても、二十一世紀の現代になるまで邪馬台国の位置がどこかなのか、諸説は出るものの決定的なものはなく、さっぱり分からなかったのです。


(「投馬国へ水行してみませんか?」に詳しく説明していますのでどぞ!)

さて、そこまで分かると、難升米が劉夏に書いて教えた倭国の地名・国名や人名・官職名などは倭人の発音を基に、難升米が漢字をあてたのだと分かります。そこには難升米の感情が籠った文字が使われているので、非常に興味深いです。例えば敵対する狗奴国は旧奴国を狗コロの奴国と蔑んだ国名です。狗古智卑狗などは狗コロや卑しい狗という意味で、「智」がありますが、古い知恵、時代遅れだと言ってバカにしています。卑狗も縄文系の男性に付く名前なのでしょう。相当苦しめられた人物ですから恨みが籠っているようです。一方、卑弥呼の弥呼の字は「あまねく呼ばれる」という好い名前です。しかし、味方になったとは言え、漢字も読めない無教養の縄文系ムナカタ族をバカにして卑しいと字を付けているのだと思います。

いつもの通り、前置きがすごく長くなりましたが、ここまでおつきあい感謝します。いよいよ表題の卑弥呼の父や弟が魏志倭人伝に出ているのではないかという話ですが、下手な文章にもう疲れたというかたは、また時間をおいてから是非読んでくださいね( ^)o(^ )

魏志倭人伝は三段に分かれており、倭国の地理、邪馬台国への行程記事の部分、倭国の風俗に関する部分、そして最後の段落が魏との外交関係の記事です。その外交記事で、第一回目の239年(景初三年)の難升米の朝貢の後の240年(正始元年)に新しい帯方郡太守弓遵が建中校尉の梯儁らを倭国に遺わし、詔書・印綬を倭王に渡しています。

そして243年(正始四年)その答礼として倭王は大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を使者とし、生口・倭錦などを贈っています。そして、ここで不自然なのは、正使であるはずの伊声耆を飛び越えて、副使の掖邪狗らが率善中郎将の印綬を拝受したとあるのです。伊声耆はどこに消えたのでしょう?後で推理を述べます(^_-)-☆

次に、245年(正始六年)に難升米に渡すための魏の正規軍の旗「黃幢」が帯方郡に届けられたとあります。このことからも難升米が倭国の軍事を掌握する人物だと分かります。ですから、実際の倭王なのです。陳寿は刺史のような役割の一大率や卑弥呼の政治を補佐する男弟やさらに、伊都国男王を登場させていますが、すべて同一人物の難升米であることを遠回しに言っているのです(詳しくは春秋の筆法に詳しい、孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018年 pp.227-302 参照)。しかし、官位が皆、難升米と同格の率善中郎将となっているのは、難升米が倭国の本当の王であることを伏せる司馬懿の意図だと思います。

そして、さらに247年(正始八年)にはいろいろとありました。韓伝に韓人が暴れて帯方郡太守弓遵(きゅうじゅん)が戦死したとあります。そこで新しい太守王頎(おうき)が着任したので、倭女王卑弥呼が載斯烏越(そしうお)らを帯方郡に派遣し、そこで狗奴国との戦いの模様を報告しています。

それを受けて、王頎は塞曹掾史の張政らを倭国に派遣し、詔書と黃幢を難升米に授けて、檄文を告げて諭したとあります。

その直後に「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」と書かれていますので、なぜ卑弥呼が死んだのかはこの文章からは不明ですが、丁度3月24日に日食が起こったのでそれが原因で難升米に暗殺されたと推理しています(注3)。

次に、「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與(さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の壱与という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。政(張政)らは檄を以て壱与を告諭した。)」とあります(注4)。

この男王が倭国王難升米であるならば、すでに倭国王ですから改めて立つまでもなく、難升米のことではないと分かります。そして難升米が消えたのは、倭国側の有力者である玄界灘を支配するムナカタ海人族の族長赤坂比古が姉の卑弥呼の死を知って(注5)、丁度、攻め寄せてきたと考えられる狗奴国軍への戦意を失ったからと考えられます。難升米は、魏を頼って帯方郡に「親魏倭王」の金印を持って逃亡したと推理しています。

そうなると、この男王は、倭国征討軍の大将だと推理できます。大将が狗奴国王卑弥弓呼であったならば、不服な勢力が狗奴国側にいるはずありません。ですから、狗奴国軍の大将は別の人物だと分かります。狗奴国は吉備で奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫が纏向に王宮を作ったと考えています(例えば、「ヤマト建国から邪馬台国がわかる」などを参照)。ニギハヤヒの子孫の尾張王が狗奴国軍の大将だったと分かります。それは纏向遺跡の外来土器を見ても東海のものが約半数ありますので、狗奴国の王に次ぐ有力者だったと推理できます。下図に示すように記紀では仲哀天皇の九州遠征の話にしていると関裕二氏が指摘しましたので、それをベースに推理しています(ただし、武内宿禰が久々遅彦であるとまでは言及されていません)。



その尾張王が狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にして倭国王に立ったと考えられます。そうすると倭国追討軍に参加していたムナカタ海人族の王久々遅彦(倭国大乱で戦死した王の子供で、記紀神話では大国主)が承服せずに内戦になったと考えることができます。内戦に勝利した人物が卑弥呼の宗女として13歳の台与を女王に立てたとあるので、卑弥呼と同じムナカタ族の姫巫女ですから、ムナカタ族の王久々遅彦だと分かります。

張政が台与に檄文を告げて諭したということですから、狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にして対立したということです。狗奴国を裏切った尾張王を殺したのは言い訳できますが、やはり狗奴国の実力者ですから卑弥弓呼大王や尾張王の親族から恨まれますので、張政を頼ったのだと分かります。

そして、「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹(台与は倭の大夫で率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雑錦二十匹を貢した)」とあり、内戦の前後で掖邪狗が登場します。つまり最初は倭国側の副使として朝貢し、内戦後に再び、今度は正使として登場していますから、上の推理が正しければ難升米を見限って大国主久々遅彦の傘下になったムナカタ海人族の赤坂比古のことだと考えられます。

掖邪狗が卑弥呼の弟の赤坂比古のことなのです。しかし、その名前は難升米が名付けたものです。「掖」は助けるという意味があり、正使伊声耆を助ける役という意味だと思います。呉音で「ヤクヤク」と読めます。ですから名前ではなく職名だったのかも知れません。そうすると伊声耆が赤坂比古の父、先代赤坂比古だと考えられます。文字の意味を考えると「伊」は神の意志を伝える聖職者を意味し、「耆」は「老いる」という意味があり、卑弥呼の太陽神のお告げを声に出して皆に伝える役割の老人を表しているので、これも意味は職名でしょう。呉音の読みは「イセギ」です。

卑弥呼は祝女(はふりめ、巫女)で父の先代赤坂比古が祝(はふり)・巫(かんなぎ)ということです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に見られる格好をしていたと考えています。



そして、前述のとおり赤坂比古父子が243年(正始四年)に朝貢しましたが、父には率善中郎将の官位が与えられていませんので、正使の役を子の赤坂比古が行ったからと思われます。父は老人と思われますので、洛陽に到着して体調不良になったか、そのままその地で死んだことも考えられますが、前回見たとおり宇佐市安心院町の奥城古墳に先代赤坂比古が葬られたと推理しています。

ということで、刮目天仮説に基づいて推理してみました。その他の難升米が書いて教えた地名や人名などの意味を考えていくと、解明が進むと思いますので、更に考えていきたいと思います。

【付録:ヤマト王権の成立過程の仮説】



(注1)魏志倭人伝の原本はすでに残っておらず、12世紀の版本を私たちは読んでいます。しかし、版本のもとにした写本に誤字があるようです。難升米が帯方郡に景初二年六月に行ったとありますが、その年の8月に公孫氏が滅び、その後明帝が楽浪郡と帯方郡を攻略したと考えられます。ですから、景初二年6月に魏の帯方郡太守に面会できませんし、明帝が任命した太守は劉昕ですが、難升米が面会した太守は劉夏です。ですから、景初二年は景初三年の間違いです。

日本書紀神功皇后紀なども倭女王が景初三年に朝貢したとあります。東夷を朝貢させたのは司馬懿の功績であることが晋書にもあり、陳寿が魏志倭人伝に朝貢した倭女王を絶賛した詔書のほぼ全文を掲載しているのは異例のことで、陳寿は魏の後継の西晋の基礎を作った司馬懿の功績を称揚するために魏志倭人伝を編纂したとみられます。版本に書かれたとおりに読むべきだという主張は、魏志倭人伝の存在意義やヤマト王権の成立過程を明快に説明できませんので、成り立ちません。

(注2)当時、遠方の大国が朝貢するのは皇帝の徳を慕ってのことで皇帝の評価になります。三国志 魏書明帝紀に曹操の甥曹真が洛陽から万六千七百三十余里離れた西域の大国大月氏国を朝貢させたので、曹真はその功績によって大司馬(国防大臣)に任じられたと思われます。陳寿は明快に書くことを避けています。曹真は直ぐに病死したので、子の曹爽が跡を継ぎ、軍事を握っていた実力者で司馬懿のライバルでした。司馬懿は曹真を超える功績を挙げたかったので、倭国を大月氏国よりも遠い東夷の大国としたかったということです。親魏大月氏王に金印が与えられているので、倭女王にも金印を与えています。陳寿は東夷伝のみで、西域伝は書いていないので、陳寿の目的は明らかです。

(注3)丁度、この年247年3月24日日没のほぼ1時間前に北九州で皆既日食が見られ、伊都国では部分日食ですが、夕日が消えながら海に沈んでいく、珍しい現象を伊都国の倭国王難升米が見たと考えられます。

難升米は狗奴国の軍勢が攻め寄せてくる情報を入手していたので、不吉なことが起こる予兆と考え、持衰(じさい)と同様に、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎であったから霊力が衰えたとして、暗殺を命じたと推理しました。

卑弥呼が日食のために殺されたことを示唆するものがいくつか見つかっています。

卑弥呼の巨大円墳を遥拝する場所がヒカケ(日欠け)とあります。卑弥呼が殺された場所だと推理しています。また、後に墓を目視して遥拝できないように土盛りされていますが、藤原氏が行ったと推理しています。そこに横穴を掘って、神話の女神アマテラスの岩戸隠れを示唆しています。ヒカケ横穴群と呼ばれています。さらに、卑弥呼と弟赤坂比古を祀っていると考えられる近江八幡市日牟禮八幡宮 (ひむれはちまんぐう、不比等が日群社と改名させています)が日触山とあり、日食を示唆しています。和邇氏の祖に日触使主(ひふれのおみ)が日本書紀に登場しますが、赤坂比古のことだと推理しています。詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」を参照ください。

(注4)孫栄建氏は前掲書(pp.319-321)で「ミスター掖邪狗」について注目しています。内戦は倭国王難升米と同格の官位をもらった八人の権力争いとみて、台与を女王に立てた後に朝貢しているので勝者だと推理しています。「難升米は敗死か逃亡した」として「伊声耆も負け組だろう」としています。しかし、なぜ倭国王難升米と八人の大夫が争わなければならなかったのかの説明がありません。また、狗奴国との関係も、そしてヤマト王権との関係も何も言及されていないので、残念ながら魏志倭人伝だけで想像した話ということになります。

(注5)縄文系の流れを汲む琉球神道にヲナリ神信仰があります。姉妹が兄弟を霊力によって守護する考え方です。難升米が自分のことを政治を補佐する男弟 としているのは、姉が卑弥呼で実の弟が赤坂比古の二人の精神的なつながりを見て、その連想から書いたのだと推理しました。卑弥呼は年齢が長大とあるので姉であることを示唆しているようです。


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