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【検証22】難升米という人物は?(その1)

2021-08-05 09:43:52 | 古代史
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難升米(なんしょうまい、なずめ、なとめ)という人物は日本建国の謎を解き明かすためのキーパーソンです。これまでに難升米の人物像を推理してきましたので、今回は難升米について整理しておきましょう。

「魏志倭人伝」で以下のとおり登場します。

「魏の明帝の景初二年(三年が正しい)六月、倭の女王卑弥呼は、大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接あって朝献したい、と言ってきた。郡の太守劉夏は、役人を遣わして難升米を魏の都まで送って行かせた。その年の十二月、倭の女王に返事の詔(みことのり)が出た。『親魏倭王に詔す。・・・汝のよこした使い、難升米・都市牛利は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を与え、余が直接会ってねぎらい、贈り物を与えて送り返す。・・・』
(途中略)
「其の六年(正始六年、二四五年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。」
「其の八年(正始八年、二四七年)、太守王頎(おうき)が官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず、倭の載斯(そし)・烏越(うお)等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞の曹掾史張政(ちょうせい)等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りて之を告喩せしむ。」

ここで、黄幢は魏の正規軍の軍旗ですが、詔書と一緒に、倭女王にではなく難升米に直接与えられてます。このことは難升米は倭国の軍事を司る人物であると曹魏は考えているということですから、「魏志倭人伝」の文章から女王卑弥呼の政治を輔佐する男弟のことであるし、同時に伊都国に置かれた刺史のような役割の一大率だったということも分かります。魏晋の時代の刺史は皇帝から将軍位を与えられて兵権を行使する州の長官です。難升米に与えられた率善中郎将は、「降伏した蛮夷を管理する(武官の)職名」と小南一郎「三国志Ⅲ」(筑摩書房1989,p.425)にあります。難升米の後の正始四年に倭国から派遣された大夫伊聲耆(いぎ)、掖邪拘(ややこ、わきやく)等八人も率善中郎将と印綬を与えられたとありますから、黄幢を与えられた難升米は率善中郎将の筆頭の位置づけであり、事実上の倭国王であったと考えられます。(2023.5.25 赤字修正)

また、二世紀末に倭国の乱が起こる前の七・八十年間は男王が居たと「魏志倭人伝」にあります。范曄「後漢書」に記された一〇七年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(すいしょう)は、残念ながら「後漢書」の原本が残っていないのですが、この記事を引用した諸文献から正しくは面(「回」の異字体「囬」の誤写)土(ウィト)国王師升(ししょう)と考えられます(白鳥庫吉説)。ですから難升米は「魏志倭人伝」に書かれた伊都国の男王だったと分かります。

難升米が魏側に教えた伊都国という字の意味も夏王朝末から殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)が定めた都という意味です。殷の名臣である伊尹は主君である放蕩者の太甲を追放したということで評価が議論されている人物です(孟子・尽心上篇)。

師升の姓である「師」は古代中国の宮廷楽師の役職を表すものですから、倭国では五七年に後漢光武帝から金印を賜った奴国王の宮廷楽師だったと推理できます。師升をリーダーとする宮廷楽師らがクーデターを起こし、奴国王を殺し倭国を奪ったと考えられます。最後の奴国王こそ、「日本書紀」に登場する高天原で乱暴狼藉を働き神々から、手足の爪を剥がされて、財産を全て奪われて追放されたスサノヲでしょう。「宋史 王年代紀」に記された第十八代王素戔男尊です。師升は奴国王に成りすまそうとして、金印の在りかを白状させようとスサノヲを拷問しましたが、結局手に入らなかったので殺したようです。一〇七年に百六十名ものスサノヲの部下を生口(戦争奴隷)として後漢安帝に献上して倭国王に認めさせたと推理できます。金印は師升らのクーデターを逃れた奴国王の部下のアズミ族が逃亡の途中、志賀島に隠し埋めたと推理できます。

ですからそのような事績を持つ師升王の一族の姓が難升だと推理しました。つまり「漢委奴国王」の金印の「倭」を「委」と書いたのと同じ流儀で、「難」は「儺」のニンベンを省略したものと考えられます。儺(な)の意味は「漢字源」によれば「おにやらい。鬼(疫病神)を追いはらう儀式を追儺(ツイナ)」です。奈良時代に奴国の在った福岡市は儺県(なのあがた)と書かれました(仲哀紀四年)。鬼やらいを意味する「儺」は、鬼のような主君を追放した故事を表しています。主君であった奴国王スサノヲを追放した(殺した)師升王が王都にしたところを、伊尹の故事から伊都国としたと推理できます。つまり、師升のクーデターは「日本書紀」のスサノヲ追放の記述として記録されていたということです。(注1)

師升王か、あるいは後を継いだ次の王が伊都国を王都として祭祀を整えたという意味の天然真鍮製の板片が1948年に伊都国(糸島市瑞梅寺)を水源として博多湾にそそぐ主に福岡市西区を流れる室見川の河口で発見されています。正確には分かりませんが、北京で後世に作った偽物と鑑定されているようですが、当時の倭人は漢字を知らなかったという前提でのものですから、その鑑定は誤りでしょう。師升王が朝貢した後漢安帝の延光四年五(月)と漢字で彫られていますから、一二五年のものですので日本で作られた最古の金石文だと考えられます。



「魏志倭人伝」に書かれた人名や地名などのほとんどに「卑字」が使われているのですが、伊都国だけが由緒のある「好字」が充てられているということから、難升米王自身が魏の役人に書いて教えたと分かります。曹魏の有力者司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と倭国王難升米が談合して、司馬懿の功績を曹魏第一のものとするために、倭国のフェイク情報を作ったと推理しました。難升米王は孟子も読む教養人だったのです。漢字を読み書できない無教養の倭人たちをバカにして人名や地名などに「卑字」を当てたのでしょう。難升米王は曹魏を後ろ盾にして、狗コロの奴国という意味の狗奴国と書いた旧奴国勢力を抑えるためだと推理できます。

奴国を滅ぼした師升王の末裔の倭国王難升米が、「魏志倭人伝」で伊都国男王、一大率、男弟、そして魏への使者の大夫(たいふ)と、それぞれ、別の人物が居るかのように記載された理由は、倭国が女王を統治者とするエキゾチックで遠いところにある大国として魏の朝廷の人々の興味を惹くためだったということです。
女王卑弥呼は、本当は倭国の統治者ではなく、縄文海人ムナカタ族のシャーマン王赤坂比古(卑弥呼の父、伊聲耆=年老いた巫(かんなぎ)、古代豪族和邇氏の祖)に太陽神の神託を与える、王族の巫女(ひめみこ)だったと推理しています。古琉球および琉球王国を中心に沖縄で信仰された琉球神道の原型と考えられる原始的な信仰を鬼道ということにして難升米が魏側に伝えたのだと考えています。難升米は、卑弥呼の伝える太陽神の神託を倭国の政治に取り込むことで、沖ノ島経由の海北道中ルートを支配しているムナカタ族を懐柔したと推理しました。倭国と敵対する狗奴国側に半島南部の鉄を供給させないためです。
(2024.3.27 青字修正)
(つづく)

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(注1)もちろん、スサノヲと姉アマテラスの話は全て創作です。皇祖神アマテラス女神は天武天皇の後に皇位を簒奪した持統天皇(皇后鵜野讃良うのさらら、天智天皇皇女)の正統性を主張するために創作した女神です。「日本書紀」が持統天皇の前に登場させた二人の女帝(推古、皇極・斉明)も前例を創るためのフェイクです。天照大神の名は「王年代紀」にスサノヲの後の第十九代王天照大神尊から採られたと考えられます。「先代旧事本紀」に物部氏の祖が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命とあり、「日本書紀」で神武天皇の前に大和に降臨していた饒速日命(ニギハヤヒ)とされています。史実はクーデターを逃れたスサノヲの弟で、山陰・北陸を支配する縄文海人ムナカタ族の協力で、鉄製の武器を供給されたニギハヤヒが、瀬戸内航路の要衝である吉備を平定し、後のヤマト政権の基礎を築いた人物だと推理しました。ニギハヤヒ大王の直系の人物が奴国を纏向で再興した人物で、狗奴国王卑弥弓呼(比古皇子ヒコミコの誤記か)と考えています。

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)


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