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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)

2023-02-25 13:37:25 | 古代史
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週刊文春の安倍元首相暗殺事件についての記事がようやく出て、さっそく読みました。奈良警察の不手際で済む問題ではなく、これまで多くの日本国民が信頼していた司法に対する不信感が募り始めているので、これは日本社会の危機的大問題です。このまま、真相がよく分からない状態で捜査を打ち切り裁判になるので山上被告を殺人罪に問えない可能性があると思います。様々な妨害を受けながら真相究明を行っているジャーナリストの山口敬之氏の動画を見ています。
山口敬之が文春「疑惑の銃弾」第三弾先取り解説!【山口インテリジェンスアイ】山口×さかき 文化人放送局@YouTube
【文春砲第三弾】なぜ奈良県警は捜査しないのか?できない理由が...【山口インテリジェンスアイ】山口×さかき 文化人放送局@YouTube

この中でさらに驚くことを知りました。岸田首相は最大派閥の長の故安倍元首相とのいくつかの約束で総理総裁の座に就けたのですが、安倍元首相は自民党が分断されることを恐れてのことだったようです。当然、日本国民も分断され、世の中が酷いことになるのは米国オバマ政権の失敗を聞いていますので実証済みです。暗殺された半年後には早速その約束を反故にしてLGBTを法律化しようとしていますので人間性を疑っています。すでに防衛という国家の最優先事項の財源を、必要のないどころか、最悪の増税で賄い、国民経済を破壊する民主主義の世界に類を見ないおぞましい政権だと憤りを感じていました。さらに皇位継承問題でも伝統国家の日本を根底から壊そうとするかも知れないと危惧しています。尊敬するチャンネル桜の水島社長のお話がありました。今回は、その女性天皇問題の元になる「日本書紀」の女神アマテラスの虚構について別の切り口から考えてみたいと思います。どうぞ最後までおつきあいください。


【直言極言】亡国の女性天皇論から目覚めよ[桜R5/2/24]
新日本文化チャンネル桜@YouTube

今回は、御成年後の御公務で国民の目に触れる機会の多くなった敬宮愛子内親王殿下を利用し、「女性天皇」から皇統断絶を画策する勢力の陰謀に警鐘を鳴らすと共に、残念ながらそれと知らずに乗せられている保守勢力へも注意喚起させていただきます。
出演:水島総(新党くにもり代表・国守衆全国評議会議長・頑張れ日本全国行動委員会幹事長)


皇統を継ぐことになっている男性のご皇族がいるにもかかわらず、最近の世論調査で日本国民の8割以上が女性天皇を待望し、8割近くが女系天皇さえ容認するという結果が出て愕然としました。古代史を研究して、天皇陛下の真の役割が分かり、女性天皇など歴史上存在しないことも、更には女系天皇の根拠になりかねない女神アマテラスまでもが創作だったことも判明しました。

多くの日本人は、現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が、天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習ったし、そのように信じて疑いません。日本の古代史が謎に包まれている理由は、これらの文献やそれ以外の文献間の不整合や考古学や民俗学などの成果との矛盾があるにもかかわらず、天皇の歴史書が正しいとして、謎の原因を徹底追及せずに放置していたからなのです。

天武天皇が編纂を命じたことは事実と思われますが、日本書紀は崩御から34年も後になってから完成しました。その時の権力者は藤原不比等でした。考古学によって三世紀の奈良県桜井市纏向遺跡でヤマト王権が成立したことが分かっていますが、不比等は藤原氏の千年の栄華を望み、建国時代に活躍した豪族の史実が不都合なので、日本神話を創作し、人代の歴史も大幅に改ざんしたことが、考古学や民俗学などの成果から判明しました。詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。

不比等が史実を隠す最大の理由は、天武天皇の皇后とされる鵜野讃良(天智天皇皇女)と組んで行った不比等本人のヤマト大王家に対する悪行によって権力を奪取した事実を隠し、正当化するためだと推理しました。

鵜野の孫文武天皇(天武天皇の皇子で、早世した草壁の子珂瑠、異例の15歳で即位)に皇位を継がせる正統性のために、高天原の最高女神アマテラスを創作し、皇孫ニニギノミコトの天孫降臨神話を創作しました。鵜野を高天原広野姫天皇(持統天皇)として即位したことにしたのです(注1)。

お伊勢参りは江戸時代から始まる庶民の娯楽のひとつとして知られています。伊勢神宮内宮の創建は垂仁天皇26年と日本書紀にありますが、皇大神宮は文武二年(698年)に成立したことが「続日本紀」に「十二月乙卯、多気(たけの)大神宮を渡会(わたらい)郡に遷す」とあることから判明しています。筑紫申真「アマテラスの誕生」(講談社学術新書)に詳しくありますので、これを参考にして推理することにします。

この多気大神宮は、内宮・外宮に次ぐ社格の滝原神宮のことで皇大神宮の別宮で揺宮(とうのみや)と呼ばれています。もとは宮川の上流にあったと「伊勢国風土記」逸文にあります。鎌倉時代中期に伊勢国出身の神道家度会行忠(外宮祠官、伊勢神宮禰宜)により編纂された「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」に垂仁天皇の皇女とされる倭姫命が天照大神を奉じて各地を巡幸し伊勢に鎮座するまでの伝承が記されています。伊勢神道の経典である「神道五部書」の一つとされています。宮川上流は住み心地が悪いので今の皇大神宮のある五十鈴川上流の宇治に引越ししたとなっています。この滝原神宮の祭神は元々アマテラスではなく川の神でした。宮川上流でも五十鈴川上流の宇治でも川の神を伊勢大神(いせのおおかみ)として祀っていた場所で女神アマテラスを祀るようにしたとのことなのです。

そして、前回の記事「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」の話に戻ると、丹後半島が最後の奴国王スサノヲとその子孫の代々久々遅彦と呼ばれたムナカタ族の王の根拠地だったわけです。天橋立の西にある籠神社(このじんじゃ)が元伊勢と呼ばれる伊勢神宮の元宮で、由緒書に「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。」とあります。そして、この神社の社家に残された「海部氏系図(あまべしけいず)」があり、御祭神は「彦火明命ひこほあかりのみこと)、別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様」とあります。



つまり、倉敷市楯築王墓の被葬者と推理したニギハヤヒ大王のことです。宮廷楽師師升らの反乱を逃れて、ムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興した天照大神尊です。その子孫の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化・崇神天皇)が三世紀に桜井市纏向遺跡に都を作り、四道将軍を派遣して日本を建国しました。史実はニギハヤヒの子孫の尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神)がまず九州に遠征し、大国主・女王台与などを討ち、ヤマトに戻って丹波などの大国主の勢力を武力で鎮撫したことが古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。この大国主の本拠地の丹波は尾張王の配下の海部氏の祖が占領したのだと分かります。

大国主の生誕地と推理したお隣の豊岡市竹野町の誕生之浦に、大国主神話で国譲りをさせたタケミカズチが上陸した地点との伝承がありますので、尾張勢の上陸地点だと分かります(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。ですから、丹後半島と豊岡市の竹野(たかの)という地名はもとは高野だったのを、文武二年(689年)に伊勢神宮を創建した時に竹野と変えたのだと推理できます。

そして、滋賀県守山市伊勢町・阿村町・栗東市野尻にある伊勢遺跡の特徴は、守山弥生遺跡研究会「国史跡 伊勢遺跡」に以下のように説明されています。

伊勢遺跡の面積は約30万㎡で、弥生時代後期としては 国内最大級の遺跡です。規模の大きさだけではなく、大型建物が計画的に立ち並び、祭祀空間を持つ遺跡は、この時期、他では見られません。建物には中国に源流を持つ当時の最新の建築技術が用いられています。また、遺跡からの生活遺物もほとんどなく、ここが、特異な場所であったことが推定できます。」さらに5種類の建築様式が見られ、「伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。」とあります。

ということは伊勢神宮外宮の創建も、五世紀末の雄略天皇のころに独り身ではさみしいという天照大神の神託で豊受大神を呼び寄せたのではなく、内宮創建よりもさらに古くから伊勢遺跡を造った勢力が出雲や伊勢湾に進出して同じ様式の社殿を造っていたと推理できます。琵琶湖沿岸部は息長氏の祖であるムナカタ海人族の根拠地だったと考えています。つまり記紀で神功皇后とされた女王台与の一族なのです。外宮の祭神豊受大神がこの地で祀られていたようです。ですから、伊勢の地に呼び寄せられたのは大国主(高野御子)の方だったのです。

天皇家はいかなる重大な機会においても、アマテラスオオカミを大化の改新よりも前にはまつるならわしがなかったのである、という事実です。つまり、敏達六年(五七七)以後大化元年(六四五)にいたるあいだは、まだやっぱりアマテラスは誕生していなかったのです。
 ついでながら述べておきましょう。大化の改新の後、孝徳・斉明・天智の三人の天皇がつづいて立ち、そのあいだ政治の実際は中大兄皇子=天智天皇がとるのですが、ただの一度もアマテラスをまつったり、伊勢神宮をまつったりしたという事実が、『日本書紀』の記事のなかには出てこないのです。
」(筑紫上掲書 p.73)

ここで斎王制度についてまた発見しましたが、今回はとりあえずここまでにしますネ。


(注1)皇后だったことも怪しいのですが、皇后が皇位を継いだという前例も創作しました。推古天皇と皇極(斉明)天皇(宝皇女)です。しかし、万葉集研究家渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)で女性天皇として存在していないことが判明しています。万葉集には天武帝と額田王の歌しか残されてはおらず、天武天皇と持統天皇は同じ陵墓(檜隈大内陵)に入り、仲の良いおしどり夫婦のような印象付けを行っているようです。天武天皇と天智天皇は兄弟でもありません。天武天皇は大悪人とされた蘇我氏の系統で、実は蘇我馬子とされる用明天皇の子孫です。天智天皇は用明天皇に殺された敏達天皇の子孫で、飛鳥・奈良時代は、日本建国時代と同様に史実が隠されて、皇統もほとんど改ざんが行われています。

しかし、不比等の歴史改ざんの目的が分かると、記紀から怪しい箇所が分かり、物証を探すことによって推理できます。例えば、高市皇子の子長屋王が長屋親王と書かれた木簡の一部がその広大な邸宅から出土しており、高市皇子が即位していたことの物証です(ここで、宗形天皇とします)。しかし、記紀には現れないので、記紀を信じて長屋王は特別待遇だったというのが定説のようになっています。日本書紀では高市皇子の母宗形徳善娘尼子娘(あまこのいらつめ)が身分が低いため即位できなかったとして太政大臣だったことにしています。ところが4世紀から6世紀まで天皇の妃を数多く出している和邇氏がムナカタ族だったことは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫神(イチキシマヒメ、卑弥呼と推理)であることから分かりますので、宗形氏が身分が低いという日本書紀の嘘がバレてしまいます。

応神天皇の皇太子だった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が和邇氏の祖日触使主(卑弥呼の弟赤坂比古と推理)の女宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の子で、兄の仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したという美談?を創作しています。そしてこのようなあり得ない話もよくあるんだよということで、神武天皇崩御後の皇位継承でそっくりな話も前例として創作しています。ですから、宗形天皇の存在を隠すためのデタラメな話だと分かります。そして菟道稚郎子が仁徳天皇に殺された宇治天皇として即位していたと推理できます。先日豪華な出土品で話題になった奈良市富雄丸山古墳の被葬者であると推理しました(詳細は「富雄丸山古墳の被葬者は?」参照)。空白の四世紀と倭の五王の謎も古事記から推理して解明できました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)」参照)。

【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?



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4 コメント

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Unknown (jikan314)
2023-02-25 17:54:15
いつも拝見しております。
万葉集巻第二に
藤原宮御宇天皇<代> [天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也] / 大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首
我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし
と有り、大津皇子は、神意を得るべきと密かに伊勢神宮を訪れ、同母姉の斎院大伯皇女が作った歌が有り、大津皇子は持統天皇に敵対している。そんな歌が万葉集には残されている。従四位の不比等より遥かに上位者の皇子のエピソードだが。
又巻第一には、吹芡刀自作の伊勢神宮に赴く十市皇女への寿歌
十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌
河の上の斎つ岩群に草むさず 常にもがもな 常処女にて
が残されている。
全て不比等が捏造したと言う説と矛盾しているとは思うのだが。
Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2023-02-25 18:47:14
こんばんは!
とてもうれしいコメント有難うございます。
万葉集は今まであまり縁がなかったので、現在勉強しながらやっています。というか、受け売りしかできませんが。ですからjikan様の疑問点に対して的確にお答えはできませんが、万葉集が何を目的に編まれたのかその理由はしっかりと理解しました。懐風藻でもそうですが、万葉集の編者大友家持?は、恐ろしい藤原政権に逆らうと抹殺されますので、あからさまに意図を示せませんので、「日本書紀」の内容に迎合することで、ささやかな抵抗、つまり、当時の人々は真相を知っているのですから、それ変だよねと暴露をしているのだと考えています。
大伯皇女が伊勢神宮の斎王だったかも、日本書紀の創作だと疑っています。というのも、その時点で伊勢神宮の社殿はなかったのです。何もないところに斎宮だけ建てますでしょうか?
また大友皇子の皇后だった十市皇女が、万葉集から言われる高市皇子の正妃なのか、疑問があるようですし、大伯皇女と同様に伊勢神宮には行っていないのではと考えています。このあたりの話をつぎの記事にしようと思っています。
このような見方で解決できない大きな矛盾がございましたら、是非、お教えください!どうぞよろしくお願いいたします。
Unknown (jikan314)
2023-02-25 19:25:59
万葉集の編者は、橘諸兄。その事務方にいたのが、大伴家持です。藤原四家が、相次いで天然痘で死に、藤原広継が謀反を起こし、凋落の一途でした。
そもそも、舎人親王は、長屋王と共に、不比等など足元にも及ばない存在ですね😁
東大歴史学者の戦後の皇国史観をどう見るのか?と思っております。
Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2023-02-25 20:15:36
早速、有難うございます。
おっしゃる通り、身分的には藤原氏は下位ですが、天皇の外戚として実権を握り、律令制を利用しながら特別な令外官に就いて上手に朝廷を牛耳って謀略三昧で恐れられていたのだと思います。
万葉集の編者はいくつか説があるようです。橘諸兄説もですが、長屋親王が藤原四兄弟に謀殺された恨みは家持にとって大きかったのだと思います。
天然痘で四兄弟が亡くなって、諸兄が実権を握ったのですが、藤原政権復活のために九州で藤原広嗣が反乱を起こし、それは平定されたのですが聖武天皇も伊勢に行幸して、戻らず諸兄の本拠地に遷都しました。聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位したとなっていますが、女性天皇はあり得ないので、空位として称制で藤原氏との力関係の中で、藤原氏内部の覇権争いもあり情勢は混とんとしていたと見ています。
藤原不比等に協力した舎人親王も薨去して、孝謙天皇が、舎人親王の息大炊王を淳仁天皇に即位させた後に、廃したとあります。そのようないろいろな混乱時期を経て「残巻増補(20巻本万葉集)が延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされている。」とwiki「万葉集」にあります。ですから、この時期に真相に導く左注などに家持が手を入れたのだと考えています。さきほどの話です。
桓武天皇の時期に「続日本紀」に残された記事は比較的信頼できると見られていますが、その後も藤原政権ですから、歴史改ざんはづっと続いたと思います。この辺りはまだまだ勉強が足らないので、申し訳ありません。理解するには時間がかかりますので、またお教えください(#^.^#)

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