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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)

2024-02-12 00:00:02 | 古代史
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2020-08-21 14:54:31にこのシリーズ最後の記事の図のリンクなどが切れていたのでその他若干の修正を行って再掲いたします。シリーズを(その1)から読み直すと高柴昭様の鋭い疑問に対してかなり込み入った話になっていますが、古代史にアブダクションを適用する手法をかなり細かく記述しましたので、ご興味があれば最初から読み直していただけると理解が深まるかと思います。その上で、更なる疑問点が生じたならば遠慮なくお教えください。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

高柴昭様の最後の疑問への回答です。

3)「古事記の神話は、基本的に日本書紀に倣って作られている」との仮説が提示されていますが、史書記載の通りとした場合、古事記の成立(712年)は日本書紀成立(720年)よりも古いため、日本書紀成立以降に古事記が成立したとするか、或いは採録された説話は古事記の方が新しいと論証されない限り、貴説は一気に確率ゼロまで陥落することになってしまいます。

先に完成していた「古事記」が、後にできた「日本書紀」に倣って作られる、というご意見はまさにSFの世界であり、独り善がりという感想を贈らせて頂きます。


これは以前にも書いてますが、ご紹介した日本神話の正体は?をお読みになってませんね。
「日本書紀」よりも先に「古事記」が完成したということは、古事記の序以外にどこにもないのですよ(#^.^#)

そして、その序については、古事記が完成したと書かれている712年ではなく、ずっと後の時代に書かれたものだということが分かっています。「古事記」偽書説の詳細は、岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎1994、pp.162-166)にあり、さらに詳しい論証は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま文庫2009,pp.196-214)にありますが、ここではさらに簡略して説明します。

太安万侶の墓誌が見つかって、実在人物と分かり話題になりましたが、天武天皇が舎人の稗田阿礼に史料を誦習させ、元明天皇(在位707-715年)が太安万侶に命じてその史料を一書にまとめ上げたと序にあります。

しかし、その話は眉唾ものです。古代の氏(うじ)は姓(かばね)によるランク付けがあります。太安万侶の姓は朝臣ですが、稗田阿礼には姓がないですから、天皇のお側に仕える舎人でもないし、天皇から命ぜられる身分ではないのです。また、二人ともそれまでに歴史書編纂に関わった何ら実績がありません。そのような人物に歴史書の編纂が命じられることなどあり得ないのです。

「続日本紀」に太安万侶の事績は登場するのですが、古事記が勅撰の史書であるならば、元明天皇から古事記編纂を命じられたことも、完成したことも書かれねばならないのですが、「続日本紀」だけでなく、奈良時代のどの資料にも、万葉集のひとつの例外を除き、どこにも「古事記」が引用されていないのです。

そしてその「ひとつの例外」は万葉集で「古事記」からの引用として軽大郎女(かるのおおいらつめ)の歌が載せてあるのですが、両者の歌の書き方を比べると、「古事記」の方が「万葉集」のものより新しい年代の書き方になっているので、別の古い「古事記」が存在することが分かりますが、現存する「古事記」とは別物ということになります。

岡田先生によれば、現存する「古事記」は、朝鮮最古の歴史書「三国史記」と以下のような不思議な共通点が見られるという結論です(「倭国の時代」p.196)。

「まず第一に、両方とも、それが扱う時代よりもはるかに後世にできたこと。
 
第二に、どちらもオリジナルな内容のものではなく、それ以前に存在したもっと確実な材料を勝手に書き直したものであること。

第三に、そうした改作の目的が著者の家柄を持ち上げることだったこと。

従って、六世紀やそれ以前の古代史の資料としては、全く役に立たないか、多少は役に立っても、信用度が極めて低いこと、の四つである。」


現存するこの古事記の作者は、太安万侶の後裔である九世紀の多朝臣人長(おおのひとなが)です。人長は「日本書紀」を朝廷の高官や下級役人にまで幅広く講義する役目の学者でしたが、人長の書いた「弘仁私記」の序に太安万侶が「古事記」を書いたと初めて登場しますから分かります。平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」で多(おおの)氏の身分が低く扱われていることに直接の動機があったようです。嵯峨天皇の父の桓武天皇は、生母が百済武寧王の子孫で、嵯峨天皇の生母藤原氏も百済系のようです(関裕二さんが鎌足を百済王子と推理しています)。つまり、百済と対立していた新羅の土地から来た渡来人には冷淡だったようですから、多氏も新羅系渡来氏族だったのではないかと想像できます。

しかし、人長の「古事記」の内容ですが、「日本書紀」が隠した歴史が書かれていると思われる「原古事記」の内容をその一部だけでも何とかして伝えたいという気持ちが伝わってきます。たとえば、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を最初の神とする別天神を、日本書紀の本伝の神代七代が現れる前に登場させています。

つまり、「(日本書紀は歴史を誤魔化しているけれども、)天御中主神が日本の最初の神ですよ」と正しているわけです。「王年代紀」の倭国の初代王なのですから、無視するなどもってのほかということなのです。

弥生中期前葉(前4世紀初頭)、半島南部から福岡市早良平野の吉武高木遺跡に旧呉王族の天御中主が移りました。そこで見られる特定集団墓の中の副葬品から王であることが分かるので、日本の初代王から数代はそこに葬られていると推定できます。下の写真のとおり、三種の神器(鏡・剣・玉)が見られます。つまり、古事記や王年代紀のその部分は真実に近いことを述べていると判定できるのです。しかし残念ながら「原古事記」と「古事記」は万葉集の歌がひとつ共通という情報しかないので、原古事記の内容はほとんど不詳ということになります。しかし、古事記で大国主の神話をまとめて載せていることから、「原古事記」にも書かれていた内容ではないかと思われます。


吉武高木遺跡3号木棺の出土品(福岡市博物館アーカイブズより)


太安万侶と新羅系渡来氏族の代表格である秦氏との関係も指摘され、古事記の編纂に秦氏も参画したのではないかという説もあります(注1)。そういえば前回見たとおり、「王年代紀」を宋に献上した東大寺の僧奝然(ちょうねん)も俗姓は秦氏です。「日本書紀」で改ざんされた歴史を正そうという氏族的な意思を感じます。「古事記」に大国主の神話を沢山盛り込みました。国譲りをした大国主こそ建国時代の主役だということを主張したいためでしょう。秦氏には建国時代の真相を伝える伝承が伝わっているようです。秦氏の研究はいろいろとやられていますが、あまりこの点を追求したものはないようです。猿楽の祖と言われる秦河勝ですが、観阿弥・世阿弥も秦氏の一族のようです。能を通じて歴史の真相を伝えているようです。これについては、改めてまた考えていきたいと思います。


さて、今回のシリーズのテーマ「アブダクション」に話を戻しましょう。この推論法についてはネットでも非常に分かり易く紹介されている記事がいくつかありますので(例えば、「アブダクション」の意味とは?事例と演繹法・帰納法との違い)、ここでは古代史解明に適用した科学的な手法を具体的に示し、その重要な特徴を述べましょう。

論理学で演繹法(deduction)と帰納法(induction)はよく知られています。このアブダクション(abduction/ retroduction)は思い付きやつじつま合わせのいい加減な推論というイメージを持たれ、誤解される向きもあるようですが、それはあらゆる分野の理論構築で使われる手法です。その経験のない一般の人の日常生活でも、身の回りの驚くべきを現象などを見て、その原因を推理することはよくあります。推理した結果が正しかったのかどうかを、関連する事象を探して検証する作業が加わると、科学的で有用な推論法になるのです。

この手法が、古代史の一連の流れを科学的に解明するのに有効と考えました。従来は古代史に関する事象を個別的に見て問題の考察を行って結論を述べるのですが、その事象の原因を考察すると、普通いくつもの原因が可能性として現れます。しかし決定的な証拠はありませんから、多数の説をあげるだけに留まり、可能性の高いものはあげるでしょうが、唯一つの原因に絞ることはできないのです。ですから、よそからこの分野を見るとそういう個別の問題が氾濫しているだけで、未だよく分からないという印象です。時代を俯瞰した歴史の真相を解明することが十分に出来ていないのが現状だと思います。

そこで、時系列的に史実群を眺めてみると、それぞれの史実で思いつく複数の原因を睨んで、想像力を発揮して、全体を矛盾なく説明できるストーリーを仮説として出すことが出来ます。それは一連の史実の中の個々の史実の原因を一つに絞ったことに相当します。ですから、この段階は仮説(仮のストーリー)なのです(最終的な一般化理論に対して途中の段階であるので作業仮説ともいわれる。しかし一般化理論も新たな事実が発見されると見直されることになるので仮説であることには変わらないが、定説となりうる仮説のこと)。(2024.2.11 赤字追加)

もしもその仮説(ストーリー)が正しいとすれば、起こるはず、起こっているはずの事象を考古学や民俗学などの科学的な成果の中から探し出して逐一検証する作業が次の段階です。

その検証で矛盾が生じるようなことがあれば仮説を修正することになります。その部分の修正によって、それまでの仮説も書き変える必要があれば、全体に矛盾のないように仮設(ストーリー)を書き変えなければなりません。現在得られる事象を探して仮説(ストーリー)を検証するこのような作業を何度も繰り返すことにより、かなり確信を持てる仮説(ストーリー)になります。この検証作業において同時に、アブダクションによって仮説(ストーリー)の詳細化や拡張も行われます。

この段階で検証する事象においても、事象に対する解釈が複数あって、確定的なことが言えない場合には、仮説と矛盾のない解釈を選択できるのならば、それを適用したらいいのです。例えば、古墳の築造時期を特定するにしても、どの出土物を重視するかによって推定が変わります。ですから、逆に仮説が正しいと考えたときに、その事象に妥当な解釈を与えることが出来るなら、それでいいのですが、それを恣意的な検証として嫌うのならば、その事象による検証を保留にしても構いません。他に検証すべき事象を探せばいいだけです。そして仮説が妥当だという確信に近いものになれば、一旦保留にした事象を改めて解釈することが出来ます。

要するに、全体として見た時に取り上げた事象のすべてを矛盾なく説明できる妥当な仮説(ストーリー)を見つけるのが目的なのですから。

【古代史問題の科学的解決手法


刮目天は最初の仮説を「新唐書」・「宋史」に書かれている「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として以下のような一連の史実を見て、それらを矛盾なく説明できる仮設(ストーリー)を設定しました。従来の通説や定説まで見直し、何故通説が生まれているのかを考えていくと、色々と疑問点がでてきます。ですから、通説よりもより合理的な推論をすることが出来るようになります。解明を妨げる固定概念があるとその推論は不合理に思えるので、それを乗り越える自由な発想がとても重要です。事実とそれ以外の解説者の意見や推理を区別できるようになれば、通説に惑わされることはなくなると思います。そして、そこで生まれた仮説(ストーリー)を検証していくことによって今まで謎であったことが解明されるようになる訳です。

107年 倭国王帥升ら後漢へ朝貢
204年 公孫氏、帯方郡設置
    この頃、纏向遺跡の出現
238年 公孫氏滅亡
    女王卑弥呼、魏へ朝貢
247年 北部九州で日食
    卑弥呼の死
    内戦後、台与が13歳で女王
265年 魏から晋へ帝位禅譲
266年 女王台与、晋へ朝貢
280年 呉の滅亡


実際に行った検証は以下のとおりで、個々の史実に関する事象による仮説(ストーリー)の検証の順序はバラバラですが問題はありません。ただ仮説を修正した場合は、すでに行った検証結果も矛盾ないか見直す必要が出てきますが、今のところ全体を見直すまでの大幅な修正や変更はありませんでした。今後、新事実などが発見されたら大幅な修正が必要になるのかも知れませんが、今のところ関連する事象を矛盾なく説明でき、数多くの謎が解明されていますので、自信を深めることが出来ます。

ここで示したような手法は科学技術の分野で日常的に行われているものですが、通常、成果論文ではこのような手法で得られた途中の推論は表に出ませんから、経験のない方はおかしな手法だとの印象を受けるのかもしれません。しかし、仮説が一般化理論として格上げされても、厳密にいうと「確からしいと思われる仮説」でしかなく、科学的な検証が常に行われるのだということを理解していただけると、納得していただけるのではないかと思います(^_-)-☆

【刮目天が実施した検証】

<奴国時代から邪馬台国時代の検証>
【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)従来の奴国に対する考えが変わるはず
【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?
【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ
【検証16】3世紀後半の伊都国だよ

<第一次大乱前夜の検証>
【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 何で沖ノ島で祭祀をしなければならなかったのか?
【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?子供向けの昔話に古代史解明のヒントがあった

<日本建国時代の第一次から三次の倭国大乱期の検証>
【検証6】倭国大乱の実相は?ヤマト王権が成立するまでの百年間に三回の大乱があったのだ!
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!定説は根拠を疑いましょう!
【検証11】定説の根拠を疑え【検証5】を深堀り!
【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ通説ではヤマト王権の成立を説明できないぞ!
【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ

<第一次大乱期の検証>
【検証2】前方後円墳のルーツ?纏向遺跡の最初の前方後円墳はどこがルーツ?

<第二次大乱後の大国主・台与時代の検証>
【検証1】佐賀に近江の土器が?前方後方墳がなぜ?
【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?大国主が魏使張政の進言を却下すれば虐殺の悲劇は起こらなかった!

<大国主・台与時代からヤマト時代の検証>
【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ/
【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?割竹形木棺の底の朱が決め手だった!
【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?ヤマトは誰の祟りにおびえたのか?

謎を解く段階でも推論によって仮説(ストーリー)の拡張などは行っていますので、詳しくは「古代史の謎を推理する」をご参照ください(^◇^)

【科学的な手法で得られた一般化理論】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その1)2020-08-14 18:35:42
古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その2)2020-08-17 19:33:16
古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その3) 2020-08-18 19:52:47


(注1)秦氏と深いかかわりのあると言われる松尾大社について、古事記で関連記事を挿入していることから太安万侶と関わりがあり、秦氏も編纂に参加しているという説が大和岩雄氏「秦氏の研究」大和書房 1993、p520~553にあるという記事を見つけた(「松尾大社の祭神 秦氏本系帳の謎」イワクラ(磐座)学会会報32号2014年10月23日掲載(電子版))

松尾大社の主祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)です。比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。Wiki「大山咋神」によれば、日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。」とありますから、大山咋は大物主(大国主)のことです。また、中津島姫命は市杵島姫命の別名とありますから卑弥呼が祀られているのです。秦氏は建国に関わった氏族だと思います。


最後まで面倒な話にお付き合いありがとうございました(*^▽^*)
今後も検証は続くと思いますので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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