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【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(*´Д`)

2021-11-04 18:08:18 | 古代史
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2019-06-08 12:14:49にアップしましたが、本日ニュースでDNA解析して被害者の顔を復元した以下の記事がでましたので、少し見やすくして再度掲載します。よろしくお願いします。

弥生人のそっくりさんいませんか?鳥取県が募集中
2021年11月4日 13時55分 NHK ニュース


弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡 2018.8.15 10:51 産経ニュース
 低湿地にある同遺跡は、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことなどから、保存状態の良い遺物が多数出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨(せいさん)な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。

 「魏志倭人伝」「後漢書」などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。同センターでは「大量殺戮(さつりく)の謎にせまれれば、大きな成果となる。『倭国乱』で何が起きたかを示す、唯一の痕跡になる可能性がある」と話している。


それでは早速、弥生時代の大量殺人事件の謎を見てみましょう(;´Д`)

1.殺傷痕のある人骨などが発見された現場は?

上の図の左上は現在の青谷上寺地遺跡(赤丸が中心部の集落)とその周辺の図ですが、下の図は弥生後期の景観を復元したものです。


青谷上寺地遺跡は、青谷町の西側を流れる勝部川と東側を流れる日置川の合流点南側にあたり、日本海にほど近い平野部に位置している弥生時代(やよいじだい)を中心とする遺跡です。道路建設(どうろけんせつ)をきっかけに1998年に始まった発掘調査によって、弥生時代前期終わりごろ(約2200年前)から古墳時代(こふんじだい)初めごろ(約1700年前)にかけて、この場所にムラが営まれていたことが分かりました。これまでの調査で、ムラのまわりに掘(ほ)られた大きな溝(みぞ)や水田の跡が発見されたほか、数万点もの遺物(いぶつ)が出土しました。地下の弥生博物館青谷上寺地遺跡ARアプリより)遺跡の詳細は青谷上寺地遺跡展示館のホームページで説明されています。


弥生の大量殺戮事件ですが、上の発掘状況の図に示すように遺跡から約六千点、約百三十体分の弥生時代の人骨が出土。このうち弥生時代後期後半(二世紀ごろ)の溝から二〇〇〇年五月に約五千三百点、百十体分ほどの人骨が散乱状態で見つかり、そのうち百十点、十体分には武器で付けられた殺傷痕が確認された。この中からは弥生人の脳が三点見つかっている。(注1)


骨の傷の点数から数えると、殺傷を受けた個体数は10体ですが、実際はもっとたくさんの人々が殺されたことでしょう。

これまで、傷ついた人骨は北九州を中心に西日本から見つかっていますが、これほど大量の殺傷人骨が見つかった遺跡は例がありません。当時何らかの戦闘行為があったものと考えられます。
「青谷上寺地遺跡の弥生人と動物たち」井上貴央、鳥取県教育委員会H18.3,p.7)

2.人骨のDNA鑑定で分かったことは?

ミトコンドリアDNAは母から子に伝わるので母系のルーツを調べることができます。青谷上寺地弥生人の人骨から「今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。」読売新聞(2018.11.18)とあります。その少し前の報告では「現在のところ 10 点の試料から DNA が抽出でき、ハプログループを決定・類推することができています。明らかになったハプログループは、D4群に属するかそれと考えられるものが 6 体、F群かそれに属すると考えられるものが 2 点、N群が 2 点となっています。D4群は朝鮮半島の人々や日本人に多い群で、ハプログループの分析からは半島の人々との関係が示唆されましたが、韓国の古代人の DNA 解析が進んでいない現状では、青谷上寺地弥生人の由来については、さらに多くの試料の検討が必要です。」「青谷上寺地遺跡の弥生人と動物たち」井上貴央、鳥取県教育委員会H18.3,p.22)とありました。

32体のうち縄文系はM7a1 の1体だけでした。このハプロタイプは日本列島では5.0~9.9%とあまり多く在りません。他のハプロタイプD4群は日本列島に最も高い頻度で見られます(36.5~37.5%)。また、F群は6.3~7.3%、Nの系列のN9が5.3~6.2%日本列島に見られます(崎谷満「DNA・考古・言語が示す新・日本列島史」勉誠出版、p.195)(注2)。

また、父系のルーツを知ることができるY染色体DNAについては、サンプルとして選んだ6人分の人骨について核DNAを解析し、4人からY染色体の塩基配列データが得られた。そのハプログループは大半の3人が縄文系だった。(「鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド?」2019.4.5 08:00産経ニュース)とあります。

すでに、「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」に記事にしていますが、縄文系ということは日本列島固有で現代日本人男性の39%であるハプログループ(Y染色体)D1b(D-M55等、縄文人)と2.3%のC1a1(C-M8、C型縄文人)ということになります。青谷上寺地遺跡では縄文系3人のうち2人がC型縄文人で、1人が縄文人、残りの1人がOタイプだったとシンポジウム「倭人の真実」(2019.3.2)に参加した方が報告されていた。P太さんに感謝!

Oタイプの詳細が分からないのですが、列島で一番多いのは倭人系(O-47z)25.1%、次いでシナ人系(O2)16.7%、半島に多い殷(商)人系(O1b2のうち倭人系を除いた部分)8.4%、原始夏人系(O1a)3.4%、最後に倭人の弥生文化とほとんど同じ南インドのタミル文化をもたらした越人系(O-M95)がわずか0.8%です。これについては後で根拠を述べますが、残りの1人は倭人系よりも越人系ではないかと考えています。

ちなみに、各集団間の混合度合いを推定する核ゲノムの分析もこれら6体の人骨について行っているようですが、現時点で詳細は分かりません。しかし、公表された情報からでもかなりのことが分かりますよ。

また、形態学的な分析によれば、渡来系弥生人の範疇に入る山陰地方の弥生人の中には、縄文的な色彩を残している個体があることが判明し、北部九州の渡来系弥生人とは異なった形質をもつものがあることが明らかになった。また、青谷上寺地遺跡の弥生人は、北部九州の渡来系弥生人より韓国の礼安里古墳人に近いことが統計解析によって明らかになったとあります(注3)。「古代人の脳と人骨のDNA解析および形態解析に関する研究」研究成果報告書概要より)

3.青谷の人々の生活は?

青谷上寺地遺跡は、日本海につながる静かな潟湖(内湾)、豊かな森や川、水田の周りには低湿地と、さまざまな自然に恵まれていました。
潟湖や外海では、網や釣り針、ヤスやモリで魚などをとっていました。磯や岩礁でカキやアワビをはがしてとるためのアワビオコシ(骨角器)も見つかっていて、潜水漁も行われていたことがうかがえます。
「青谷上寺地遺跡展示館」海の恵み・山の恵み より)つまり海人(アマ)ということです。そして、ムナカタ海人族が使う土笛が北九州から丹後半島あたりまでの日本海沿岸部で出土しています。



アワビオコシも形式は色々ありますが、青谷上寺地遺跡で見つかったもののひとつは半島南部の勒島で出土したもの(無文後期から原三国時代)と同じ鹿角製です(小林青樹「②海人の性格ーアワビオコシと銛頭」弥生時代の考古学5、同成社2011、p.173)。先述のとおり形態学的に礼安里古墳人と同じということですから、ムナカタ海人族は半島の南部で半島人たちに混ざって漁労生活をしていたのでしょう。彼らが祀る海娘神が宗像女神の原形です。現在も半島東部の江陵市江門洞の海娘堂で祀られています。卑弥呼の宮室址と考えている宇佐市安心院町の三女(さんみょう)神社に三柱石と言う大きな石棒が置かれています。半島東部の江原道三陟市海神堂公園では海娘神のために捧げられた男根を象った石柱が数多く立ち並んでいることで有名のようです。海娘神の伝承は変えられているようですが、元々は宗像女神と同じで、縄文海人が豊漁と航海の安全を祈願する目的だったと思います。

また展示館の資料から、森では弓矢や罠で動物を狩りました。木の実や食用植物の採集も、大変重要な仕事でした。 また、海からは人が生きていくのに欠かせない塩分だけでなく交易に使う干しアワビを作るために大量の塩を作り、森からは燃料となる薪なども得ていたと考えられます。

ということで青谷上寺地遺跡にはムナカタ海人族が生活して、彼らが海産物を仕入れ、半島南部の鉄素材などを手に入れる交易拠点のひとつが青谷だったと考えられます。

そして、広島県三次市で弥生中期に発祥した四隅突出型墳丘墓の大型首長墓が後期になると出雲から北陸に、さらに福島まで作られます。ただし丹後や若狭の首長は四隅突出型は採用しませんでしたが、同様の方形貼石墓を作っていますので、四隅突出型墓の祖型と考えられますので一緒に下の図に示します。図には後期後葉の四隅突出型墳丘墓と後期の方形貼石墓の分布を示しています。



この図から、青谷の人々は米子を拠点とするムナカタ海人族の一派と考えられます。妻木晩田遺跡の西側の『米子市淀江町稲吉地区の水田の下(角田すみだ 遺跡)から弥生時代の土器片が出土しました。その土器片には「頭に羽根飾りをつけて数人の人が櫂を持って船を漕ぐ」様子が描かれています。この小さな土器片が物語る淀江と中国長江文明とのつながりとは? 長江文明を支えた稲作漁撈民が、北方民族の侵略を逃れ、日本列島に向かい、それが淀江に流れ着いたのでは? 淀江は日本における稲作漁撈文明の受容地のひとつである可能性が高いのではないでしょうか。』安田喜憲「舟乗人が残したメッセージ」第7回ゆめ講演会前刷平成20年12月13日

春秋時代の越の水田稲作文化を持った羽人がやって来ていたことを示す証拠です。羽人は鳥を崇拝する越文化の人々と言われています。紀元前306年に長江下流域の越が畑作遊牧民族の楚によって滅ぼされました。越の人々は長江を遡って雲南省東部の滇池周辺の滇(てん)王国(紀元前400年から紀元100年くらい)に逃亡しましたが、彼らと同族だったからでしょう。また、紀元前473年に越に滅ぼされた呉の人々の大半がそのまま越の支配下に入っていたようですから、水田稲作漁労の呉人(江南系倭人)の一部は、すでに呉の滅亡時に半島南部や列島(北部九州)に入植していたので、越に居た呉人らが同族を頼って列島に逃亡してきたと考えられます。

最初に福岡県早良平野に根拠地を築いた呉王族(原始夏人系、周王族の姫氏の流れ)の天御中主に始まる奴国王は、逃亡してきた越の呉人(一部は越人)を出雲方面に入植させた模様です。彼らが日本海沿岸を支配していた縄文系のムナカタ海人族と交わり、越の文化を伝えたと考えられます。(中田力「科学者が解く日本の建国史」PHP新書)

4.殺害に使用された凶器は?

青谷上寺地遺跡では多くの鉄器が見つかっていますが、これらは青谷の人々のものと考えられます。青谷では鉄鏃は見つかってはいませんが、弥生後期の同じムナカタ海人族の大集落と思われる妻木晩田遺跡をはじめ島根県の遺跡からは鉄鏃が40個以上見つかっています(川越哲志編「弥生時代鉄器総攬」2000.2.22、pp.76-86)。

青谷で見つかっているのは狩猟用の骨鏃でした(「青谷上寺地遺跡3」埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅶ、pp.243-244)。恐らく武装した兵士は居なかったものと思われます。そこで「金属器が刺さったままの人骨は 4 点見つかっており、そのうちの1つは寛骨(骨盤の骨)に銅鏃が刺さったものです。X線微小分析の結果、人骨に刺さった金属器はすべて青銅製であることが分かりました。」(井上貴央「青谷上寺地遺跡の弥生人と動物たち」鳥取県教育委員会、平成18年3月、p.6)


 
図は遺跡で見つかった青銅製の鏃(銅鏃)の代表的なものです。右図は上で述べられた成人男性の骨盤にささった銅鏃ですので、襲撃した犯人たちは鉄鏃は使わない地方の人間だと分かります。つまり、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての銅鏃の分布を見れば犯人の出身地が分かります。

左図①は茎(なかご)の無い形式で、縄文からよく使用された石鏃の延長のものですが、このタイプは弥生中期後葉から古墳前期初頭まで使われていたと鳥取県埋蔵文化財センターデータベースの解説にあります。②~④は逆刺が付いているので刺さった矢を抜くときに創が拡大する痛いタイプです。銅鏃の型式分類と時期については柳田康雄さんの「九州弥生文化の研究」(学生社2002、pp.252-258)に解説されています。これによると、これらは亀井遺跡(八尾市)や西志賀遺跡(名古屋市西区)のものと似ています(注4)。そして⑤~⑨は骨盤に刺さっとものと同型の柳葉型です。最も長い⑤は長原遺跡(大阪市平野区)、小ぶりの⑨は長越遺跡(姫路市)、中間が四分遺跡(橿原市)のものと似ています。これらから考えると、播磨から河内、大和、尾張の混成部隊が襲撃したと考えられます。

5.事件当時の時代背景は?

最初の新聞記事では「魏志倭人伝」「後漢書」にある2世紀後半の「倭国大乱」の痕跡とありますが、シナの歴史書からは倭国というのは当時の大陸の先進文化が半島経由でもたらされる事実から北部九州と考えるのが妥当でしょう(勿論、半島から北部九州を経ずに直接、越前や北陸・上越地方にも流入してはいますが、日本海沿岸を流れる対馬海流のために漂着が主で、直接日本海を渡る双方向の交流はかなり困難があったと考えられます)。

ですから「倭国大乱」というのは3世紀後葉の纏向遺跡における「ヤマト王権」の成立過程で起こった、主として北部九州を戦場とする百年に渡る前例のない大規模な集団による抗争です(女王卑弥呼が共立される以前の170年ころから始まる戦乱、付録の図参照、【検証18】倭国大乱の痕跡だ!

女王卑弥呼時代に東部九州から中国西部・四国を勢力圏とするムナカタ海人族の一派が伊都国男王の懐柔によって旧奴国王族を裏切ったために沖ノ島経由での半島南部の鉄素材が、出雲や吉備などへ供給されないようになりました。特に吉備と出雲の旧奴国王族たちは、死活問題だということで、天照大神尊ニギハヤヒが平定した吉備から河内・大和に拠点を移したニギハヤヒを祖とする狗奴国王卑弥弓呼(卑弓弥呼ひこみこの誤写、崇神天皇のモデル)が各地の旧奴国王族らを纏向に集めました。

纏向遺跡の外来土器は伊勢・東海のものが49%と一番多く、次いで山陰・北陸が17%、河内10%、吉備7%、残りが近江・関東・播磨・阿波・讃岐・紀伊と続きます。大陸への玄関口の北部九州のものが無いことから、纏向が邪馬台国倭国に対抗する狗奴国だと分かります(「邪馬台国大和説は過去の学説だよ!」)。(2021.11.5 赤字修正)

倭国追討軍として、外来で最も大きな勢力であった尾張王(タラシナカツヒコ・仲哀天皇のモデル)を主将とし、台与(ムナカタ海人族の姫巫女、神功皇后のモデル)と狗奴国の官狗古智卑狗(師升に殺された奴国大王スサノヲの直系、武内宿禰・出雲の大国主命のモデル)が熊襲征伐に派遣されたという「日本書紀」の記述が対応します。

丁度、遠征軍が九州に到着する直前の247年3月26日に北部九州で観測された日食によって伊都国男王(倭国王師升の一族)に卑弥呼が暗殺されました。卑弥呼を姫巫女としたムナカタ族の族長赤坂比古(古代豪族和邇氏の祖)が遠征軍に降参したので、伊都国男王はさっさと半島に逃亡したようです。尾張王が卑弥呼の後に倭国王として立ったので、狗古智卑狗とその配下のムナカタ海人族らが承服せずに千人が殺される内戦となり、尾張王が殺害されました。そして帯方郡から派遣されていた張政の進言によって狗奴国ヤマトを裏切って、近江・北陸のムナカタ族の姫巫女台与が卑弥呼の宗女として13歳で女王に立てられました(張政はその功績が司馬政権に認められて帯方郡太守に出世した模様)。(2021.11.5 赤字修正)

6.大量殺りくの犯人像は?

日本海沿岸部のムナカタ海人族は弥生終末期以降は急激に衰退し、古墳時代初頭から出雲では方墳・前方後方墳、その他の場所ではヤマト政権の前方後円墳が作られます。ムナカタ海人族が急速にヤマト政権に呑みこまれたことを示しています。ということは、動機は一体何だったのでしょうか?

その事件からヤマト王権が纏向で成立する280年頃までに、出雲から北陸までの日本海沿岸部を版図に加えた台与・狗古智卑狗の倭国が魏の帝位を奪った西晋に朝貢し、倭国に呑みこまれそうになった纏向の狗奴国ヤマトがそれに反発して各地でテロ活動による抗争を繰り返したということでしょう。鉄器の豊富な丹後半島や江津の遺跡からも銅鏃が発見されているので狗奴国側の攻撃と考えられます。

青谷上寺地での住民の大量殺害は、狗奴国王卑弥弓呼の配下の物部一族と、その同族の新尾張王(オオタラシヒコ景行天皇のモデル、「日本書紀」では日本武尊の父、仲哀天皇の祖父として真相を誤魔化しています)の部隊を再度北部九州の倭国征討に派遣する直前に起こった事件のようです。

つまり台与や狗古智卑狗の配下の鳥取を拠点とするムナカタ海人族である青谷の住民への大虐殺は、尾張王タラシナカツヒコを殺された恨みと纏向ヤマトを裏切ったことへの復讐でしょう。戦闘員同士の殺し合いではない模様ですので、油断していた集落を夜陰に紛れて丸木舟の武装集団が襲い、住民を見境なく殺害した模様です。犯行グループは大和・尾張・河内・播磨の狗奴国の勢力だったことが襲撃に使われた銅鏃からも分かります。

「倭国大乱」などの集団による抗争は、通説では弥生時代に水田稲作が始まって食料の争奪や近隣との水争いなどが主な原因としていますが、日本列島には元々縄文系の人々が居て、そこに大陸からの戦争避難民が寄り集まったので、お互いに助け合って厳しい自然環境を生きるのが基本でした。ですから、元々の「倭国大乱」の原因は北部九州の倭国を支配していた奴国大王スサノヲ(「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊)を、宮廷で司祭をしていたシナ人(Y-DNAハプログループO2)の師升らがクーデターを起こして殺し、倭国を乗っ取った二世紀初頭の事件から発生したものなので、通説とは全く違ったということです。勿論、小規模な小競り合いは各地域で起こった痕跡(墓の中の殺傷人骨)から分かりますが、地域を超える広域な戦争と呼べる大規模な集団的抗争がその延長線で起こったということではないのです(2021.11.5 赤字修正)

二世紀初頭に奴国宮廷楽師の師升らがクーデターを起こさなければ日本列島は平和でしたので、青谷上寺地遺跡の罪のない多くの人々がこんなにも残虐に殺されることもなかったのではないかということです。青谷大量殺人事件はその背景となる日本建国の争乱の過程で起った悲劇のひとつです。その後の日本人の魂の拠りどころとする神道などの民俗宗教は、この時代に亡くなった人々への鎮魂の祈りから生まれたものでしょう。(【検証19】日本建国のための戦いだ!)。(合掌)

【付録】



(注1)埋葬施設以外でバラバラな状態で出土するという異例の状況が「敵兵の死体を溝に捨てた」などさまざまな推測を呼んだ。これに対し井上(貴央)教授は、大たい骨や上腕骨など形状から同一人物のものと分かる一対の骨がどこにあるかを調査。その結果、五㍍四方の範囲に上腕骨十八体分、距骨(きょこつ、足首の骨)十四体分などが密集した状態で左右対で確認された一方、五、六㍍以上離れた場所から同一人物の骨が見つかる例も多いことが判明した。

また死体が地面に野ざらし状態で長期間放置された場合、犬などがかんだ跡が人骨につくのが普通だが、同遺跡の人骨には全くついていなかった。クワのようなもので一部が削り取られた頭骨や、くいを上から打ち込まれて砕かれた頭骨もあった。

これらの状況から井上教授は、死んだ直後に狭い場所にまとめて野積み状態にされ、土をかけて埋葬された後、白骨化したころに何らかの理由で人為的に掘り起こされ、一部の骨が散乱したと判断した。

さらに生まれて一カ月もたたない新生児の骨三体分が殺傷人骨に交じって出土。戦闘時に出産直後の子どもが複数いるのは考えにくいことから、この区域は元々、死者を埋葬した墓域で、そこに戦闘で大量に死んだ人たちを埋めた可能性があることが分かった。

また一歳から十歳までの子どもの骨が全くないことから、子どもが戦闘に巻き込まれず逃げたことも考えられるという。

このほか脳にDNAが含まれていたことも判明。発掘スタッフのDNAが作業時に脳に付着した可能性もあり、今後、解析を急いで今秋にも調査結果を中間発表する。

井上教授は「死者に対して一つ一つ穴を掘って埋めるような状況ではなかったのだろう。新生児の骨があったことで、これらの人骨がすべて戦闘で殺されたわけではないことが分かった」と話している。
(2002/03/08 日本海新聞)

(注2)日本列島にみられるmtDNAとルーツの移動ルート


「D4 (3010, 8414, 14668) :北東アジアでよくみられ、日本人、琉球人、朝鮮人、モンゴル人などでは最も高頻度で観察されるタイプであり、とりわけ日本人及び琉球人に於いてその頻度が高い。」ハプログループD (mtDNA)

Wiki「ハプログループM7a (mtDNA)」によると「約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループ[1]である「M」型から分岐したM7より分岐したグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し北上して日本列島に到達した系統にあたる[2]とする見方がある一方で、シベリア南部 - 極東あたりで発生したとする見方もある[3]。」

また、Wiki「ハプログループF(mtDNA)」によれば、「日本列島では、沖縄・宮崎をはじめ各府県にも分布し、北海道にも多少その痕跡が見られることから、縄文時代には既に南方諸島から北上したことがうかがえ、現在、日本人の約5.4%がこのハプログループFに属している[18][19][20]。」

ハプログループN9は、N9a、N9b、Yの3つの下位系統に分かれる。このうちYはアイヌを含むオホーツク海沿岸に多い(詳細はハプログループY (mtDNA)を参照)。ハプログループN9aは東アジア、東南アジア、中央アジアに広くみられるが、とくに中国南部や台湾先住民に比較的多く見出される[2]。一方のN9bは朝鮮半島や沿海州の先住民にもわずかに見られるが、基本的には日本にその分布が限られている[3]。Wiki「DNAハプログループN9 (mtDNA)」より)。

ハプログループB (mtDNA)の型の祖系の「R11'B」は、ヨーロッパの白人の母系などと祖を同じくする「N」型から分岐した系統にあたる[2]。ハプログループBは、約4~5万年前にアジアで分岐し、東南アジアやポリネシアなどといった南方に広まった代表的なグループである[3]。
縄文時代には既にこのB系統が日本列島にいたことが縄文人骨の解析などから明らかとなっており、現在では、特に東京と宮崎で多く検出される[9]。日本人に占める割合はB4(9.1%)、B5(4.3%)である[10]。



(注3)邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 -韓国の旅-/ 加羅・新羅の旅
ここから発掘された 4-7世紀にわたる250体の遺体は、三国古墳時代人の形質を知る上で重要な遺跡となっており、それによれば、男性164.7cm、女子150.8cmという身長数値を示している。またこれは、日本の北九州弥生時代の遺跡群(金隈、土井が浜、吉野ヶ里等)のかめ棺から出土する人骨とその数値が殆ど同じである事が確認された。ちなみに、福岡市金隈(かねのくま)遺跡から出土した人骨から割り出された平均身長は、男性163.7cm、女性151.3cmである。

(注4)弥生後期から古墳初頭の波来浜遺跡(ならはまいせき、江津市)でもよく似たタイプの銅鏃が見られますが、江津辺りはムナカタ海人族の縄張りですから鉄鏃が使われていたはずです。恐らく青谷上寺地遺跡と同様に河内勢か尾張勢の襲撃を受けた痕跡ではないでしょうか。



【参考記事】
青谷上寺地遺跡と周辺域の弥生時代の景観史、安昭炫、第四紀研究54(5),2016.10

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