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愛宕権現の正体は赤坂比古か?

2021-11-14 00:02:00 | 古代史
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前回アップした火の神カグツチの記事の中で読者は聞き飽きたかも知れない経緯を注に移したときに書いておきたかった箇所を消してしまったので改めて記事にしました。

卑弥呼の死後にムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦との大きな抗争に発展し、尾張王タラシナカツヒコ(仲哀天皇、日本書紀:足仲彦、古事記:帯中日子)が殺されて、鳥栖市永吉町赤坂所在の赤坂古墳に埋葬されたと推理しています。

赤坂古墳は鳥栖市教育委員会の説明によれば、以下のとおりですから、近江や尾張で始まり、盛行した前方後方墳で、九州最古級のものですから時代的にも形式的にも尾張王タラシナカツヒコのものと考えられます。
(赤坂古墳 左クリックで拡大)
 赤坂古墳は古墳の出現期(3世紀後半)の築造と推定される、全長約24mの前方後方墳です。
 現在確認されている定型化した古墳の中では、鳥栖地域最古のもので、九州でも最も古い初現期古墳の一つに数えられています。南側に筑紫平野を望む立地で、標高約35m、周辺との比高差10~15mの丘陵の尾根に沿って、ほぼ東西方向に主軸を取っています。後方部は、一辺約16mの正方形で、高さ(比高差)約2m、東側に約8mの低平な前方部を連接しています。前方部の幅ははっきりとしませんが、5m程度のごく狭いものと思われます。周溝は幅約1.5m~2.5m、深さは約80cmです。
 死者を埋葬する主体部は未確認ですが、一部削られたところから黄白色の粘土塊が採集されていることから、過去に破壊されているようです。おそらく粘土槨と呼ばれる、粘土で割竹形木棺を覆うタイプの主体部であろうと思われます。
 墳丘くびれ部分と周溝内から、古式土師器の二重口縁壷・小型壷・小型器台などが出土しましたが、これらは当時の近畿地方の影響を強く受けたものです。


古式土師器は畿内の庄内式土器ですから尾張王タラシナカツヒコの子オオタラシヒコオシロワケ(景行天皇)が仇の赤坂比古を殺し、ここを占領した時期に古墳の周濠部に献じたものでしょう。古墳は赤坂比古がタラシナカツヒコの部下に築造させたのではないかと思います。



そして、その西側約300mに愛宕神社古墳がありましたよ。卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の墓よりも少し小ぶりですが、直径100m以上ありそうな、かなり大きい円墳です。つまり、同じ玄界灘を活動域とする縄文海人ムナカタ族のものだということは、5・6世紀に宗像氏が築造した福津市にある新原・奴山古墳群の多くが円墳であることからも分かります。ということはやはりここに赤坂比古が眠っているということでしょう。盗掘されてなければいいですが。恐らくは尾張王タラシナカツヒコの仇討で、その子の尾張王オオタラシヒコオシロワケに殺されて葬られたのでしょう。

古墳に愛宕山神社があり、墳頂に小さな祠があります。恐らくは愛宕信仰が盛んになった戦国期から江戸時代に作られたのだと思いますが、愛宕権現の本地仏勝軍地蔵が祀られています。愛宕権現(あたごごんげん)は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。wiki「愛宕権現」)とありますが、下図のとおり馬に乗った男性の将軍のようですから、真相を隠すために表向き記紀神話の女神イザナミとしているだけで、愛宕神社の旧称は阿多古神社ですからイザナミと同じ縄文系ムナカタ海人族の一族赤坂比古(阿田賀田須命/吾田片隅:アタカタス/ミの子孫と推理、アタカタスはイザナミの父と推理)に因む名称のようです。ということは愛宕神社の本当の主祭神はイザナミではなくカグツチ(タラシナカツヒコ仲哀天皇)でもなく赤坂比古だったということですね。実際に赤坂比古が尾張王タラシナカツヒコを殺した史実を誤魔化すために、創作されたカグツチの神話に合わせて愛宕権現赤坂比古と一緒に火の神カグツチが祀られているのでしょう。(2023.1.1 赤字追加)


さらにその南西約300mに、時代はかなり遡りますが、弥生時代中期の集落跡で、銅鐸や銅鉾などの青銅器鋳造の工房がある安永田遺跡があります。冶金技術者は奴国大王の要請で徐福が連れてきたと推理しています。発見された銅鐸の鋳型は、初例が広島市東区福田(木の宗山)から発見された福田型と言われるもので、病気や災厄を避けるために眼や顔を表現した邪視文(じゃしもん)が彫られています。銅鐸文化が北部九州にもあったことがこれによって分かった重要な発見でしたが、徐福が連れてきた楽師たちが銅鐸の音を宮廷祭祀に使ったと考えています。

さらにそこから南西約1kmの鳥栖市古賀町に弥生終末期から古墳初頭の牛原原田遺跡があり(下の図の⑲)、住居跡付近、つまり住居の外から鉄鏃が1個発見されているので、ここで戦闘があったかも知れないと考えています。当初、赤坂古墳に近いことから、尾張勢が使う銅鏃ではなく鉄鏃でしたので、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)が立て籠もった集落を赤坂比古が、攻撃して討ち取ったと考えましたが、その後のオオタラシヒコオシロワケ(タラシナカツヒコの後を継いだ尾張王、景行天皇)に従軍した狗奴国大王直属の物部勢が赤坂比古を攻めた痕跡かも知れませんので今のところは保留です。今後の調査で分かるかも知れませんね。

(左クリックで拡大)


ということで、前回の記事の補足でしたが、当時のことがかなり見えてきましたね。
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