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【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)

2021-08-14 17:07:04 | 古代史
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前回、日本建国の謎を解くキーパーソン倭国王難升米(「なしょみ」がいいかも)の一生を見ましたが、今回は、帯方郡から使いとして難升米王に詔書と黄幢(魏の正規軍の軍旗)を届けに来た、難升米王の運命を決めた人物のひとりである張政について見て行きます。

張政は、塞の曹掾史という役職と「魏志倭人伝」にあります。「国境守備の属官」と藤堂らが解説していますから下級役人です(「倭国伝」講談社学術文庫2010、p.113)。しかし、帯方郡に新しい太守王頎(おうき)が着任し、その挨拶と狗奴国との戦況報告で来た倭国の使者たちに預けず、倭国に魏を代表する大使として張政を派遣して、重要な品々を届けさせたので、張政はかなり評価の高い人物だったようですが、本当に有能な人物でしたね

張政は倭国王に「檄を作りて之を告喩せしむ」と「魏志倭人伝」にありますから、魏の皇帝が黄幢を与え、後ろ盾になっているから安心して狗奴国と戦えというお触れを出したということでしょう。

しかし、「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」とあり、すでに卑弥呼は亡くなっていました。そして、「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」とあるとおり男王が立ったのが皆不服で、殺し合いになり千人余りが亡くなったとあります。

ここで、この男王を難升米王と見る方がいるかもしれませんが、もしも狗奴国勢が倭国に押し寄せていなければ、すでに卑弥呼の政治を輔佐する男弟が王に立っても誰も不服に思うはずありません。狗奴国勢が到着して倭国勢と戦闘になって倭国が勝ったと考えるならば、戦闘に勝利した倭国王が称えられるはずで、「國中服さず」という表現は当たりません。いずれにしろ卑弥呼の後に立った男王は難升米王ではあり得ません。

次に来る「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」という説明から考えると、狗奴国勢はすでに難升米王の倭国を蹴散らして、狗奴国軍の大将が男王、つまり倭国王に立ったので、纏向の狗奴国王卑弥弓呼を裏切ったことにより、部下たちから不満が出て、内部で争いになったと考えるのが自然です。

そしてこの戦いに勝利して、死んだ卑弥呼の後釜の倭国女王を立てて争いを収めたというのですから、これはこの内戦の勝者が狗奴国大王を裏切って魏を後ろ盾にしたと分かります。

そしてその女王が子供だということですから、実質的な王はこの戦いの勝者です。台与は卑弥呼と同族だというのです。すでに卑弥呼は玄界灘を支配するムナカタ海人族(和邇氏の祖)の姫巫女(宗像三女神の市杵島姫)と推理しています。なので、台与は日本海沿岸を支配するムナカタ海人族の姫巫女ということです。代々ムナカタ族に王とされていたスサノヲ大王直系の狗古智卑狗(久々遅彦)が内戦の勝者だったと分かります。「魏志倭人伝」で狗奴国の官として、卑弥弓呼王よりも先に登場する、狗奴国の有力者です。

これによって久々遅彦(狗古智卑狗)は卑弥呼の版図であった九州・四国・中国西部を加えて山陰から北陸まで支配する王になり、さらにその後も紀伊半島沿岸部や静岡県・長野県や関東各県など列島の大部分を支配することになったので(【検証19】日本建国のための戦いだ!」)、後世に大国主命と呼ばれて各地で祀られています。下の図は纏向の狗奴国が大国主の版図を武力で奪った証拠です。記紀では景行天皇・日本武尊(ヤマトタケル)や崇神紀の四道将軍の話に対応します。神代では大国主の国譲りという神話を創作して藤原氏の遠祖建御雷神(タケミカズチ)を活躍させました。(2021.8.20 青字追加)

(左クリックで拡大)

ということで、「政等以檄告喩壹與」ですから、張政は勝者の大国主久々遅彦に魏を後ろ盾にするように説得して、台与を女王と立てたと推理できます。もしも、久々遅彦が、狗奴国大王を裏切らなかったとしたら、倭国は魏と敵対することになったはずです。東夷の果ての倭国の、それと敵対する狗奴国との抗争に対してわざわざ魏が詔書と黄幢を持たせて使者を送ったその背景には、曹魏と敵対する孫呉が狗奴国の後ろ盾になっていた可能性も考えられます。(注1)

ですから、倭国が曹魏を裏切らないように工作した張政の功績は曹魏(実質上、司馬懿)が賞賛すべきものでしょう。その後「魏志倭人伝」では「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」と締めくくられています。掖邪狗(ややく)は、正始四年(243年)に魏に派遣され、生口や倭の錦などを献上して、難升米王と同格の率善中郎将と印綬を授けられた人物です。倭国王が大国主に代わっても要職に就いていますので、掖邪拘はムナカタの族長で和邇氏の祖の阿田賀田須命(アタカタスミ)ではないかと推理しています。

張政は掖邪拘らに帯方郡に送り届けてもらったとありますが、この記事に年号が書かれていないので、明確には分かりませんが、正始八年(247年)に次々起こった混乱が収まってからのはずです。その時の献上品から見ると、後漢の時代から倭国が贈ったもので最高の品々です。取り敢えず急いで朝貢するには豪華すぎます。大国主が狗奴国を裏切ると決断して魏を後ろ盾にしたばかりですから、ある程度落ち着くまで張政は帰国できないはずです。ですから、張政は帯方郡太守には使いを送って状況を報告し、倭国の状況は司馬懿の耳に入って、司馬懿としては張政を倭国に留めて、その活躍に期待したのだと考えられます。

さて、そこでその推理を裏付ける証拠が帯方郡址と考えられる黄海道鳳山郡文井面(北朝鮮沙里院)で見つかっています。図のような帯方郡太守張撫夷墓と銘が塼に記されたレンガ造りの立派な墓です。太歳戊申と年号が書かれており、288年ということになります。干支ですから60年ごとに戊申の年が来ますので、348年とも考えられますが、帯方郡は204年に公孫氏が設置してから313年で終わっています。墓の型式編年とも矛盾しないと報告されていますので288年で良いようです。(注2)

(左クリックで拡大)

黄海道安岳郡龍順面の安岳三号墳の墓誌に「護撫夷校尉」と書かれたものが見られ、撫夷は韓を含む東夷を担当する武官の職名とも考えられますが、東晋穆(ぼく)帝の永和十三年(357年)のものです(斎藤忠「古代朝鮮文化と日本」東京大学出版会. 1981、p.28)。

ですから撫夷が一般的な官職であると考えると帯方郡太守張撫夷は帯方郡太守と同じ意味合いの東夷を担当する者ということになりますから、撫夷とわざわざ記すには特別な理由があると思います。つまり、正始八年(247)に派遣された塞曹掾史張政が東夷の大国であった倭国で、上に述べた顕著な功績を揚げたことを記念して撫夷という字(あざな、成人して実名のほかにつける別名)を自ら名乗ったと考えるのが自然です。その後の東晋でも、東夷の統治で功績を揚げた張政の事績から撫夷校尉という官職名にしたものではないかと考えます。

さらに、塼で見られた張使君ですが、(注2)に紹介された字(あざな)とする説や西谷正先生の訳にある尊称とする説もありますが、国から詔書と黄幢を持って倭国に派遣された「大使」という意味が張政にピッタリです。

下級役人であった張政がその後も魏少帝(事実上は司馬懿)の命を受けて倭国に、一旦帯方郡に帰還した後も、官職は分かりませんが度々大使として派遣されて滞在したと考えられます。あるいは、そのまま倭国に大使として滞在して、大国主の倭国の対外政策を監督したとも考えられます。

265年に司馬懿の孫司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、その挨拶のために女王台与が翌266年朝貢した際に、掖邪拘に張政を帯方郡まで送らせたのかも知れません。というのも、献上したものが、前述どおり前例のない豪華なものなのです。青大句珠は青い大きな勾玉ですから、「隋書 倭伝」に記された『如意宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜はすなわち光り有り、云う、「魚眼精」也と』とある魚の眼精(まなこ)と呼ばれる珍しい宝石を思い起こさせます。(注3)台与のこの献上品によって倭国は珍しい宝石の島という評判が立ったと考えられます(王勇「中国史のなかの日本像 」農山漁村文化協会2000) 。

張撫夷に話を戻して、西晋武帝司馬炎の晩年ですが、288年頃に張使君の長年の功績が認められてようやく帯方郡太守に出世したので、河北省の漁陽郡の父母の遺骨を移し、自分もこの墓に入るために立派なレンガ造りの墓を造ったのではないかと考えられます。247年に倭国に最初に派遣されたときに三十歳くらいだとすれば四十年後ですから七十歳くらいです。もう少し若かったのかも知れませんが、かなり優れた人物ですよね。

【参考記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆


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(注1)孫呉の紀年銘の鏡が二面あります。山梨県鳥居原古墳の赤烏元年(238)銘の画文帯神獣鏡と、兵庫県宝塚市安倉遺跡の赤烏七年(244)銘鏡です。狗奴国が孫呉を後ろ盾としていたので、曹魏の正規軍旗を倭国王に授けたと考えられます。

(注2)竹谷俊夫「張撫夷墓塼の観察所見」(「王権と武器と信仰」同成社2008,p.488)の(20)に以下のとおり記述されている。
町田章1979「帯方太守張撫夷墓」世界考古辞典(上)平凡社655頁
出土した銘文塼から「・・・墓主は中国河北省蜜雲県(漁陽)出身で、張撫夷(字は使君)といい、帯方太守であったことがわかる。戊申の歳は、西晋の大康9年(288)にあたり、墓の型式編年とも矛盾しない。この墓の存在は、同じ文井面にある唐土城を帯方郡治址とする有力な根拠になっている」と述べている。
有光教一 1959「帯方郡遺跡」『図解考古辞典』平凡社 609頁 


(注3)「隋書 倭伝」ではその前に阿蘇山が紹介されているので、阿蘇で採れる青ガラスの勾玉という解釈もありますが、台与は越(こし)を支配するムナカタ海人族ですので、糸魚川でしか取れない青ヒスイと考えるのが良いようです。


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