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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その13)崇神紀四道将軍も景行天皇・ヤマトタケルの遠征も全て古墳時代初頭の出来事だった

2024-02-10 08:51:44 | 古代史
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2022-07-13 22:12:59に記事にしましたが、リンクが切れていたので修理しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

6.日本建国の謎
③崇神紀四道将軍も景行天皇・ヤマトタケルの遠征も全て古墳時代初頭の出来事だった
日本建国の戦いの様子は、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。四道将軍は、崇神天皇十年にそれぞれ、北陸に大彦命(オオビコ)、東海に武渟川別(タケヌナカワワケ)、西道に吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波に丹波道主命(タニワノミチヌシ)を派遣し、翌年には各地の敵を帰順させて凱旋したとありますが、それぞれの戦闘の痕跡が見つかりました。



三世紀後半の(弥生終末期から古墳時代初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況をGoogleMap「終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)」で公開していますので、それを参照しながら以下に説明しています。クリックして確認してください(^_-)-☆

大彦命は「第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。」とあります。図の纏向遺跡から北陸への矢印が大彦命のルートということになります。石川県の戦跡は鉄鏃9個、銅鏃8個とあり、これらは集落戦が行われたことが分かります。北陸は大国主の傘下のムナカタ海人族息長宿禰王の一族の支配域と考えていますので、(その10)で示した高温鍛造遺構のある小松市の一針B遺跡もあることから、石川県内の戦跡は大国主側の集落への攻撃を示しています。鉄鏃9個は環濠内や防御用の溝ではなく、土坑や表土で出土していますから、全てが攻撃側のものではないようですが、倭国側は銅鏃を使用しないと考えられますから、銅鏃8個はすべて狗奴国勢のものです。尾張勢も含んでいるかも知れません。富山県では鉄鏃の戦跡は見られず、銅鏃1個だけですから、石川県の戦いに比べて激しいものではなかった模様です。

東海道を遠征したとされる武渟川別は大彦命の子ですが、静岡市内の方形周溝墓から銅鏃が2個、静岡県東部に銅鏃1個の戦跡と、戦跡とは明確になっていないその他に分類した銅鏃が2個見られます。小田原市の高温鍛冶遺構がありますが、戦跡は見られないので戦わずに降伏したと推理できます。さらに町田市から八王子市にかけて、あるいは南の三浦半島でもその他に分類した銅鏃が各1個みられますから、小規模な戦闘はあったようです。そして高温鍛冶遺構がある千葉県に入ると、武渟川別勢のものか不明ですが、墳墓の盛り土から鉄鏃が3個見つかっており、倭国側のものかも判定できません。市原市の二つの古墳の主体部から鉄鏃2個、銅鏃1個が見つかっていますので、一体は武渟川別勢によって殺された倭国側の人物だと分かりますが、残りは不明です。千葉市で銅鏃1個が見つかっていますが、その他に分類されるものですが、武渟川別勢のものです。茨城県ひたちなか市の遺跡でも銅鏃1個が溝から見つかっているようですので、戦闘が行われた模様です。さらに埼玉県と群馬県に倭国側の高温鍛冶遺構がありますが、戦跡が見られませんので、これらも武渟川別勢に降伏したのかも知れません。

そして武渟川別は北陸道を遠征した父の大彦命と猪苗代湖のほとりで落ち合ったので相津(会津)という地名の起こりとしています。しかし、武渟川別のルートは、後の年表で示していますが、計算上は200年以上後の景行天皇の皇子ヤマトタケルの遠征ルートと一致する部分があります。そして、尾張王建稲種命がヤマトタケルの副将として参加したという伝承が残っており、ヤマトタケルは建国の史実を隠すために創られた人物で建稲種命をモデルにした人物と考えられます。なので、武渟川別も実在人物ではなく、同様に建稲種命の史実を隠すために創作された人物かも知れないと考えています。

大彦命は埼玉県行田市で発掘された稲荷山鉄剣の銘文に「意富比垝(おほひこ)」という文字が見られ、大彦命のことであれば実在人物ではないかと考えられています。ただし、北陸道遠征を実際に行ったのかについては確実ではないと考えています。つまり、新潟県に入ると戦跡は見られないので大彦命勢とは戦わずの降伏したと考えられますが、弥彦村に尾張氏の祖神天香語山命を祀る弥彦神社があります。その土地は尾張氏が所領としたと考えられますので、尾張勢が北陸も遠征したことが分かりますから、大彦命も北陸道遠征していないかもしれないと考えています。

また、丹波道主命は「第9代開化天皇皇孫である[1]。父は開化天皇皇子の彦坐王(ひこいますのみこ)とするが、開化天皇の別皇子である彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を父とする別伝も掲げている[1]。」とあり、少しだけ曖昧です。すでに(その11)で函石浜遺跡を建稲種命が攻撃したと推理しました。京丹後市の途中が丘遺跡の溝から鉄鏃1個が見つかっているだけで、丹後・丹波地区では他に多数の古墳群から鉄鏃が出土しているだけなので、丹波道主命が遠征したということは疑わしいと考えています。

後の話ですが、wiki「丹波国造」によれば、「丹波氏(たにわうじ、姓は直)で、後に宿禰を賜姓された。系図などから一般に尾張氏(尾張国造)の同族とされているが、(先代旧事本紀)「天孫本紀」の記述に従えば彦坐王後裔の但遅麻国造と同族とされる。
律令制以降は丹後国丹波郡に本拠を置いており、丹波直真養が国造に任命されたことが見える。
」とあり、尾張王建稲種命の子孫と考えられるので、丹波道主命のタニワ遠征も創作かも知れないと考えています。

さらに吉備津彦は「第7代孝霊天皇皇子である。」とあり、元の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)で姉が箸墓の被葬者で大物主の妻倭迹迹日百襲媛命(ヤマトとトビももそひめ)です。

すでに【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?で明らかにしましたが、吉備津彦(イサセリヒコ)は、二世紀初頭の奴国が滅亡した宮廷楽師師升らの反乱を逃れたニギハヤヒ大王(殺されたスサノヲ大王の弟、楯築王墓の被葬者で人面蛇体の天皇伏羲の末裔)のことです。吉備を平定して奴国を再興し、ヤマト政権の基礎を築いた人物のことだったのです。だから、古事記では崇神紀で大吉備津彦という名前に変えていることからも虚構だというウインクだと思います。古事記では四道将軍という言葉も出てきませんよ(^_-)-☆

しかし、吉備や安芸で古墳時代初頭(三世紀後半)の鉄鏃や銅鏃の出土状況から、ここでも尾張勢が中心となって大国主勢と激しい攻防戦が行われたと考えられます。景行天皇の九州遠征へのルート上にありますから、尾張王建稲種命の軍勢との戦闘の跡ではないかと考えられます。

日本書紀の第十代崇神天皇から第十五代応神天皇までの日本書紀の記述を年表にしましたが、崇神紀の四道将軍の話は、その200年くらい後のはずの景行天皇の九州遠征やヤマトタケルの遠征と同じで、全て三世紀後半の尾張王建稲種命の史実を誤魔化すために、時代も人物も振り分けて創作された話だと考えられます。だって、この時代の前の弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱も「後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)」に示すように、福岡県・佐賀県・熊本県の九州三県でしか大きな戦闘は起こっていないのです。それまでは、各集落で小競り合いがあったことは否定しませんが、戦争のない実にのどかな日本列島だったのです。我々の祖先縄文人と江南の倭人は本来は争いの嫌いな、穏やかな気質の人々だと言えますね(^_-)-☆。

すべて、藤原氏に都合の悪い日本建国の史実を隠す目的だったのです!

このことに気付かないで、

神武天皇の東征だとか、記紀に基づいていくら日本建国の仮説を立てても、

史実に基づかないので、すべて古代妄想なのですよ!(´ω`*)




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【検証19】日本建国のための戦いだ!
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有


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