刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)

2020-08-01 16:54:15 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

前回の話卑弥呼はどのように隠された?で、原八幡神比売神卑弥呼がいつの間にか八幡大神応神天皇とされて宇佐八幡宮で祀られる話をしましたが、後の時代に紹介される伝承は、原八幡神の正体を隠すために作られたのではないかと思われます。何のために、そのような罰当たりで、面倒なことを誰がしたのかは、すでに説明したとおり、大和朝廷を牛耳る藤原不比等とその子孫だと分かります(卑弥呼は何故隠された?)。

祭神名や神社名を変えたりするやり方が余りにも大胆で、神をも畏れぬ所業ですから、祖神として、あるいは国家鎮護のために比売神卑弥呼を祀っている人々はたまったものではないでしょう。前回述べたように三世紀末に物部の大王から安心院町三柱山の社(三女神社)で丁重に祀るように指示された水沼と同様に、応神天皇即位の後に中央復帰を許されたと思われる卑弥呼ゆかりの宗像君に指示して、沖ノ島などで卑弥呼祭祀を始めたのだと考えています。(2021.8.23 赤字訂正)

しかし、いきなり比売神卑弥呼を祀っている場所に別の神を持って来るなどしたら、いくらなんでも辛嶋氏や有力氏族の物部氏などから強い反発を受けるので、大国主・応神天皇にゆかりの大神氏を抱き込んだと推理しています。原八幡神卑弥呼を比売大神(宗像女神)と呼ぶことにして、新たな八幡大神として大国主を主神として宇佐地方で祀らせて主位の座を奪わせ、さらに大国主から子の応神天皇にすり変えて、卑弥呼の記憶を徐々に葬ることを構想したのだと考えられます。応神天皇の伝承は後で作ったもので、元々宇佐にゆかりがあったわけではないので分かります。

後に比売大神を祀る妻垣神社の奥宮一柱騰宮で大国主と台与が卑弥呼を祀っていたので、三世紀末に半島南部から香春岳周辺に秦氏と伴に移って来た辛嶋氏が宇佐郡辛嶋郷で原八幡神の比売神卑弥呼を祀るようになったのでしょう。八幡神が最初に天降りした宇佐郡辛国宇豆高島が稲積山です。その山上にあった稲積六神社の祭神は現在は八幡比売神ではないですが、稲積山は秀麗な形をした典型的な神奈備山ですから、当初は辛嶋氏の祭祀場だったと思います。半島東部のムナカタ海人族が使う数多くの旗を比売神卑弥呼の依り代にしたので八幡神(やはたのかみ)と呼ばれたようです。

先述のとおり、不比等は大国主ゆかりの宇佐の地に大神氏を派遣して、辛嶋氏の比売神卑弥呼に加えて大国主の祭祀も合わせて行うように命じたのでしょう。辛嶋氏は後に伝承も書き換えさせられた模様です。その強引なやり方に不満の辛嶋氏と中央から派遣された大神氏との間の調整役が突然現れた謎の修行僧法蓮上人と考えられます。

法蓮上人が宇佐八幡宮の謎を解くためのキーパーソンということです。

法蓮は、宇佐神宮年表に703年、「医術により僧法蓮に田40町を賜う。」とありますが、田ではなく野とあります(中野幡能「八幡信仰と修験道」吉川弘文館 平成10年、p.90)。英彦山で修験道の修行を積み、医術を身に着けて、豊前地方の民を救ったことによるのだと思います。法蓮を慕う人々が未墾の原野を田にしたのでしょう。「日本書紀」にも豊国の奇巫が雄略天皇の病気で、豊国法師が用明天皇の病で内裏に参内したとありますから、豊前地方を拠点とする医術を得意とする巫覡集団があって、法蓮もそこに所属して修行を積んだのだと考えられます(大和で仏教を学んだという説もあるようですが、大和での記録はほとんど残っていないようです)。

さらに、不比等が死んだ翌年721年に、三親等以内の親族に宇佐君の姓(かばね)が与えられています。中野先生は豊前の未墾地の開拓と大隅の隼人反乱鎮圧に祈祷で貢献したからだろうとしていますが(中野前掲書pp.98-99)、藤原氏にとって功労者という評価ですから、本当は日本建国の真相を隠す悪党の一味ではないかと考えられます。

しかし、それも見方を変えれば、卑弥呼という人物名は隠されていますが(多分ヒメゴの意味ですから固有名詞ではない)、元々地方神と見なされた比売大神(宗像三女神)が733年、宇佐神宮の二之御殿で祀られるようになり、749年には神階として八幡大神一品に併せて二品が贈られ、二柱とも国家神とされています(注1)。卑弥呼も祀る宇佐神宮が現代まで皇室の篤い崇敬を受けて、全国に約四万四千社あると言われる八幡宮の総本社として高い地位が与えられたのは、法蓮上人がその基礎を築いたことによるものでしょう。当初は大宮司を大神氏、少宮司を宇佐氏、禰宜を辛嶋氏という体制だったようですが、大神氏と辛嶋氏が没落した後に、宇佐氏が仕切ることになります。しかし、不思議なことに、現存する宇佐氏系図に法蓮は記載されていないのです(中野前掲書、p.90)。

法蓮の生没年も出自も不詳という謎の人物ですが、後の平安時代になると法蓮と関わりのある「人(仁)聞菩薩」という、これまた謎の僧侶が伝承の中に出てきます。「人聞菩薩朝記」に記載された「五人の同行」のひとりに法蓮の名がありますが、「八幡神が仏教宣伝、登場のため「人聞菩薩」と現れ、御許山で修業し、六郷山を開いたとしている。」Wiki「仁聞」にあります。養老2年(718年)頃に、国東半島の各地に山岳宗教の学問・修行・布教のための多数の寺院を開基し、六万九千体の仏像を造ったいう伝承です。

Wiki「六郷満山」によれば「八幡信仰と天台修験が融合し発達した国東半島独自の宗教文化[3]。国東半島の大部分が宇佐八幡の荘園だった奈良・平安時代に八幡宮や神仏習合の六郷満山寺院が多数建造されて特異な宗教文化が生まれ、平安末期には国東半島だけで約1000の伽藍があったという[2]。その後時代が下るにつれ、鎌倉仏教系、禅宗系、浄土真宗系寺院への転向や建立がなされ、独特の伝統行事や習俗文化が育まれ、今に引き継がれている[2]。国宝の富貴寺大堂に代表される平安建築や、熊野磨崖仏をはじめ、六郷満山文化が最盛期だった平安時代の古仏や石窟など石造美術も多く遺る。」とあります。

この仁(人)聞はWikiによれば、「今日では、仁聞は実在の人物ではなかったとする説が有力である。六郷満山の寺院は、実際には、古来から国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて天台宗の寺院の形態を取るようになったもので、近隣の宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと考えられている。各寺院を開基した人物としては、仁聞の弟子として共に修行を行い、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の別当などを務めたと伝えられる法蓮、華厳、躰能、覚満といった僧侶を挙げる説もある。」この4人は上の「五人の同行」の人聞を除く僧です。738年法蓮上人が別当となった宇佐宮弥勒寺は元来一院十坊の構成だったのが、六郷山に二坊が別れ、八坊となり、人聞を除く4人が末坊開祖となっているとあります(中野前掲書p.271)。

以前にも述べましたが、弥勒寺で大国主久々遅彦をご本尊弥勒菩薩として祀っています。新羅仏教の影響を受けた法蓮が大国主を祀るために弥勒信仰を持ち込んだとみています。宇佐氏である法蓮は大国主ゆかりの氏族ではなく、宇佐国造の流れと思われるので、大国主を祀る理由は、比売神卑弥呼を護る方便だったのではないかと推理しました。勿論大国主はヤマト朝廷が最も重視する日本建国時の実在人物でしたから、最初から国家神です。

神仏習合のひとつの表れである神宮寺の創建時期ですが、「霊亀元年(715年)には境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる[3]。」Wiki「気比神宮」にあります。ところが、「日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。」とあります(世界大百科事典 第2版の解説)。宇佐八幡宮は、その前身の鷹居社が712年創建ですから、6世紀末はまだ八幡神は比売神卑弥呼でした。宇佐で最古級の寺院は虚空蔵寺と法鏡寺ですが創建は7世紀末ですからさらに古い寺院があったということです。「法鏡寺廃寺は古代の辛島郷の中心部に位置していることから、辛嶋氏が造営したものと考えられている[2]。」とあり、もっと古く、仏教伝(538年)のに卑弥呼を宝鏡寺の前身の寺院で祀ったのが神仏習合の最初かも知れません(注2)(2020.8.2 赤字訂正)

Wiki「本地垂迹」によれば、「日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。」とあります。

卑弥呼の霊を比売神として祀っているだけでは有効に怨霊が亡くならず、崇りとして天変地異が起こるので、卑弥呼を成仏させたいという願いから、日本の神仏混淆が始まったのではないでしょうか。

辛嶋氏の稲積六神社の鳥居と石造りの祠を見て驚きました。



卑弥呼の径百余歩の円墳を遥拝する位置に建てられたヒカケの三女神社の西側にある摂社と同じ様式になっていました。稲積六神社の由来書から706年、稲積山山上に三柱の御祭神(伊弉册尊 速玉男命 事解男命)が鎮座し、834年に三柱(国常立命 火産霊命 彦火々出見命)が鎮座したと分かります。ヒカケの三女神社は現地に行って見ていないので詳細が分かりません。由来書もGoogleMapの写真の中にはありませんでしたが、多分同じ時期に法蓮の教団の人たちによって建てられたのではないでしょうか?卑弥呼の怨霊を摂社の祭神に抑えてもらう目的ではないかと考えています。どなたかご存知ならばお教えください。早めに行ってみてじっくりと観察したいと思っています。



「ヒカケ」(宇佐市安心院町下毛字ヒカケ)というのは、「日欠け(日食)」に因む地名だと思います(注3)。つまり、日蝕のために卑弥呼が殺された場所を示唆する地名ですから、この場所が卑弥呼の殺害現場だと推理しました。そのためにこの三女神社の遥拝殿の横には石塔が三つ置かれていますが(下の写真の鳥居の奥)、中央の少し大きなものが卑弥呼(イチキシマヒメ)の墓石ということでしょう。その東側の、今はすっぽんセンターのある処から温泉が出ているようですので、卑弥呼は毎晩、ここの露天風呂に入っていたところを、伊都国男王の命令で、いつも卑弥呼の世話をする男子に引き出されて殺されたのではないかと考えています。その場所に、人聞菩薩が作ったと伝わる磨崖仏があり、地元では乳不動と呼んでいます。室町時代に作られた模様です。(2020.8.3 赤字修正)

さらに、そこから北側の道路に石段で登れるようになっていますが、卑弥呼の墓石と円墳の間に土が盛り上げてあり、そこに横穴が掘られています。ヒカケ横穴群(下市横穴群)です。それが造られたために卑弥呼の円墳を三女神社から直接遥拝できなくなっているようです。やはり、誰かが意図的に隠したということでしょう。法蓮に繋がる僧侶がアマテラス女神の岩戸隠れをイメージして掘ったもので、同時に遥拝できなくする効果がありますから、卑弥呼の死の真相を隠そうとしているようです。先述のとおり、現存する宇佐氏の系図に法蓮の名がないことと関係があるのかも知れませんね。人聞が開基した六郷満山のひとつに最古級の岩戸寺があります。ここにも何か隠されているのかも知れません。どなたか、現地調査をお願いします(*^▽^*)

【参考記事】卑弥呼の墓は見つかってるよ!(改訂版)



(注1)神階のうち、皇族だけに贈られる位階と同じ品位(ほんい)が四柱だけなのです。淡路伊弉諾神宮伊弉諾尊、宇佐神宮八幡大神がそれぞれ一品(いっぽん)で、八幡比咩神(比咩大神、宗像三女神)が最初は二品でしたが最終的に一品、備中吉備津神社吉備津彦が二品を贈られています。伊弉諾尊は皇祖神ですから分かります。八幡大神は応神天皇となっていますが、何故十五代天皇だけ一品なのか、他の二柱も全く謎でしょう。

八幡大神は本当は応神天皇の父大国主のことだと考えています。首長霊信仰から大国主と応神天皇は一体なのです。八幡比咩神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼であり、台与も含まれると考えられます。台与は大国主との神婚伝承のある宗像三女神(タギツヒメ、タギリヒメ)、豊受大神、正一位稲荷神(宇迦之御魂神、うかのみたま)、白山比咩命、豊岡姫、淀姫などとして全国で祀られ、尊崇されています。そして吉備津彦の正体が天照大神尊ニギハヤヒでした(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)

(注2)「高句麗では372年に、百済は384年に公式に伝えられたとされています。また、新羅も同じころに仏教が伝わって」いたとありますから、日本に伝わったのは6世紀末ではなく、もっと早い4世紀ころではないでしょうか(第16回 朝鮮仏教史 より)(2020.8.2 追加)

(注3)全国に「樋掛(ひかけ、農業用水を導くトイを掛けた場所の意味か)」という地名や人名もあるようですが、安心院町下毛字ヒカケは日食のことだと思います。卑弥呼の事件を知る後世の人が殺害現場を「ヒカケ」と呼んだのだと推理しました。(2020.8.3 追加)

最後までややこしい話にお付き合い、ありがとうございます。今回は中々まとめるのが難しかったので、大事なことを書き漏らしていないか心配です。お気づきの点をコメントください。
通説と違うので、疑問点をお寄せください(*^▽^*)
応援をしていただき、感謝します。お陰様でブログ・ランキングが上がってきています。
とても張り合いが出ます。よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。