刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

正史のウソを朝廷が告白?(^_-)-☆

2019-03-22 21:30:01 | 古代史
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邪馬台国と大和王朝は別物?
2019年03月17日17:16 nemoさんの日記@my日本
簡単に言えば
卑弥呼  =アテネ
神武天皇=スパルタ


おっしゃる通りですよ。
別の国なんですが、赤の他人じゃないところが面白い(^_-)-☆
卑弥呼は越人の血が入った縄文系の宗像海人族の姫(宗像女神)でした。

神武天皇=280年頃大和で祭祀王に即位した応神天皇のことですが、母親神功皇后=女王台与は卑弥呼の宗女です。どちらもイザナミが母系ですよ。
父親は狗奴国の官狗古智卑狗で、奴国の大王スサノヲ直系の大国主命ですから。
実はそれを裏付ける伝承が宗像大社と住吉大社に在るそうです。
応神天皇は記紀では仲哀天皇の皇子と言うことになっていますが、仲哀天皇は父親のヤマトタケルが死んでから30年以上経って生まれていますよ(*^▽^*)
これだから記紀神話に合った伝承は信用できませんネ。

何故なら、日本書紀の編纂当時の権力者が日本建国の真相を知っていながら神話に閉じ込めたからですよ。何故それがわかるかと言うと、当時の史官はシナの歴史書も読んで強権で有力氏族の伝承を取り上げて、権力者の都合の良い歴史を捏造したからですよ。権力者はよほどフェアな人間でない限り、権力を維持するためにウソをつき、それがばれそうになれば強権で言論統制するというのが万国共通です。

こういう発想で正史を疑い権力者のウソを見破れば日本建国の真相が表れてきますよ(^_-)-☆

実は、天武天皇が編纂の号令掛けたのですが、先に死んでしまったので、皇后の鵜野讃良が優秀な皇子たちを嵌めて殺して自分が即位したので、その正当性を主張するために女神アマテラスを創作したんです。持統が死んだら政敵を蹴落とした権力者藤原不比等が藤原氏に都合の良い歴史に書き換えたんですよ。天皇家も平気で貶めていますよ(;一_一)

本当の日本建国の立役者の物部氏を歴史から抹殺してしまい、神社伝承も神話に合うように捏造したのが真相ですよ。平安時代は勿論、皇族も貴族たちも皆知っていましたし、江戸時代までは知識人レベルまで(真)天照大神が男だと知っていましたが、明治になって西欧列強に抵抗するために、国民統合のために記紀神話に基づく国家神道を作って国民教育したので、多くの日本人が神話と歴史が区別できなくなっていますよ。

実在の卑弥呼の正体を持統天皇をモデルに創作されたアマテラス女神と言ってますから、順序がおかしくなってますから( ^)o(^ )

紀元前660年では日本に倭人は来ていましたが、倭人の王はまだ来日してませんよ(^_-)-☆
最初の王墓が現れるのは弥生中期初頭(紀元前5世紀末から紀元前4世紀初頭)の福岡市早良平野の吉武高木遺跡ですよ。

最初の倭王が天御中主(あめのみなかぬし)で間違いないですよ(*^▽^*)

その後何代目かが都を奴国(須玖岡本遺跡)に遷します。そして第17代奴国王伊弉諾尊かその父王が西暦57年に後漢光武帝から有名な「漢委奴国王」の金印を賜わります。しかし第18代奴国王素戔嗚尊のときに司祭の帥升(本当は師升)達のクーデターが起こり、殺害されたと思います。スサノヲの子供や弟ニギハヤヒが出雲方面に逃亡します。

ニギハヤヒが吉備を平定し、第19代奴国王として即位した(真)天照大神尊です。

藤原不比等は藤原氏に都合の悪い日本建国の真相を隠すために、神武天皇や日向三代の話を創作しましたよ。天孫降臨は持統天皇の孫の文武天皇を即位させた正統性を主張するための作り話でしたよ(^_-)-☆

初代天皇は西暦280年頃祭祀王ヤマトの大王に即位した応神天皇です。

実はその前にもう一人のハツクニシラススメラミコト崇神天皇が居て、政治的な理由で女王台与と狗古智卑狗(大国主)との間の子応神を呼び寄せたのがヤマト王権の始まりです。しかし、天皇という称号は持統天皇のころで、それ以前はそれぞれの地域に居た王(きみ)の中の王=大王(おおきみ)でしたね。最初のヤマトの大王(崇神天皇)はニギハヤヒ直系の狗奴国王卑弥弓呼ですよ(本当は、ひこみこを書き間違ったものと思われますが)。

神話の解釈の種明かしを申し上げると、切っ掛けは古代史作家の関祐二さんの本を読んでからです。それまで「日本書紀」は日本建国が神話になっているけど建国は編纂から何百年も前の話だからかなと思っていたのですが、神話の正体が分かり1300年も当時の権力者のウソに騙されて来たのかと驚きましたよ。

前から古代史には興味があったので、「権力者は嘘をつく」者という発想から始まり、東洋史家の岡田英弘さんの著書を読み、魏志倭人伝も強烈な政治文書だと知り、日本最古の歴史書と言われている古事記の種明かしもしてもらい、考古学や民俗学や技術史などの事実を基にして定説を疑うことから始めましたよ(^_-)-☆。



調べたら金印の奴国と天皇家が三種の神器で繋がり、弥生前期にシナの江南から水田稲作技術をもたらした春秋時代の呉の海人が倭人と呼ばれましたので、シナの歴史書にあるとおり日本は古の倭の奴国で間違いないですよ(^_-)-☆

紀元前10世紀から9世紀ごろ農耕海洋民族の呉人が半島南部から北部九州にやってきて、縄文人と混血して、弥生時代の縄文人もすべて倭人と言うことになりました。現代日本人男性の遺伝子解析ではルーツが江南の呉人=倭人系というのが1/4という結果ですよ(^_-)-☆。

>世界最大の古墳は秦氏がつくりあげたものだと思っています

世界最大の古墳=大仙陵ですが築造が4世紀末か5世紀初頭です。

日本書紀では応神紀に秦氏の祖「弓月君」が合計120県の民を百済から引き連れて日本に帰化したことになっていますが、1県の人口が少なく見積もって数百人規模、多く見積もって千人ですから最低1万2千人から多くて12万人にもなり、低く見積もる方が良いと思いますね。でもかなりの人数の渡来人が様々な技術を持って来日したとしていますが、列島に来るためには上代日本語を理解できないと生活できませんから、恐らくほとんどが半島南部に住んでいた倭人であって日本人でしょう( ^)o(^ )

そして私の説では応神天皇は280年頃即位していますので、秦氏の来日の時期はやはり大仙陵古墳造築の時期でしょう。秦氏には測量技術者もいたはずですから築造に携わった可能性は高いと思います。

秦氏はその素性は秦の始皇帝の流れの辰(秦)韓出身と言う説もあるし、ユダヤ説もあり謎の多い一族ですね。古事記の本当の編纂者と思われる9世紀初頭の多人長( 太安麻呂の子孫)も秦氏という説もあり、日本書紀が百済寄りの記述が多いのに対して、古事記が新羅よりですので、辰韓説がいいような感じですが、はっきりしません。なお、948年に宋に朝貢し、日本の「王年代紀」を献上した東大寺の僧奝然(ちょうねん)は秦氏で、古事記同様日本の最初の王は天御中主としていますから日本書紀の嘘を正しているのだと思います。

>秦氏は機織り=呉服とつながりますね

ですが、紀元前10世紀ころから江南の呉人(=倭人のルーツ)が列島に持ち込んだ機織りの技術も南インドとつながっていることが知られていますよ。また呉服の方は恐らく、280年に西晋に滅ぼされた孫呉の遺民が列島に反物を持ち込んだことから、そう呼ぶようになったようですよ。

おっしゃるとおり編纂時の権力者が自己の正統性を主張するために強権で作った歴史書が正史ですので「かくあるべし」という理念で作られます。

なので、そこに書かれたものが事実に基づくのか?
古代史の場合は長い年月が経過して直ぐにはよく分からないのですが、考古学や民俗学や言語学や技術史など科学的な事実と照合して判定できます。

逆に権力者の編纂目的が見えてきますので、そこから神社伝承などのうち正史と矛盾する内容の伝承は古代史解明のヒントになりますね(^_-)-☆

「正史」に対して民間の伝承などに基づく歴史を、「稗史(はいし)」と呼ばれ、偽史と見られがちですが、そこには隠された事実が書かれている可能性が高いですね(*^▽^*)。既にご存知かもしれませんが、ねずさんの記事があるので、ご参考までに(^^)/ 

日本書紀の場合、編纂に当たり建国に携わった有力氏族の伝承を強権で集めているのが「続日本紀」からもわかりますが、古事記の序文にもある通り、天武天皇が勝手に各氏族が残している伝承はウソがあり何が本当かわからないから正史を作るように命じたとありますので、裏返せば朝廷にとって不都合な伝承は抹殺すべきだということなのですね(^_-)-☆

そして実際各地に残される古い神社も朝廷が管理していましたから、その伝承で記紀神話に合致するものは朝廷に配慮して作られたものであると思われるので、ほとんど信ぴょう性が低いです。多くの神社伝承を集めて歴史を組み立てた原田常治氏の「古代日本正史」(同志社)という大作があるのですが、無批判に伝承に基づいて歴史を作ると権力者の罠にはまりますね(^_-)-☆

一般に、シナの正史は先代の王朝の歴史書を後代の史官が多くの資料を集めて作るので、割と事実が残されていると思いますが、日本の場合には易姓革命が無かったのは良いことだったのですが、逆に事実に基づかない歴史ファンタジーが伝わっています。コリアと同様で嫌ですが(;´Д`)しかも明治時代に西洋列強に対抗するために、国民統合のために記紀神話に基づく国家神道が創られ、戦前は学校教育で国民に徹底させていますので、多くの国民はその知識で考えるようになっていますよ。

戦後の研究者はGHQの指導で徹底的に記紀神話を排斥しましたので、全く無視しがちですから、シナの歴史書だけを頼りに考古学などから歴史を組み立てることは残念ながらうまくいっていません。だから全く捨てるのではなく、関祐二さんのやり方で事実に基づき作られたものを見つけ出す作業が必要ですね(^_-)-☆

日本の建国が3世紀ころですから、その時代のシナの正史「三国志」にある倭国に関することが記された「魏志倭人伝」に基づいて研究されてきていますが、そのいい加減な記述から邪馬台国の位置が問題となり、三百年経った今もよく分かっておらず、ご存知の通り国民的な歴史ミステリーになっています。

それは「三国志」は、265年に魏から帝位が禅譲されたとする西晋の史官陳寿(ちんじゅ)が編纂しましたので(280年頃完成)、全く同時代史で政治文書になっているのにも拘らず、ほとんどの歴史研究者はそれに無頓着で「魏志倭人伝」だけが信頼できる唯一の史料と考え、自説に都合の良いように、時にはほとんどあり得ないような天才的な解釈をして、つじつま合わせのような話で謎解きをしようとしてますので、日本建国の真相はいまだに解明されていませんでした。

でも日本書紀について上に述べた手法で、魏志倭人伝についても陳寿の事情から編纂の真の目的に着目して、どこが事実かウソはどこかを検討し全く新しい説を導きました。

この結論は、すでに松本清張・高木彬光などの推理作家が推理した「邪馬台国はやっぱりここだった」というはなしでした。 

当時は根拠が不十分とされた推理を最新の科学的成果に基づいて新たな仮説を導入して推定したものですので、手前みそで恐縮ですが、例えば大和が何故ヤマトとよばれるとか、従来全く謎だったこともたくさん解明でき、日本建国の真相がようやく見つかったと考えています(^_-)-☆

>日本の生い立ち(の解明)は不可能でしょう
>皇室に何らかの書類があり発表されれば別ですが
(カッコ内は刮目天)

そうなんですよ( ^)o(^ )

実はすでに朝廷が真相を告白しているんですよ(^_-)-☆

祟るはずのない神様が祟るのは正史がウソだと告白しているのです。
天罰を怖れる日本人の特徴です。祟られる方に何らかの後ろめたいことがあるからですよ。


日本建国に関わる天皇・皇后に4人だけ神の諡が付いていますし(神武・崇神・神功皇后・応神)、神様に神階というランクが与えられるところからも分かりますよ。普通の神様は律令制度の臣民と同じ従五位から正一位までですが、特別な神には皇族にしか与えられない品位が4柱だけに贈られています。

その一柱、八幡比売大神(宗像女神)が何と卑弥呼でしたよ(^_-)-☆

それ以外に、第64代円融天皇のときにシナに日本の王年代紀が贈られていますが、神武以前の筑紫日向宮に初代天御中主から23代彦沚尊まで明記されていて、高天原の神話の時代が倭の奴国だと告白していますから分かりましたよ(^_-)-☆

>>11 刮目天さん
耳寄りな話ですね
64代天皇から支那に献上品とは何かお返しがあったはず
また
筑紫日向宮に書付とは
日向はよく聞く場所でキリスト教なら箱舟の到着地でしょうか


東大寺の僧奝然(ちょうねん)は宋の太宗に気に入られ法済大師の号と紫衣を賜り,かつ新雕の大蔵経(だいぞうきよう)を与えられたとあります。また、現地で作らせた釈迦如来立像を持ち帰り、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置されたとあります。

筑紫日向宮ですが、福岡市西区の室見川畔に日本最初の王墓が見つかっている吉武高木遺跡があります。

その西側の伊都国に比定される糸島市との間の高祖山(たかすやま)の南に日向峠(ひなたとうげ)という地名があります。

吉武高木遺跡が最初の王宮があった場所ですから、次にその東側の奴国に比定される須玖岡本遺跡からさらに次の世代で伊都国の三雲遺跡・平原遺跡に王宮を遷し、そこが日向宮ということだと考えられますよ。その辺は地理的に近いので、筑紫日向宮で代表させたということでしょう。

記紀神話天孫降臨に「筑紫の日向の高千穂の串触之峯」と言う記述があり神武東征の出発地から考えて宮崎県という説が従来有力でしたが、これは「日本書紀」で創作されたものですから、高祖山の南のくしふる山と呼ばれていた椚(クヌギ)山が本当の場所ですよ。


天皇家は、紀元前473年に滅んだ呉の王族の流れを汲むと考えられます。倭人の手引きで一旦半島の南に逃げ、更に福岡市の吉武高木遺跡に到達した初代王天御中主(あめのみなかぬし)を皇祖神とするものですから(*^▽^*)
最初の王墓やその後の王墓から三種の神器と同じ銅鏡・銅剣・勾玉が見つかっていますから分かりますよ(^_-)-☆

○吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)
初代奴国王天御中主尊から数代の王宮。日本最初の王墓が見つかっている。

○須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)
後漢より金印を賜った奴国王の王宮跡。奴国の最盛期の直接支配域は福岡平野・糸島平野・筑紫平野・佐賀平野です(奴国王が王族に与えた支配者の印である玉璧の破片が前原市・春日市・朝倉市で見つかっている。玉璧は周代の子爵を表すもので、奴国王が呉の王族であったことを示している。宮崎県串間市王の山古墳出土の玉璧は、漢代のものとの説もあるが、恐らく、その被葬者が倭国大乱中に奴国王の玉璧を所有していた伊都国男王から奪ったものと推定される。



また、17代王伊弉諾尊が日本海沿岸(出雲から北陸)や近江を支配していた宗像海人族の姫伊弉冉尊を娶って、自身とその子供たち(スサノヲ、ニギハヤヒら)が江南の呉出身の安曇族を引き連れて日本各地の鉱物資源などを探索し、列島を開発したことを記紀神話「国生み」が表していると考えられる。

神話の高天原は奴国だったと分かる地名の対応

○三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)
奴国を乗っ取った帥升(正しくは師升)が都としたところと推定される。
井原鑓溝(いはらやりみぞ)王墓が師升の墓か?

○平原遺跡(ひらばるいせき)
卑弥呼の宗女台与が邪馬台国(宇佐市安心院)から遷都したと考えている。
1号王墓は神功皇后のモデルである女王台与の墓と推定される。

高天原は奴国だ!

「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」
古田史学の会 正木 裕 2014/08/31 YouTube公開 Natou Takeo 

「新唐書」・「宋史」のとおり奴国王の尊称を「尊(みこと」と呼ぶのは周代の青銅器儀礼に因むものですね(^_-)-☆
青銅器を用いた周代の儀礼が現代にも生きているのは日本が古の倭の奴国であることの証拠の一つでしょう(^_-)-☆


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