行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

ジョージ・オーウェルが語った「言語の腐敗」について

2016-05-09 02:36:00 | 日記
未来小説『1984年』で知られるジョージ・オーウェルは1946年、『政治と英語(Politics and the English Language)』と題する随筆を残している。その中で印象的なのは次の一節だ。

But if thought corrupts language, language can also corrupt thought.
(しかし思考が言語を腐敗させるのなら、言語もまた思考を腐敗させ得る)

彼が言っているのは、政治の世界でしばしば用いられる陳腐な比喩や持ってまわった言い回し、空疎な表現が脳の働きをマヒさせ、思考停止状態に追い込む危険である。こうした言葉は使っている自分が意識しないほど巧妙に現れ、もっともらしい文章を組み立てていく。政治家にとっては好都合だが、個人の自由や独立は阻害される。

そこでオーウェルは、「印刷物で見慣れた暗喩や直喩、その他の比喩を使わない」「短い言葉で足りる場合は長い言葉を使わない」「削れる言葉は必ず削る」「能動態が使えるのであれば受動態を使わない」「日常的な英語が思い付く時に、外国語や学術用語、専門用語を使わない」といった規則を提唱する。

不特定多数の読者が理解できることを第一に考えて編集される新聞の記事には、特にこの手の言葉が多い。記事の著作権が個人でなく新聞社に属し、署名記事も少ない日本の新聞は、より「客観的」「公正」を心がけるため、符号を組み合わせたような文章になりがちだ。細切れの情報を的確に伝えるためにはやむを得ないが、そうした文章に慣れた記者の思考は、「言葉の腐敗」による影響を受ける。

記者は取材しながら、「この程度の記事であれば●行ぐらい」と頭で計算する。あるいはあらかじめ上司から「●行で」と指示を受けたり、自ら「●行ぐらいですか?」と聞いてきたりする者もいる。言葉の制約に加え、さらに外枠まではめられてしまうと、思考はその範囲内でストップする。頭の中には「どう書けば明日の新聞に載るのか」という技術的な発想しか浮かばない。

例えば、長いスピーチのどの部分を切り取って伝えるのかは、発言者の意図とは無関係に、メディア側が考えるニュース価値の判断による。話の全体を把握して報じるのではなく、言葉尻をとらえた記事になりやすい。発言者自身がしばしば記事の引用に違和感を持つのはこのためだ。

中国にいていやというほど感じたのは、本社のデスクが、「領土」「島」「海洋」など日本に関係のあるキーワードにしか反応できないことだった。中国の外交にとって対日関係は重要な一部分であるに違いないが、すべてではない。まして内政がより重要なのは言うまでもない。だが日本には、中国が抱える問題のほんの一部しか伝わらない。「中国を悪く書いていれば間違いない」という心理があって、少しでも公正な記事を書こうとすると、「ちょっと中国に肩入れし過ぎではないのか」と平気で言ってくるデスクもいる。腐敗した言葉によって思考が腐敗しているのである。

中国語では「語言腐敗(言語腐敗)」という。例えば、失脚した薄熙来元重慶市共産党委書記が「打黒(マフィア撲滅)」のスローガンで、多くの私営企業を摘発し、財産を没収したケースなど、もっともらしい標語が十分な議論も手続きもないまま独り歩きし、道徳的な善悪や法的な処分を支配してしまう現象について使われる。文化大革命はまさに「反党」「反革命」などのレッテルが横行した、つまり言語の腐敗が極まった時代だった。思考を失った民衆は操られるロボットと化した。

中国の「語言腐敗」は深刻な歴史を背負っている。何も文革時代だけではない。『三国志』には、董卓が皇帝をかついで洛陽から西安に遷都する際、洛陽の金持ち数千戸を捕らえて、頭に「反臣逆党」書いた小旗を立てて首をはね、財産を没収してしまった話が書かれている。文革や薄熙来事件は歴史的な根を持っていることになる。文字に魂を込め、文字を重んじる国だからこそ、言語の腐敗は深刻な事態を招く。

言語の腐敗は、その国によって様々な現れ方をするが、「言論の自由」という使い古された言葉の意味を、ありきたりの学術用語やステレオタイプの言い回しでなく、個々人の独立した思考に基づき、生きた言葉で探究することの貴さに気付かせてくれる点では共通している。