行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

原点回帰を繰り返す習近平が訪れた万里の地

2016-05-01 12:44:52 | 日記
習近平総書記が4月25日、安徽省の鳳陽県小崗村を訪れた。第13次5か年計画がスタートして最初の地方視察は農村だった。同村は改革開放の口火を切る歴史的な事件が起きた地でもある。



1978年12月、小崗村の農民18人が、効率の悪い集団農業に背き、田畑を各農家に分配する生産請負制を断行した。投獄のリスクを冒し、「もし幹部が投獄された場合、社員は彼らの子どもを18歳まで育てることを保証する」と血判状を残した決死の決断だった。飢餓を救うにはその道しかなかった。これが農民の積極性を刺激し、生産高を飛躍的に高めた。

当時、安徽省のトップだった万里が後押しし、同じ手法を四川省の趙紫陽も導入した。胡耀邦総書記は「生産請負制は万里が1番で、趙紫陽が2番」との評価を与え、最高指導者の小平の支持を得て全国に広まった。改革開放は小平が「総設計師」とされるが、下からの積極性と、リスクを背負ってそれを引き上げる地方指導者の存在がなければ成功していない。現場を率いた万里と趙紫陽の功績は偉大である。

習近平は農家を訪ねながら、「当時、一家の生命と財産をなげうった行動が、中国の改革の第一声となり、改革のシンボルとなった」と語り、毛沢東が農民の軍を率い強固な国民党を撃破した感慨をうたった詩を引用して改革を継続する決意を表明した。

中国共産党は農村に拠点を築き農民を組織することで、国民党が支配する都市を包囲して政権を奪取した。毛沢東が「中国人は国家の主人になった」と建国を宣言した時、「主人」は人口の8割を占める農民を指したが、70年後の今、彼らは最も虐げられた存在に転落した。出稼ぎの増加で都市人口は農村人口を超えたが、都市戸籍の得られない出稼ぎ農民は不当な「二等市民」の扱いを受けている。農民の不遇が象徴する社会格差は一党独裁の危機につながる。農民の積極性は減退するばかりである。

習近平が頻繁に農村に足を運んでいるのは、毛沢東らが築いた農村拠点の再構築にほかならない。だが戦時ではない平時においては、上からのスローガンだけでは用をなさず、下からの意欲を引き出す地方指導者の胆力がなければならないことを、歴史は証明している。

2014年3月の全国人民代表大会で安徽省代表の分科会に参加した習近平は、同省代表から小崗村視察の招待を受けた際、清華大学在学中の1978年、 「現地の調査に出かけ、深い印象を受けた」と明かしている。当時のメモが残っていることも言い添えた。農民の自主性、積極性が大切であることは十分認識しているはずだ。

また、習近平が学生時代、父親の習仲勲が書記を務めていた広東省にでも出かけ、父と一緒に現地視察をしている写真も残っている。習近平が総書記就任後、最初の地方視察は広東省深センだった。工業面で改革開放の出発点となった地である。習仲勲は万里と同様、文化大革命で疲弊した人心を掌握し、下からの積極性を引き出し、経済特区が発展する基礎を作った。習仲勲と万里は亡くなるまで盟友関係だった。不遇な晩年を深センで過ごしていた習仲勲をたびたび尋ねた唯一の中央指導者が万里だ。

広東の改革開放は、習仲勲が小平から大幅な地方への権限移譲を得たことが成功を生んだ。その分、地方指導者が失敗のリスクを負った。一歩ずつ進めて既成事実を積み上げ、成果が上がれば中央が認める。中央の政治的リスクを回避し、政権の安定を脅かさないメカニズムができあがっている。もし中間の存在がなければ、習近平は直接リスクと向き合うことになる。

歴史が物語るのは、改革には大胆な分権化とその権限を活用できる強いリーダーシップを持った指導者が必要であること、さらに下からの積極性が不可欠であることの3点である。習近平の小崗村視察に意義があるとすれば、困難な改革の断行にあたって、歴史の中からこの点を学ぶことにある、と私は考える。