行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『時空を超える愛』①--孫文生誕150年記念に

2016-05-30 16:44:58 | 日記
今年の孫文生誕150周年を記念して拙稿『時空を超える愛』を書いた。報道ではとかく政治の側面から国際関係が語られるが、歴史上には国境を超えた人と人との関係も多く刻まれている。政治家の言説に惑わされることなく正しい世界観を持つために、人に焦点を当てた視点を探索しようと試みた。何回かに分けて紹介する。

孫文(1866-1925)は革命事業に身を投じた30年のうち三分の一を日本で過ごし、多くの日本人と交わった。政治的な利害を含んだ付き合いもあったが、彼は国境を超えた人類愛をだれよりも多く語った政治家である。革命家としての生きながら、激動の時代は思想家たらんことも要求した。貧農の家に生まれた孫文は若くしてハワイへ留学し、クリスチャンの洗礼を受けた。帰国して西洋医学を学び、中国が王朝体制から共和制に移行する陣痛の中で、東西の思想を教養としてばかりでなく、救国の糧として尋ねた。孫文の『三民主義』には次の言葉がある。

「仁愛も中国のよき道徳である。かつて、愛という言葉について、墨子ほど多くを語った者はいない。墨子が語った兼愛は、キリストの説いた博愛と同じである。かつて、政治の面で愛の道理を語ったものには、『民をわが子のように愛する』や『民に対しては仁(いつく)しみ、ものに対しては愛する』といった言葉があり、何事に対しても「愛」という言葉を含んだ。こうしたことから、古人が仁愛をどのように実行していたかがわかる」

孫文は、外国人が中国で学校や病院をつくり、中国人を教育し、中国人を救おうとしていることを指摘し、仁愛という道徳において、「今の中国ははるかに外国に及ばないようにみえる」と述べる。だが、孫文の主張は次の点にある。「仁愛はやはり中国の古い道徳であり、わが国が外国に学ぶべきは、かれらのそうした行動だけでよい。仁愛を取り戻し、さらにその輝きを増していくことがすなわち、中国が固有に持っている精神なのだ」

『墨子』は、世の中の乱れを愛の不在に求める。「もし天下が兼(ひろ)く相愛することになれば、国と国が攻め合わす、家と家が乱し合うことなく、盗賊はすべてなくなり、君臣父子はみな互いに孝行と慈愛の行いをすることができ、天下は治まる。天下がひろく相愛すれば治まり、たがいに憎みあうと乱れる」(兼愛編)。『墨子』が「他人を見ること、自分をみるようにする」と説くのは、一視同仁の思想である。中山陵にある孫文の墓碑銘には「凡我民衆、一視同仁(あらゆる人々を一視同仁にする)」の言葉がある。万人への深い愛に支えられた思想である。

一方、孫文より1年早く生まれた譚嗣同は(1865-1898)は、湖南省瀏陽の名家に生まれ、体制内革命に身を投じる。康有為や梁啓超らが光緒帝を担いだ戊戌変法に「六君子の一人」として加わるが、西太后一派に弾圧されると、潔く処刑の道を選んだ。33歳の短命だった。譚嗣同は北京の日本公館に逃げ込む梁啓超に対し「あなたは西郷(隆盛)となれ、私は月照となる」と遺言を残した。だれかが血を流さなければ国の変革はできないとの信念があったのだ。

彼は名著『仁学』の中で、「仁を身につけ、自在に無に通じた3人」として仏陀、孔子、キリストを挙げ、宗教を越えた愛によって差別のない社会の実現を訴えた。中国の知識人は儒教を柱としながらも、仏教の無常観や道教の無為自然をも取り入れ、人生に豊かな態度を保ってきた。近代以降はこれにキリスト教が加わった。孫文の語る「愛」はこうした歴史的な背景を持っている。

孫文が日本で最も多く残した書はおそらく「博愛」だろう。贈られたものがオークションにかけられ、数百万円の値段をつけているほどだ。だが「博愛主義」ではない。主義ではなく、実践である。真の心である。(続)

105歳、名利を求めず、遺骨も残さず去った女性知識人

2016-05-30 09:33:53 | 日記
5月27日、105歳で亡くなった中国の女性文学者、楊絳氏が荼毘に付された。遺言に従い、葬儀は簡略に、祭壇は設けず、遺骨も残さなかった。書籍などの貴重な文物財産はすべて、生前に国家博物館へ寄贈された。古典文学者として知られる夫の銭鐘氏が1998年、他界した際もまた同様の告別だった。妻はそれにならったのだ。



江蘇省無錫の知識人家庭で育ち、女性も教育を受け、自立するよう教えられた。同年代としては稀有な環境だった。清華大学在学中に夫の銭鐘書氏と知り合って結婚し、一緒にイギリス、フランス留学をする。多数の翻訳や小説を残した。私は彼女の著作を読んでいないので、作家としての論評をする資格はないが、中国では夫と並んで高い評価を受けている。



私自身に置き換えれば、105年はあともう一度人生を送るほど気の遠くなるような歳月だ。ちょうど1911年は辛亥革命が起き、1919年には五・四運動を迎える。戦争、内戦、建国から政治動乱まで起伏に富んだ中国の現代史を生き抜いた。財産は手放し、名のみが残った。政治や名利から身を遠ざけ、読書と著作の中にいて俗事と距離を保った。彼女に対する追悼の辞は、独立した人格を貫いた理想的な知識人への敬意と称賛に彩られている。私が引かれるのも、節度を守り続けた生涯に対してだ。

彼女が悩める若者に残した言葉がある。

「あなたの問題は読書が足りないのではなく、考えが多すぎることだ」

地に足のつかない思考は根無し草のように、風に吹かれるまま水面を漂い、よるべのない放浪を続けるしかない。それは軽薄な思考に流れる社会風潮への警句でもあっただろう。読書を経ない思索は、大脳を通過しないインターネット空間の言論のように、感情に支配され独立を失う。昨日は白だったものが今日は黒になる、親友や家族が敵味方に切り裂かれる、権力が金と結びついて価値観を顛倒させる、そんな有為転変の中、揺るがない信念を支えるのは、しっかり地に根を張った読書である。

文化大革命の現実を描いた長編小説『ある紅衛兵の告白』(邦訳)で知られる作家、梁暁声氏から聞いた言葉を思い出す。彼が文革期、周囲の狂気に染まらず、普通の人間としての冷めた目を持ちえたのはなぜか。私が興味をもって尋ねると、彼は鉛筆を手に取って、紙の切れ端に「読書」と書いた。「西洋文学の人道主義が私を救ったのだ」と彼は言った。

先日、日本の雑誌編集長と話をしていて、ある人物の話題になった。すでに引退してもいい年齢だが、金銭問題などである雑誌の編集長を辞めて別の出版社に移り、今度は自分の名前をタイトルに使った雑誌を発行している。おそらく世界でも例がないであろう。幅広く流通する公刊物である以上、公共財としての性格を有することは言うまでもない。価値ある事実と言論を伝えるべきメディア人として、見ているこちらが恥ずかしくなる行為だ。独立した「知識人」とは縁遠い世界の話である。

晩節を汚すという。老害という流行語もある。昨今、相次ぐ企業不祥事には共通して、地位や肩書に恋々として去り際をわきまえない人間の弱さ、愚かさが垣間見られる。功成り名を遂げた人は多い。だが、晩節に至るまで独立した人格を貫いた人は少ない。楊絳氏の退場は、感動が冷めない名作の舞台を思わせ、心に清流の流れを感じた。同じ気持ちを抱いた人々と、ともにその感動を共有し続けたい。