行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

105歳、名利を求めず、遺骨も残さず去った女性知識人

2016-05-30 09:33:53 | 日記
5月27日、105歳で亡くなった中国の女性文学者、楊絳氏が荼毘に付された。遺言に従い、葬儀は簡略に、祭壇は設けず、遺骨も残さなかった。書籍などの貴重な文物財産はすべて、生前に国家博物館へ寄贈された。古典文学者として知られる夫の銭鐘氏が1998年、他界した際もまた同様の告別だった。妻はそれにならったのだ。



江蘇省無錫の知識人家庭で育ち、女性も教育を受け、自立するよう教えられた。同年代としては稀有な環境だった。清華大学在学中に夫の銭鐘書氏と知り合って結婚し、一緒にイギリス、フランス留学をする。多数の翻訳や小説を残した。私は彼女の著作を読んでいないので、作家としての論評をする資格はないが、中国では夫と並んで高い評価を受けている。



私自身に置き換えれば、105年はあともう一度人生を送るほど気の遠くなるような歳月だ。ちょうど1911年は辛亥革命が起き、1919年には五・四運動を迎える。戦争、内戦、建国から政治動乱まで起伏に富んだ中国の現代史を生き抜いた。財産は手放し、名のみが残った。政治や名利から身を遠ざけ、読書と著作の中にいて俗事と距離を保った。彼女に対する追悼の辞は、独立した人格を貫いた理想的な知識人への敬意と称賛に彩られている。私が引かれるのも、節度を守り続けた生涯に対してだ。

彼女が悩める若者に残した言葉がある。

「あなたの問題は読書が足りないのではなく、考えが多すぎることだ」

地に足のつかない思考は根無し草のように、風に吹かれるまま水面を漂い、よるべのない放浪を続けるしかない。それは軽薄な思考に流れる社会風潮への警句でもあっただろう。読書を経ない思索は、大脳を通過しないインターネット空間の言論のように、感情に支配され独立を失う。昨日は白だったものが今日は黒になる、親友や家族が敵味方に切り裂かれる、権力が金と結びついて価値観を顛倒させる、そんな有為転変の中、揺るがない信念を支えるのは、しっかり地に根を張った読書である。

文化大革命の現実を描いた長編小説『ある紅衛兵の告白』(邦訳)で知られる作家、梁暁声氏から聞いた言葉を思い出す。彼が文革期、周囲の狂気に染まらず、普通の人間としての冷めた目を持ちえたのはなぜか。私が興味をもって尋ねると、彼は鉛筆を手に取って、紙の切れ端に「読書」と書いた。「西洋文学の人道主義が私を救ったのだ」と彼は言った。

先日、日本の雑誌編集長と話をしていて、ある人物の話題になった。すでに引退してもいい年齢だが、金銭問題などである雑誌の編集長を辞めて別の出版社に移り、今度は自分の名前をタイトルに使った雑誌を発行している。おそらく世界でも例がないであろう。幅広く流通する公刊物である以上、公共財としての性格を有することは言うまでもない。価値ある事実と言論を伝えるべきメディア人として、見ているこちらが恥ずかしくなる行為だ。独立した「知識人」とは縁遠い世界の話である。

晩節を汚すという。老害という流行語もある。昨今、相次ぐ企業不祥事には共通して、地位や肩書に恋々として去り際をわきまえない人間の弱さ、愚かさが垣間見られる。功成り名を遂げた人は多い。だが、晩節に至るまで独立した人格を貫いた人は少ない。楊絳氏の退場は、感動が冷めない名作の舞台を思わせ、心に清流の流れを感じた。同じ気持ちを抱いた人々と、ともにその感動を共有し続けたい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿