行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

唯一残された冷泉家はなぜ「左近の桜」でなく「左近の梅」なのか

2016-05-17 11:09:11 | 日記


冷泉家で見た「左近の梅」が興味深かった。国風文化を継承してきた宮家に「桜」でなく、なぜ中国の花である梅があるのか。おひなさまのたびに「右近の橘」と「左近の桜」をひな壇のどちらに置くべきか悩み続けてきた身としては、余計に気になる点であった。ちなみに「右近の橘」はひな壇の左に、「左近の桜」はひな壇の右に。親王から見てどちらかが基準なのである。


(冷泉家の上の間から庭を見て、奥が梅、手前が橘)

京都御所の紫宸殿前にあるのも、天皇の視点を起点に「右近の橘」と「左近の桜」が植えられている。だが、桓武天皇が794年、京都を都としたときは、桜ではなく、中国で最も好まれた梅だった。つまり「左近の梅」だった。その後、梅が枯れた後、仁明(にんみょう)天皇(810~850)が桜を植えたという。

万葉集までは梅を詠んだ歌が最も多く、桜が主流になるのは10世紀に編まれた古今和歌集からだ。隋、唐の文物を受け入れ、国土にあった文化が育っていく過程を、左近の花が物語っていることになる。冷泉家の「左近の梅」は、唯一残った公家屋敷に花の文化史を刻むかのような趣がある。

橘は常緑であり、朽ちない生命を象徴する。花は美によって語られる精神の投影である。中国において梅が好まれるのは、冬に花開く強さに惹かれるからだ。日本人はむしろ短命のはかなさを惜しむ気持ちに共鳴する。冷泉家に梅が残されているのは、風前の灯火となった公家文化を守る強さへの願いなのだろうか。

(上海から広東へ)