行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

プロデューサーが土下座で宣伝した中国映画『百鳥朝風』

2016-05-22 09:45:24 | 日記


昨日、上海で中国映画『百鳥朝風』を観た。監督の呉天明は作品の完成後、2014年に心筋梗塞で急逝した。呉天明は張芸謀(チャン・イーモウ)や陳凱歌(チェン・カイコ―)らの著名監督を育て、張芸謀を主役に登用した『老井(古井戸)』(1988)で知られる。陝西省の出身で、中国の黄河文明を生んだ黄土高原を舞台とした作品が多い。民族の根っこにこだわり続けた監督である。

『百鳥朝風』も舞台は陝西省の山村だ。その土地でしか見られない農民たちの表情がスクリーンに映し出される。冠婚葬祭に招かれる楽団の話である。何代にもわたって師匠から弟子へと継承されてきたラッパ、嗩吶(スオナ)。日本語ではチャルメラだ。もともとはペルシャから伝わった。タイトル名は、この楽器で奏でられる名曲である。正統の継承者のみが演奏でし、徳を積んだ者のためにしか披露されない。



チャルメラの名手、焦三翁を名優の陶澤如が土にまみれた北方の農民を見事に演じる。焦三翁は、親に連れられ弟子入りした少年の游天鳴(李岷城)に、まずは毎日、葦の棒で池の水を吸う訓練をさせる。肺活量をつけるためだ。決して器用ではないが、人間としては豊かな心を持っている天鳴に自分の後継を託し、『百鳥朝風』を伝えようと思っているのだ。その曲の前ではみながひざまずくほど敬意を払われている。

だが、経済成長とそれに伴う西洋化の波は農村にも押し寄せ、チャルメラ楽団からブラスバンドへと主役を替えていく。土地の伝統衣装を身に着けたチャルメラ楽団と、タキシード姿のブラスバンド。聴衆はチャルメラ奏者を時代遅れだと排除し、殴り合いのケンカになる。時代から取り残されていく楽器と人間の悲哀が描かれる。楽団のメンバーも金にならないチャルメラを捨て、省都西安へ出稼ぎに行く。最後のシーンでは、西安の道端でチャルメラを吹きながら物乞いをする農民が映し出される。逃げようも、避けようもない現実だ。

酔った焦三翁がチャルメラを手に乱舞する。



「人のために吹くんじゃなくて、自分のために吹くんだよ」

至福の表情はこう語る。

思い浮かべたのは儒教の書『荀子』の言葉だ。孔子が3人の弟子に知者と仁者とは何かを問う。

「知者は他人に自分を理解させ、仁者は他人に自分を愛させる」「知者は他人を理解し、仁者は他人を愛する」。最後に顔淵が「知者とは自分で自分を理解し、仁者は自分で自分を愛する」と答え、孔子は「君は明君子だ」とたたえる。なにも自己愛を言っているのではない。自らが世俗のあらゆるしがらみから解放され、無為自然な境地に達する状態を指しているのだ。対立する思想として発展してきた儒教と道教だが、人生の価値を模索するうちに究極のところで同じ根を持っているのではないかと感じさせる。

黄土に根差した伝統文化を慕う呉天明の思いもまた、同じ根によってつながっているのではないか。だから物悲しい最後のシーンを見ても、決して悲観的な、絶望的な印象は感じない。むしろ、たとえ強風にさらされ一時は倒れようとも、決して絶えることのない強固な根の存在を感じ、胸の中から熱い思いがこみ上げてくる。大地がしっかりと根を受け止めている。

この作品は、5月初めの公開後、全国映画館の1%ほどしか上映されず、売り上げが悲惨だった。そこで63歳になる制作者の方励が自分のミニブログで、土下座をし、頭を床につけて「上映してほしい。観てほしい。人生が金のためだけならつまらないではないか」とすがる映像を流し、ネットやメディアで話題となった。「そこまでするのか」と批判の大合唱を受けながら、その後、観客が10倍に増えた。人気俳優に頼り、娯楽中心の軽佻浮薄な作品が市場を席捲している現状が図らずも浮き彫りになった。

作品の内容とは別の場外乱闘で注目されたが、観る価値は十分あった。たとえ土下座そのものが功利的だったとしても、それを責める気は起きなかった。内容がすべての雑物を洗い流したというべきだろう。

(上海浦東空港にて、帰国の飛行機が大幅に遅れている。果たして帰れるのかどうか。何の放送もないが、じっと待つしかない)