行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「天皇さん、お帰りなさい」と呼びかける京都人の感覚

2016-05-16 23:07:58 | 日記
かつて宮内庁担当記者をしていたころ、両陛下の同行で京都に行ったときの忘れ難い思い出がある。京都駅を降りると、出迎える人垣の中から「天皇さん、お帰りなさい!」と叫ぶ声があった。「天皇さん」という親しみのある呼び方に加え、「今は仮に東京に住んでいるだけ。だから京都御所に帰ってきたのだ」という感覚に驚いた。

今回の京都旅行でも天皇の存在を強く感じた。天皇家が刻んだ歴史の深さと現在の不在がもたらしている溝の深さ、である。

同志社大の西側にある大聖寺は室町時代、天皇家の内親王を門跡として迎え、以来、「御寺御所(お寺の御所)」の異名を持つ。幕末、光格天皇の皇女、普明浄院宮が寺に入った際、光格天皇は斑入りのカキツバタを「雲井の鶴」と命名して下賜した。同寺院の庭にはなお紫色の「雲井の鶴」が残っている。陶器の鉢にも菊のご紋がある。天皇家との関係が寺院の運営に大きく役立ったが、明治以降、それが途絶えると、文化財の保護、修復にも困難をきたすほど資金面の苦労は多いとの話が伝わる。

御所の東、寺町通にある清浄華院(しょうじょうけいん)は、浄土宗八総大本山の一つで高い格式を持つ。同寺の伝承によると、平安時代の貞観2年(860)、清和天皇の招きによって唐から戻った天台宗の慈覚大師円仁が御所に「禁裏内道場」として建立したのが始まりとされる。国家の泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもあったのだ。同寺ホームページには「宮中にあったため、死の汚れを避け、葬式を行わない寺院であった事から『清らかな蓮の花の如く清浄な修行道場』といった意味を込め、清浄華院と名付けられたと伝わっています」(http://jozan.jp/index.php?History)と紹介されている。

その後、後白河天皇が浄土宗を広めた法然上人の教えを信仰し、同道場を法然上人に賜った。これによって清浄華院は浄土宗に改められた。清浄華院では円仁を創立開山、法然上人を改宗開山としてしている。御影堂にある法然上人の像は、優しい表情をしていた。ちなみに皇室との深い縁から長く菊花紋を使っていたが、明治以降は遠慮をして菊を葉で隠すような紋に変わった。天皇は神格化とともに、縁遠い存在になったようだ。



こうしたことを思うにつけ、相国寺が若冲画を天皇家に買い取ってもらうことで生き延びたのは実に幸運だった。

御所の北に面する冷泉家では唯一残っている公家の屋敷だと説明を受けた。明治維新後の東京遷都で天皇が旧江戸城に移った際、公家もまた京都を離れ、唯一、和歌の古文書を保護する名目で残されたのが冷泉家だという。同宅には御所から下賜された鶴の絵のふすまなども残っている。門に阿吽(あうん)を対にした亀像瓦が置かれているが、これは同邸が御所の北にあり、北を守る玄武神を表しているとのことだった。

京都を担ってきた貴族文化の根が断たれたのだが、それは寺院に残された。清浄華寺で愛好家グループによる茶会が開かれているのにも出くわした際、そんな感じを持った。

京都市内にはすでに文化庁の京都移転を宣伝するポスターも見られた。いろいろな議論はあるのだろうが、日本が文化立国として発展していくためには歓迎すべきだと思う。そこで考えてみる。天皇皇后両陛下は戦後、なかなか日の当たらない福祉活動を地道に続け、また自然災害での被災者慰問などを通じ、国民の中で広範な支持を得てこられた。そこにもう一つ、文化の継承という歴史的事実に基づく役割にも光が当たってもいいのではないか。

現在の御所は、軍事要塞である江戸城跡に移され、深い森に隠れるようにある。京都の御所は低い壁に覆われ、周囲との距離は短い。「天皇さん」という呼称がそれを象徴している。京都御所に暮らす天皇の方が、より庶民に親しみのある存在に近づくような気がするがどうだろうか。

(上海にて)

相国寺を救った若冲の『動植綵絵』30幅と薩摩藩士を救った英国人医師

2016-05-16 12:22:05 | 日記
臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、京都五山の第2位に列せられる名刹だ。14世紀末、室町幕府3代将軍の足利義満によって創建され、夢窓疎石を開山とする。同寺院のホームページには以下の記述がある。

室町時代永徳2年(1382)、三代将軍足利義満が一大禅院の建立を発願、建立にあたってその寺号について春屋妙葩及び義堂周信にはかったところ、春屋妙葩は「現在、あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけてはどうか」、義堂周信は、「中国の都、東京(開封)に大相国寺という寺があり、まさに恰好の名前ではないか」と進言しました。(http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_china.html)

北宋時代、皇帝の住む首府として栄えた河南省開封の大相国寺は今も残る。『水滸伝』の時代とも重なる。開封は東に位置する都であることから「東京」の名でも呼ばれた。「相国」の官職名は『三国志』にもしばしば見られ、宰相とほぼ同義である。義満の左大臣は、相国に相当するところからもその名の由来がある。

同寺院の養源院を訪れ、興味深い歴史の話を聞くことができた。



一つは薩摩藩士を救った英国人医師の話。養源院は薬師如来像があったことから、幕末の1868年に起きた鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍と戦って負傷した薩摩藩士を運び込む野戦病院となった。すぐ近くに薩摩藩の藩邸があったのだ。だが当時の外科技術のレベルは低く、傷口が化膿し、バタバタと武士が死んでいく。苦痛の叫びを物語るように、養源院の柱には負傷した薩摩藩士が残した刀の傷跡が残っている。

そこで招かれたのが、英国領事館付きの医官として日本に滞在していたイギリス人の外科医ウィリアム・ウィリスだ。英国公使パークスを通じて派遣が要請され、通訳のアーネスト・サトウとともに養源院で藩士の治療に当たった。日本で最初にクロロホルムを使った麻酔を行ったとも言われている。当時、天皇家は尊王攘夷であり、京都に外国人が入ることは許されていなかった。薩摩藩が天皇家に掛け合って例外を認めさせたというエピソードが伝わる。朝廷と薩摩藩の力関係を物語るかのようだ。

もう一つは、東京都美術館で生誕300年記念展覧会が開かれている伊藤若冲(1716~1800)にまつわる物語だ。同展では、若冲が相国寺に寄進した『釈迦三尊像』3幅と宮内庁所蔵の『動植綵絵』30幅が一堂に会している。





若冲は、禅宗を深く信仰し、相国寺の住職とも親交が深かった。若冲は、相国寺に伝わる日中の絵画に接する一方、同寺が参拝者に向けて行う展示によってその名を知られるようになった。一般公開の際、参道には行列ができたというから、文化が庶民に広がっていくさまを見るようである。寺院が文化を育て、発信する中心的な役割を担ったのだ。

昨今の寺院経営は難しいと言われるが、明治期は廃仏毀釈の逆風で、それこそ存続の危機に瀕していた。相国寺の苦境を救ったのが若冲が残した絵だった。相国寺は『釈迦三尊図』3幅以外の『動植綵絵』30幅を明治天皇に献納し、下賜金1万円を受ける。この資金の助けによって相国寺は1万8000坪の敷地をなんとか維持できた。同寺院が皇室と深い関係になければあり得なかったことだろう。京都から天皇や皇族が離れ、貴族文化の根は大きく断たれたが、寺院を中心にした京の庶民文化は天皇家の配慮によって守られたということになる。

養源院には、蟹を描いた若冲の掛け軸もあった。さりげなく伝わる歴史もまた尊い。(続く)


 

同級生の住職を訪ねた京都一泊の旅

2016-05-16 00:54:53 | 日記
14~15日にかけ京都に出かけ、大学時代の仲間とともに同級生が住職をしている正定院(左京区田中下柳町)を訪ねた。1610(慶長15)年に創建された浄土宗の寺院。京阪電鉄・出町柳駅を出てすぐ、ちょうど加茂川と高野川が合流する地点の東岸にある。学生時代には本堂に泊まったこともある思い出の場所だ。住職の案内で周囲の寺を巡った。5月15日はちょうど平安貴族を再現させた行列の葵祭だった。



伏見稲荷、東福寺、大聖寺、冷泉家住宅、相国寺、阿弥陀寺、清浄華院、蘆山寺、その間に葵祭の行列を見物し、最後は広隆寺で弥勒菩薩像を拝んで締めくくった。2日間で3万歩を超える密度の濃い旅だった。

正定院はもともと御所の西側を南北に走る寺町通にあったが、1693年に焼失し、跡地に公家の家を建てるということで約1キロ離れた現在の地に引っ越した。寺町通の蘆山寺に、豊臣秀吉が作った御所周辺を囲む土塁の御土居(おどい)跡がある。御土居の内側が洛中、外側は洛外。正定院には当初、公家の檀家もあったが、洛中から洛外に移転すると、「そんな辺鄙なところではいやだ」と離れてしまったという。

今回の旅行では、天皇家や公家が寺院に残した大きな歴史の足跡を実感した。相国寺では、今、話題の若冲に関する興味深いエピソードも聞いた。天皇家と公家、寺院との関係については別途、論じることにする。

今日は印象深かった臨済宗の東福寺について触れる。奈良で隆盛を誇った東大寺と興福寺にあやかって、「東」と「福」を取ってつけた名前だ。巨大な伽藍を持ち、国宝に指定されている正面の三門(山門)は端正で、堂々としている。



本堂に行く途中に、高さ20メートル近い老木の「イブキ」(ヒノキ科)が見える。13世紀半ば、同寺を開いた聖一国師が宋に渡って仏法を極め、帰朝の際に持ってきたと伝えられる。だとすれば樹齢はゆうに700年を超える。樹皮が大きくえぐり取られたようになっている様が痛々しい。火事などで傷を負ったのだろうか。それがたくましさを添えている。同寺には聖一国師が宋から持ち帰った1000点を超える重要な典籍が保存されている。



本堂の天井には、堂本印象(1891~1975)筆の天井図「蒼龍図」がある。臨済宗の寺院には相国寺を含め、仏の教えに導くとして龍の天井画が見られる。これも中国の影響だろう。飛び出すほど大きな白目が、見上げる者の心までもつかみ取るかのような畏怖を連想させる。



方丈の庭は、作庭家・重森三玲(1896~1975)が1939年に完成させたもので、鎌倉時代の質実剛健な風格と現代芸術の抽象的構成を重ね合わせたものだという。(続く)