行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

広島で語った歴史的な安倍首相演説の空疎さについて

2016-05-29 19:07:46 | 日記
オバマ米大統領の広島スピーチについては、議論が出尽くしていると思うので筆墨を省く。同時に行われた安倍首相の演説は、まさにジョージ・オーウェルが指摘した空疎な言葉が目立った。鼻についたのは以下のくだりだ。



「71年前、広島そして長崎ではたった1発の原子爆弾によって何の罪もないたくさんの市井の人々が、そして子供たちが、無残にも犠牲となりました。一人一人にそれぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。その当然の事実をかみしめるとき、ただただ断腸の念を禁じ得ません。いまなお被爆によって大変な苦痛を受けておられる方々もいらっしゃいます」
「71年前、まさにこの地にあって想像を絶するような悲惨な経験をした方々の思い。それは筆舌に尽くしがたいものであります。さまざまな思いが去来したであろう、その胸の中にあって、ただこのことだけは間違いありません」

「断腸の念」「筆舌につくしがたい」・・・大げさな表現を多用しているのは、自分の言葉で語るすべを知らないからだ。ステレオタイプの凡庸な表現を繰り返しているのは、自らの思想が空疎であることを吐露しているに過ぎない。

中国の古典を読めばわかる。「断腸」は内臓を引き裂くほどの痛切な感情がある。『三国志』には、悲憤や激怒のあまり、目や鼻から血を出して憤死する場面がしばしば出てくる。五官を通じた感情表現は大げさではあるが、読む人に感情の深さを訴える。誇張的な表現にはその文化に根差した感情がある。その深い感情が、安倍首相の言葉には感じられない。物書きが「筆舌に尽くしがたい」と言ったらおしまいだ。この点、政治家もまた同じである。安倍演説は表現力の評点でもかなり低い。

オバマ大統領が言った「愛」に相当する安倍首相の発言はない。日米の軍事同盟しか念頭に置いていないため、普遍的なアピールがない。日本のメディアは表層的な事象を追い、拍手喝采を送ることで精いっぱいだ。各メディアの予定調和的な一致は、言葉にできない空気を読んだ結果である。そもそもそうした空気の是非を論ずる余裕も自由もないのが日本の言論状況である。

歴史的なイベントであることを強調しながら、戦争の歴史観に対する大局的な見方を欠いている。だから中国が南京大虐殺を持ち出したことに戸惑いを感じる。私は4月17日、このブログで『オバマ大統領のヒロシマ献花をゴールにしないために』という一文を書いた。

「原爆ドームが世界文化遺産に登録された際、米中はともに反対の立場を取ったが、中国側からは『アジアの国々が戦争で多大な損害を被った歴史を否定する者たちに利用される恐れがある』との意見が出されたことも想起されなければならない。そして今、南京の大虐殺記念館を広島と同様、世界文化遺産に登録しようとする動きが顕在化している。日本政府はただ傍観し、外野からヤジを飛ばしているだけでよいのか。正しい歴史を残すため、むしろ積極的に関与するよう努力すべきではないのか。ユネスコでの審議が始まった場で、反対意見を述べる日本が国際的に孤立し、和解がさらに遠のく光景は決して見たくない」

昨年、日中首脳が戦後70年を総括した談話に相互の歴史観の違いが顕著に表れている。日本はとかく歴史を清算するという視点で考える。安倍首相は戦後70年談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と訴えた。

一方、中国は現状に不公平を感じ、歴史をバネに民族の復興を求める。習近平は抗日戦争勝利70年演説で、「抗日戦争の勝利が、日本の軍国主義が中国を植民地とし奴隷とするたくらみを徹底的に粉砕し、近代以来、中国が受けてきた外国の侵略による民族の恥辱を雪ぎ、世界における中国の大国としての地位を改めて確立した」と述べた。

オバマ大統領の広島訪問を日米和解という線でしか考えないのであれば、大きな誤解を生ずる可能性がある。それは所詮、日米同盟の強化という政治的な、限定的な意味しか見出し得ない。

前回のブログで書いた言葉を以下に繰り返す。

「オバマ大統領のヒロシマ献花は決してゴールではなく、むしろそこから新たな多方面との『和解の儀式』を模索する困難な道が始まる。もっともその困難な道はすでに戦後から続いており、70年をたった今、迷路のように入り組んでしまっているのだ。もつれた糸を解きほぐすにはまず、ひとつひとつのほころびを緩めていくしかない。一刀両断は断絶にしかつながらない。過去と現在、未来はそれぞれが独立してあるのではなく、分かちがたくつながっている。分けたがるのは政治家の方便でしかない」

※孫文生誕150年の記念原稿は次回としたい。


オバマ米大統領が語った「宗教の愛」について

2016-05-29 10:40:03 | 日記
オバマ米大統領が27日、広島市の平和記念公園を訪問し、原爆慰霊碑への献花に続き、17分間、英語でスピーチをした。ジョージ・オーウェルが言ったように、政治家の言葉には思想を腐敗させる毒があるが、それを差し引いてもなお、以下の言葉に注目した。



Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness. And yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith has a license to kill.
(偉大な宗教はいずれも、愛や平和、正義に至る道を説いている。だが、信仰によって殺人を正当化する信者が生まれることを免れた宗教はない)

確かにその通りだろうが、宗教があって愛があるのではなく、人間に愛があるから宗教が生まれたとみるべきではないだろうか。だからこそ宗教が語る愛に洋の東西を問わない普遍性がある。キリスト教は博愛を、仏教は慈悲を、そして儒教も仁愛を説いた。愛を政治や宗教から解放しなければ独善に陥るのではないか。今年の孫文生誕150周年を記念して拙稿を書いた。タイトルは「時空を超える愛」である。

昨晩、日本のテレビドラマを見ていて、浅薄な「愛」が語られているのに唖然とした。オバマ発言の「愛」について考えていただけに、その落差があまりにも大きかった。

ある銀行が赤字を解消するため、業績不振の関連会社を清算するストーリーだ。従業員200人の首を切らなければならないが、エリート女性行員は、銀行の利益を第一に考えて断行しようとする。優秀な彼女は、その関連会社が歴代頭取の指示によって裏金作りに利用されていることを突き止め、会社清算の背景に派閥抗争が存在していることも察知する。だが最後、彼女は違法行為を見逃し、結果的に自分が銀行で生き残るための手段として利用する。組織の利益という大義のため、良心に目をつむって悪事に加担するのである。彼女が口にするのが次の言葉だ。

「××銀行を愛している」

相次ぐ企業不祥事の背景には、「組織の利益」という大義が語られる。だが、不明確な「組織の利益」は責任をあいまいにする方便だ。実際、組織全体の利益と言うものはなく、一部の人間の自己保身でしかない。だとしたらそのように語ればよいだけのことである。空気のような概念を振りかざして、しかもそこに普遍的な、だれもが抗しがたい「愛」を持ち出すのは詐欺的論法である。普遍性のない愛はいびつな「偏愛」でしかない。

宗教を持たない国の悲哀、というよりも、愛を語る契機を欠いた人間の浅薄さという言うべきか。

以上は「時空を超える愛」の前書きとして、次から本文に入る。