賈樟柯(ジャン・ジャンクー)監督の「山河エレジー」(中国名・山河故人)を観た。山西省の町、汾陽(フェンヤン)で生まれ育った3人の男女が登場する。汾陽は監督の故郷である。男性の一人は炭鉱労働者のリャンズで、もう一人はガソリンスタンド経営で財を成し、やがてはその炭鉱を買収するジンシェンだ。男同士の友情は女友達である小学校教師タオの奪い合いによって破綻。タオは金持ちのジンシェンを結婚相手に選ぶが、男の子を生んで離婚する。父親はその子に米ドルをたくさん稼ぐ願いを託し「ダラー(到楽)」と命名する。
ジンシェンは上海で投資に成功し、ダラーを連れてオーストラリアに移民する。タオはガソリンスタンドを引き継ぎ、地元で独身を守り続ける。一人っ子のダラーは中国語を忘れるが、母の面影は去りがたく、母を慕う気持ちをバネに、人生の理想を失った父からの独り立ちを試みる。
中国の高度経済成長による劇的な生活の変化、価値観の動揺、その中で貫かれる母子の愛情がテーマとなっている。たいていの映画評はこの範囲にとどまるが、私は賈樟柯が現実の社会と向き合い、作品の中でこだわり続けている人間の「根」を感じた。実社会の中に模範解答がないように、映画は映像によってとことん生きている人間を追う。その根っこにあるものは何なのか。
人はある土地で生まれ、その土地の食べ物を口にし、その土地の言葉を覚え、その土地の人々に囲まれ育っていく。この映画において言葉、食は極めて重要なキーワードだ。真実にこだわり続ける賈監督の発する共通したメッセージである。彼の映画には常にその土地にしか存在し得ない人々の表情が登場する。土地と人が分かちがたく結びついている。
冒頭からのシーンは山西省の方言で始まる。内陸の立ち遅れた都市だが、地場産業の炭鉱によって徐々に成金が生まれる。毎年のお祭りに興じていた素朴な人々の生活、価値観にも変化が訪れる。だがその土地にいて、方言で語り合っている限り、仲間の結束は乱れない。だが人が土地から離れると、「根」が揺らぎ始める。
タオの父親の葬儀で上海から戻ってきた少年のダラーは、国際学校に通っているため上海語と英語しかできない。父親の山西方言を話せないのは、父親が家庭にいないからだ。「お母さん」と呼べず、「マミー」と言う。ここで母親のタオは大きな断絶を感じ、息子を手放す覚悟をする。だが唯一、母子をつなげたのが、彼女が両手を結ぶように作った餃子だ。母が口で冷ました餃子を口元に運び、ダラーは若干戸惑うが、一口で頬張ったとたん、これまで食べたことのないごちそうをたべるような表情を見せる。
その直前、ダラーと上海語でチャットをしていた上海の「マミー」(おそらく父の愛人なのだろう)は、「帰ってきたら老吉士で食事をしようね」と話す。「老吉士」は上海料理を出す有名な高級レストランだ。すでに彼は上海に「根」を移してたが、やがてはそこからも離れ、異国の人となる。成金にしか過ぎない父親のジンシェンは言葉の通じない国に移住し、超高級住宅に住みながらも、地に足のつかない生活に自分を喪失する。彼は中国では許されていない銃のコレクションに慰みを求めるが、常に中国茶の湯飲みを手放すことができない。
「何が自由が知ってるか?中国では銃を持つことができなかった。オーストラリアは法が変わって銃が買えるようになって、おれはたくさんの銃を買った。だがどうだ。銃を持っても、今はもう殺したいような敵がいないんだ。何が自由だ!自由なんてくそくらえだ!」
ジンシェンがダラーにたたきつけた言葉は、自由とは何かを伝えると同時に、人生の目標、理想とは何かを問いかける。「敵」とは、憎むほどの感情をぶつけることのできる友人である。「根」を失った者は、自由のように見えるが実は浮草に過ぎない。澄んだ水では蓮も花を咲かすことができない。人生は本来、泥にまみれたものなのだ。
餃子は山西省など北方の食べ物で、上海では食べることが少ない。少年のダラーにとって、口に運ばれた餃子は、母を思い出す貴重なきっかけとなる、生涯忘れ得ぬ記憶に違いない(この点、作品中、餃子の記憶が忘れ去られているのは非常に物足りない)。皮を合わせて作る餃子は、北方の中国人にとって「いつまでも一緒にいますように」との願いが込められている。オーストラリアで大学生になったダラーは中華料理店でアルバイトをし、中国人移民へのデリバリーをする。彼は言葉を忘れるが、食においては「根」を失っていないことを暗示している。彼は根無し草のように、自分の生き方を探しあぐねる。「根」を求めるにはやはり、故郷にいる母の存在が不可欠だ。
「根」のないダラーは母の面影を求め、やはり「根」のない中国語の女性教師ミアに近づき、恋愛と母への思慕が混在した複雑な感情を生じる。「根」を探し求める同士が、苦悩の中、灯りを手探りしているような情景である。ミアを演じた張艾嘉の好演には共感が持てたが、彼女の「根」がどこにあるのか、最後まで判然としなかった。
また残念だったのは、山西省出身の賈監督が、『長江挽歌』(三峡好人)や『四川のひと』(二十四城記)を通じ、常に労働者の真実の素顔に焦点を当ててきたにもかかわらず、この作品においては、炭鉱労働者のリャンズをただの負け犬のまま、その存在を葬り去ってしまったことだ。『長江挽歌』では、監督のいとこで、炭鉱作業の経験もある俳優、韓三明が出稼ぎ農民を好演した前例があるだけに惜しまれる。弱者への視線を失った作品は、「根」の描写も脆弱になるのではないかと感じた。