行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『水滸伝』を読むと中国政治がよく見えてくる③

2016-05-04 19:58:00 | 日記
メディアも発達していない時代、『水滸伝』の中では、人の評価はよいものも悪いものもたちまちにして千里を走る。信頼のおける人間関係を通じて伝わるので、たいていは的を射ている。「爆買ツアー」で日本人が意外と思える商品に人気が集まるのは、中国独特の口コミ社会があるためだが、そんな原型を思わせる。

宋江をはじめ、梁山泊の豪傑たちをほめたたえる評判は、命よりも忠義を重んずること、困っている弱者を助けること、そして欠かせないのが「金離れのよいこと」だ。自分の命を軽んじ、金をものとも思わない振る舞いが何よりも人の尊敬と崇拝を集める。友や義兄弟が来れば、羊をつぶし、牛を屠って、ありたけの名酒を振る舞う。別れには何日も引き止めて宴席を繰り返し、最後には何キロも一緒に歩いて別離を惜しむ。もちろん選別に金銀を手渡すことは言うまでもない。

朝廷に帰順し、梁山泊を去るときは、地元住民に財産を十分の一の値段で分け与えた。不正な蓄財を強奪し、貧しい者に分配する義士を演じた側面もある。


第82回「梁山泊金を分かちて大いに市をひらく」(完訳『水滸伝』岩波文庫)

そういう人物のところには自然に人と金が集まってくる。「金は天下のまわりもの」なのである。だから中国では割り勘文化が根付かない。細かく金の支払いを計算するのは、人情に疎い、けち臭い行為に見えてしまうのである。昨今、大都市では若者たちが「AA」と言って割り勘文化を取り入れ始めているが、主流にはなっていない。むしろ「今日はおれがおごる」「明日はおれがおごる」と交互に勘定をすることが多い。

古人は「生を見ること死のごとし、富を見ること貧のごとし」と言った。生死、富貴を超越したところにこそ、義の道があったと言うべきだろう。『菜根譚』には「有浮雲富貴之風(富貴を浮雲とするの風あり)」とある。各地のならず者たちは流れる雲に身を任せ、風の吹くままに人を訪ね、揺るぐことのない人情を枕に寝た。『水滸伝』には、「人のよしみも千日まで、花の紅も百日まで」と廃れる人情を嘆く言葉も出てくる。官僚が腐敗に染まり、人情が頼りなくなる軽佻浮薄jな世の中だからこそ、梁山泊の英雄が生まれたのかも知れない。

裁判も代官への付け届けで左右される。島流しにされる道中も、連行役の役人に袖の下を出さなければどんな冷遇をされるかわからない。監獄では虐待を受けないためには看守への心づけが不可欠だ。こうした小金はもはや違法な賄賂だという意識がない。それが今も続いている。金と権力で結びついた者たちは、「兄貴」「小兄弟」と呼び合い、持ちつもたれつの関係を保つ。手下には必ず財布を預かる「小金庫」がいる。だから中国の汚職事件は、トップを中心に芋づる式に広がっていく。

中国では血縁関係も法的関係もない父母、きょうだいが多数いる。特別に仲のよい男友達は「兄弟」、女友達は「姐妹」と肉親同様に呼び合う。きょうだいの契りを結ぶことは「結拝」「結義」と言う。同じように親密な他人同士が親子の契りを結んで、儀式を執り行うこともある。この親は「義父」「義母」、あるいは「干爸」「干妈」だ。配偶者の父母を「岳父」「岳母」と呼ぶのとは区別されている。

法も権力も頼りにできない庶民にとって、唯一身を守るための手段は肉親に等しい強固なつながりで結ばれる人間関係しかない。「友達が多ければ、道は歩きやすい」と言う。

官僚も人の子である以上、しばしば子どもや親戚、義兄弟に甘くなり、彼が虎の威を借りて利益に手を染めるところから腐敗が始まる。腐敗摘発の先頭に立っている党中央規律検査委員会書記の王岐山と、党中央政法委員会書記の孟建柱にいずれも子どもがいないのは、単なる偶然ではないだろう。もともと腐敗に染まるリスクが少なかったうえ、後顧の憂いもなく容赦のない摘発を断行できるのだから。(続)

『水滸伝』を読むと中国政治がよく見えてくる②

2016-05-04 01:08:59 | 日記
梁山泊に集まった豪傑たちは、仇討ちとして相手の内臓を割き出し酒のつまみにするほどの残虐さを持っている。だが無軌道、無原則ではない。法を犯し、娑婆から逃れてきたのも、進んで悪事を働いたわけではなく、世の不正義が彼らを追い込んだのである。その不正義はしばしば不公正な裁判や官僚の腐敗がもたらしたものだ。108人のアウトローを結び付けるのは義兄弟の契りであり、忠義の誓いである。

『三国志演義』で、劉備、関羽、張飛の3人が桃園に集い、「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」と義兄弟の契りを結んだように、『水滸伝』でも108人の英雄が勢ぞろいし誓いを立てる。宋江がこう唱える。

「ただ願わくはともに忠義を心に存し、同じく功勲を国に著し、天に替わって道を行い、境を保ち民を安んぜんことを。神と天とみそなわして給い、報応あらたかに示したまえ」


第71回「梁山泊に英雄 座の次を排む」(漢訳『水滸伝』岩波文庫)

すると残る全員が「ただ願わくば、生生相会い、世世相逢うて、永く絶ゆることなからん」と血をすすって酒盛りをする。義兄弟たちを前に、神と天に対する近いほど堅い守りはない。紙切れに書かれた法文は何も約束してくれない。裏切者は、義兄弟の契りを破った不届き者であると同時に、天に背く反逆者となる。

習近平が繰り返し共著している「掟」も、梁山泊のにおいがする。党指導部の団結を見出し、政権奪取のクーデターや総書記の暗殺計画など天も恐れぬ悪者は断固として排除すると明言している。

習近平の父親、習仲勲は黄土高原の陝西省で生まれ育ち、生涯「農民の子」を自任した。13歳で中国共産主義青年団に入団し、15歳で共産党に加わった。暴力教師の毒殺未遂事件にかかわって投獄され、獄中で入党したという猛者だった。習近平もまた文化大革命時代、父の故郷で農作業を強いられ、「私は黄土の子だ」と書いた。彼には土の香りが染み込んでいる。現在の最高幹部の中で、習近平ほど農民と打ち解けて話すことのできる者はいない。

毛沢東は建党間もない1926年、論文『中国社会各階級の分析』の中で、土地を失った農民や仕事にありつけない手工業労働者ら、社会の低層で最も不安定な生活を強いられている「遊民(ルンペン)無産者」に注目し、「これらの人々は非常に勇敢に戦えるが、破壊性も持っており、うまく導けば革命の力になり得る」としている。

土地に縛り付けられた従順な農民は、掛け声だけに呼応して地主を襲う勇気はないが、失うもののない遊民にはできる。中国では彼らを「無頼」と呼ぶ。地主とは食うか食われるかの関係なので、何のためらいもなく地主や土豪の陣営に進撃する。国民党側からは「ごろつき」と言われた。型破りなごろつきでなければ、先行きの見通しがない状況の中で、世の中をひっくり返そうという意識も度胸も持ち得なかったのだろう。

だが本当のことを言うと、恨みを買うことがある。

文革後の1980年、広州で工場労働を経験したインテリの王希哲が、香港で『毛沢東と文化大革命』という論文を発表した。毛沢東を歴史上、繰り返されてきた農民革命の首謀者と同一にみなし、「(毛沢東が根拠地とした)井岡山の山並みの向こうに、梁山泊の砦の影を見ることができる」と言い切った。彼はそれによって投獄されてしまう。

実は、王希哲はそれに先立つ文革末期の1974年、李正夫、陳一陽らと「李一哲」の名で、広州市の交差点に65枚の紙をつなげた100メートルの壁新聞『社会主義の民主と法制について』を掲げた。毛沢東を含む党の封建的な体質を真っ向から批判した先鋭な内容は、たちまち口コミで伝えられ、最も有名な壁新聞の一つとなった。だが、四人組の江青から「最も反動的な文章」と批判され、3人は「反革命集団」として投獄された。

その際、王希哲ら3人を救ったのが、広東省の党委書記として赴任したばかりの習仲勲だ。習仲勲は計4回、彼らと面会し、「私も足かせをはめられ、縄で縛られた経験がある」と16年に及ぶ自分の迫害体験を語り、党指導者としての誤りを認めた。最後は1000人規模の大集会を開いて名誉回復を実現させた。改革開放を進める上で、避けて通ることのできない思想の解放を習仲勲が率先して行った。奇妙な縁である。

だが一貫しているのは、人を生かし、殺すのは、分厚い六法全書に書かれた法ではなく人、そして人の結ぶ掟であるという伝統だ。

宋江が朝廷に帰順し、最初の任務として国境を侵す遼の征伐を命じられる。軍に下賜された酒と肉をピンハネした役人を、仲間の下士官が切り倒す。宋江はやむなくこの下士官を処刑するが、その時の言い方がこうだ。

「わたしは、梁山泊にはいってから、大小の兄弟分、一人だってだいなしにしたことはなかった。今日、わが身は役人となり、何事も自分のすきほうだにできず、法律を守らなければならなぬ」

法を持ち出したとたん、つまらない男に見えてしまうのは、私の目がゆがんでいるのか。(続)