行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『水滸伝』を読むと中国政治がよく見えてくる

2016-05-02 11:27:30 | 日記


毛沢東が『水滸伝』を愛読したことはよく知られている。蒋介石の国民党軍に追われ、山間部の農民を組織してそこに根拠地を築かざるを得なかった自身の経験について、「上梁山(梁山に上る)」と評した。共産党軍を、已むに已まれず悪事に走り、梁山泊に集まった水滸伝の豪傑たちにたとえたのである。権力に対する反抗精神や天に替わって道を行う英雄像は、少年期には誰もがあこがれるものだが、毛沢東はそこから政治闘争の知恵まで学んだ。

梁山泊には首領の宋江を補佐する呉用や公孫勝、蕭譲らの智将がいたが、毛沢東はこうした水滸伝の事例を挙げながら、「革命で勝つためには知識分子がいなければダメだ。プロレタリア階級は決起しなければならないが、困難な大衆には知識分子が必要であり、あらゆる階級にはその階級に奉仕する知識分子がいなければならない」と語っている。先日、習近平が知識人の言論を歓迎する発言を紹介したが、毛沢東以来の伝統を再確認したことになる。

毛沢東は多数の知識分子を弾圧したが、皮肉にもそれは彼らの重要性を認識していたことの裏返しだ。革命のために利用するのが目的であって、個人の自由はその範囲にとどまる。習近平もまた改革のために知識人の協力が不可欠だと言っている。国家や民族の尊厳を害する言動は認めていない。習近平はそれを知識人が本来持っているべき「良知」だとする。この点は、完全に独立した自由を求める知識人の立場と相いれない。

『水滸伝』に話を戻す。



毛沢東は死去の前年、皇帝に服従し、外敵の征伐に出かけた宋江を日和見主義者、修正主義者として批判し、一大政治キャンペーンを行った。天下を取った毛沢東は、最後には迫害される盗賊の大将に自らを擬するわけにはいかなかった。文化大革命への批判を警戒し、敵対するソ連に対抗し、我こそは社会主義の正統であることを世界に訴える必要もあった。人生の幕引きが迫っていることを悟った毛沢東は、死後の評価を気にかけたのだ。

中国には「蓋棺定論」または「蓋棺論定」との言葉がある。人の評価は死後に決まるとの意味だ。だから政治闘争を生き抜いてきた権力者は生存中に司書を残し、死ぬまで自分に忠誠を誓う側近を大事にし続ける。

宋江が朝廷に帰順したのも、有罪者の経歴を清算し、忠臣として名を遺すためである。悪辣な官僚に貶められ、非業の死を迎えるが、宋江には兄弟と呼び合った仲間があり、神に対する篤い信仰があった。よこしまな謀議によっては消し去ることのできない仲間の忠義と信仰を残した。友がなく、信仰のない者は、猜疑心にかられ、権力によって周囲を畏怖させる手段しか残されていない。毛沢東の宋江批判は、民衆から慕われ、神となった宋江に対する嫉妬があったのではないかとさえ思える。

中国政治、中国社会を深く知ろうと期待し、吉川幸次郎・清水茂訳『水滸伝』(岩波文庫)全10巻を通読した。収穫は大であった。

習近平は青年期、陝西省延安の農村で暮らしていたとき、洞窟の部屋に『水滸伝』が置いてあったのを、地元の農民が見ている。福建省の省長時代は雑誌のインタビューで、「団結」の大切さについて宋江を引き合いに出した。「団結がうまく処理できれば、すべての仕事はうまくいく。大衆と融和し一致できたときは、生きている充実感がある」と語り、「宋江にははっきりしないところがあるが、なぜみなが彼を推挙するかと言えば、人を団結させる能力があるからだ」と評した。

習近平は総書記になって以来、四書五経のほか『三国志』にも『西遊記』にも言及しているが、『水滸伝』はないように思える。だが、彼が繰り返している「掟の順守」はまさに梁山泊の誓いを思わせる。日を改めて論じたい。(続)


知識人からの不評を気遣った習近平の「三つの不」

2016-05-02 00:28:41 | 日記
習近平政権が誕生して3年半。綱紀粛正から思想統制、言論統制まで堅苦しい世の中になり、一般庶民は感じていないが、知識階級は堅苦しい思いを強いられている。表向きには言わないが、「江沢民や胡錦濤時代の方がよかった」という愚痴もしばしば耳にする。そんな悪評を気遣ったのか、最近、言論に対する寛容な発言が目立つ。

4月30日、安徽省で知識人や模範労働者、青年を対象に開いた座談会ではこう語った。

「知識人から寄せられる意見や批判は、動機が正しければ、大いに歓迎し、積極的に受け入れなければならない。たとえ一部の意見や批判に偏りや、不正確な点があっても、より幅広く、寛容な態度で接するべきだ。上げ足を取ったり、レッテルを張ったり、弾圧したりしてはならない(不抓辫子、不扣帽子、不打棍子)。各クラスの指導者幹部は知識人と進んで付き合い、彼らを誠実な友人、耳の痛いことを言ってくれる友人だと思うべきだ」

また4月19日、インターネットの安全・情報化活動座談会では、「ネットでの善意による批判は歓迎され、それだけでなく真剣に研究し、取り入れなければならない」と強調した。

安徽省の「三つの不」発言は、五四運動の記念日、5月1日のメーデーを前にしたものだ。開明的な万里が改革開放の先陣を切った場所を視察した後だけに、その言葉には深い意味があると思える。

万里の盟友だった父親の習仲勲は生前、党内言論の不寛容が文化大革命などの誤った道を生んだ反省から、言論の自由を保障する「不同意見保護法」を定めるよう試みた。「どういう状況で異なる意見を認めるかを定め、たとえ意見が誤りでも、処罰されない」ことを保障する法律だ。彼が万里に語った遺言で、未完の事業の一つとして挙げたのが同法の制定だった。

習仲勲は毛沢東が主導した政治闘争で16年間、迫害を受けた経験を持つ。また晩年、胡耀邦や趙紫陽を擁護して排斥されるが、最後に出席した公式会議で異例の発言を求め、「異なる意見の者を“反対者”と決めつけてはいけない。“反動派”として打倒するのはもっといけない。異なる意見を保護し、異なる意見を重視し、研究しなければならない」と訴えた。


(習仲勲と習近平)

習近平はその父のDNAを受け継いでいる、というのが私の見方だ。これまでのところ否定的な出来事が多いが、昨今の発言の中にその片鱗を感じた。