中国の知識人がしばしば巴金の「講真話」(真実を語る)を座右の銘としていることはすでに述べた。苦難の歴史を経て、今なおそれが難しい世の中で生きている者たちの決意である。それは知識人にとって最低限の良心と言える。
では「良心」とは何か?
その解釈としてまず参照すべきは性善説に立つ『孟子』である。「告子 章句・上」には、人が本来備えている「仁義の心」として「良心」が挙げられている。木々の茂った美しい山が、乱伐によってはげ山となってしまった。山は本来美しかったはずだ。悪いのは斧やまさかりで木を切ってしまったことだ。人間が生まれながらにして持っている本性は清新な朝日のように善である。その後行いが精気を濁らせ、目を曇らせてしまう。孟子はそう言っている。
『孟子』「公孫紐 章句・上」には良心の四つのかたちが示される。人に同情し忍びないと思う惻隠の情、自分の悪を羞じる羞恥の心、謙遜の心、正しく善悪の判断をわきまえる是非の心。惻隠の情は仁の端緒、羞恥の心は義の端緒、謙遜の心は礼の端緒、是非の心は智の端緒、これを四端と呼ぶ。良心を芽生えさせるための手がかりだ。良心は天から生まれつき与えられているので、心を尽くせばおのずと萌芽する。邪魔をするのは、外界の事物に容易に翻弄される耳や目の感覚、金品や名誉、虚栄といった感覚的な欲望である。それを節制するのが、考える機能を持った「心の官」すなわち良心だとする。
生まれながらの状態を「良」とするのは人間に対する楽観的な見方だ。『孟子』が生来備わっている知恵を良知と呼ぶのと同様である。社会生活を送る中で様々な欲望に幻惑され、慣習に縛られ、真の心に曇りが生じる。無垢な正直さが失われ、ウソ偽りに流されていく。「講真話」は言うまでもなくあるべき良心に立ち返ることを唱えている。すでに社会の中に組み込まれ、組織に縛られた個人にとって、それは至難だ。だから「難しい!」と悲痛な叫びが上げるしかない。
無垢な人間の姿を理想とし、人間に対する楽天的な見方は、フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーにも通ずる。孤児、召使、犯罪者となり、迫害を受けて放浪を続け、栄華とどん底を経験したこの思索家がたどりついたのも、子どものような自然な心である。「教育とは子どもの進歩と人間の心の自然の歩みに従うべきだ」。ルソーは『エミール』でこう言っている。子どもは教師の道具ではなく自然の一部となる。自然の声として魂に宿るのが良心だ。同書でサヴォワ人副司祭はこう語る。
「良心は決して欺かない。それは人間の本当の案内者だ。良心は魂に対して、本能が肉体に対するのと同じ関係にある。良心に従うものは、自然に服従しているのであり、迷うことをおそれる必要はない」
ルソーは「神は私に、善を愛すために良心を、善を知るために理性を、善を選ぶために自由を与えた」といい、その良心に従い、「真理のために生命を捧げる」と誓った。子どもも善への愛と悪への憎しみは知っている。それは自分を愛することと同じように自然なことだ。子どもへの限りない哀惜は、5人の子どもを捨てた懺悔に裏打ちされた肺腑をえぐる絶唱でもあるのだろう。だが自己愛が拡大し、増殖し、他人と自分を比べ競争心や羨望、虚栄心が生まれると人は鎖につながれた奴隷となる。ではどうすればいいのか。
「人間の弱さはどこから生じるのか。その力と欲望との間に見られる不平等から生じる。私たちを弱いものにするのは、私たちの情念である。それを満足させるには、自然に私が与えている以上の力が必要となる。だから欲望を減らせばいい」
ルソーの言葉はそのまま『孟子』の中においても違和感はない。神の存在と不可分な西洋と、神を遠ざけ、人間と人生に対する飽くなき関心に支えられた中国の思索が、2000年の歳月を隔て、等しく良心=conscienceを探し当てたのは驚くべきことだ。いずれも利が幅を利かせ、真理がゆがめられていた社会から生まれた思索であることを思えば、「講真話」の精神は人類が歴史から学んだ今なお生きる教訓である。
ルソーはフランス革命を生み、日本の自由民権運動や辛亥革命にも影響を与えた。フランス革命が生んだ『人権宣言』は正しくは『人間と市民の権利宣言』であり、人間の中でも市民=中産階級を特別視する思想が含まれている。この点、ルソーの良心は貫徹されていない。自由民権運動も、辛亥革命が生んだ孫文の三民主義も民族の救済=愛国が先決とされ、個人は置き去りにされた。中国の共産党政権はその後、人民=無産階級という新たな概念を取り入れ、公民の伸張を妨げたままだ。
若干、脱線したのでこれは日を改めて考えることにする。「講真話」が、人間が本来持っている魂の声である良心の叫びであることを言いたかっただけである。
◇ ◇ ◇
本日、29日の胡耀邦生誕100周年記念講演会会場となる日大経済学部の教室を下見した。実に素晴らしい教室である。お骨折りを頂いた曽根康雄教授に感謝申し上げたい。
では「良心」とは何か?
その解釈としてまず参照すべきは性善説に立つ『孟子』である。「告子 章句・上」には、人が本来備えている「仁義の心」として「良心」が挙げられている。木々の茂った美しい山が、乱伐によってはげ山となってしまった。山は本来美しかったはずだ。悪いのは斧やまさかりで木を切ってしまったことだ。人間が生まれながらにして持っている本性は清新な朝日のように善である。その後行いが精気を濁らせ、目を曇らせてしまう。孟子はそう言っている。
『孟子』「公孫紐 章句・上」には良心の四つのかたちが示される。人に同情し忍びないと思う惻隠の情、自分の悪を羞じる羞恥の心、謙遜の心、正しく善悪の判断をわきまえる是非の心。惻隠の情は仁の端緒、羞恥の心は義の端緒、謙遜の心は礼の端緒、是非の心は智の端緒、これを四端と呼ぶ。良心を芽生えさせるための手がかりだ。良心は天から生まれつき与えられているので、心を尽くせばおのずと萌芽する。邪魔をするのは、外界の事物に容易に翻弄される耳や目の感覚、金品や名誉、虚栄といった感覚的な欲望である。それを節制するのが、考える機能を持った「心の官」すなわち良心だとする。
生まれながらの状態を「良」とするのは人間に対する楽観的な見方だ。『孟子』が生来備わっている知恵を良知と呼ぶのと同様である。社会生活を送る中で様々な欲望に幻惑され、慣習に縛られ、真の心に曇りが生じる。無垢な正直さが失われ、ウソ偽りに流されていく。「講真話」は言うまでもなくあるべき良心に立ち返ることを唱えている。すでに社会の中に組み込まれ、組織に縛られた個人にとって、それは至難だ。だから「難しい!」と悲痛な叫びが上げるしかない。
無垢な人間の姿を理想とし、人間に対する楽天的な見方は、フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーにも通ずる。孤児、召使、犯罪者となり、迫害を受けて放浪を続け、栄華とどん底を経験したこの思索家がたどりついたのも、子どものような自然な心である。「教育とは子どもの進歩と人間の心の自然の歩みに従うべきだ」。ルソーは『エミール』でこう言っている。子どもは教師の道具ではなく自然の一部となる。自然の声として魂に宿るのが良心だ。同書でサヴォワ人副司祭はこう語る。
「良心は決して欺かない。それは人間の本当の案内者だ。良心は魂に対して、本能が肉体に対するのと同じ関係にある。良心に従うものは、自然に服従しているのであり、迷うことをおそれる必要はない」
ルソーは「神は私に、善を愛すために良心を、善を知るために理性を、善を選ぶために自由を与えた」といい、その良心に従い、「真理のために生命を捧げる」と誓った。子どもも善への愛と悪への憎しみは知っている。それは自分を愛することと同じように自然なことだ。子どもへの限りない哀惜は、5人の子どもを捨てた懺悔に裏打ちされた肺腑をえぐる絶唱でもあるのだろう。だが自己愛が拡大し、増殖し、他人と自分を比べ競争心や羨望、虚栄心が生まれると人は鎖につながれた奴隷となる。ではどうすればいいのか。
「人間の弱さはどこから生じるのか。その力と欲望との間に見られる不平等から生じる。私たちを弱いものにするのは、私たちの情念である。それを満足させるには、自然に私が与えている以上の力が必要となる。だから欲望を減らせばいい」
ルソーの言葉はそのまま『孟子』の中においても違和感はない。神の存在と不可分な西洋と、神を遠ざけ、人間と人生に対する飽くなき関心に支えられた中国の思索が、2000年の歳月を隔て、等しく良心=conscienceを探し当てたのは驚くべきことだ。いずれも利が幅を利かせ、真理がゆがめられていた社会から生まれた思索であることを思えば、「講真話」の精神は人類が歴史から学んだ今なお生きる教訓である。
ルソーはフランス革命を生み、日本の自由民権運動や辛亥革命にも影響を与えた。フランス革命が生んだ『人権宣言』は正しくは『人間と市民の権利宣言』であり、人間の中でも市民=中産階級を特別視する思想が含まれている。この点、ルソーの良心は貫徹されていない。自由民権運動も、辛亥革命が生んだ孫文の三民主義も民族の救済=愛国が先決とされ、個人は置き去りにされた。中国の共産党政権はその後、人民=無産階級という新たな概念を取り入れ、公民の伸張を妨げたままだ。
若干、脱線したのでこれは日を改めて考えることにする。「講真話」が、人間が本来持っている魂の声である良心の叫びであることを言いたかっただけである。
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本日、29日の胡耀邦生誕100周年記念講演会会場となる日大経済学部の教室を下見した。実に素晴らしい教室である。お骨折りを頂いた曽根康雄教授に感謝申し上げたい。