行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論7】知識人の良心とは何か?・・・真実を語ること(完)

2015-11-12 18:59:51 | 独立記者論
中国の知識人がしばしば巴金の「講真話」(真実を語る)を座右の銘としていることはすでに述べた。苦難の歴史を経て、今なおそれが難しい世の中で生きている者たちの決意である。それは知識人にとって最低限の良心と言える。

では「良心」とは何か?

その解釈としてまず参照すべきは性善説に立つ『孟子』である。「告子 章句・上」には、人が本来備えている「仁義の心」として「良心」が挙げられている。木々の茂った美しい山が、乱伐によってはげ山となってしまった。山は本来美しかったはずだ。悪いのは斧やまさかりで木を切ってしまったことだ。人間が生まれながらにして持っている本性は清新な朝日のように善である。その後行いが精気を濁らせ、目を曇らせてしまう。孟子はそう言っている。

『孟子』「公孫紐 章句・上」には良心の四つのかたちが示される。人に同情し忍びないと思う惻隠の情、自分の悪を羞じる羞恥の心、謙遜の心、正しく善悪の判断をわきまえる是非の心。惻隠の情は仁の端緒、羞恥の心は義の端緒、謙遜の心は礼の端緒、是非の心は智の端緒、これを四端と呼ぶ。良心を芽生えさせるための手がかりだ。良心は天から生まれつき与えられているので、心を尽くせばおのずと萌芽する。邪魔をするのは、外界の事物に容易に翻弄される耳や目の感覚、金品や名誉、虚栄といった感覚的な欲望である。それを節制するのが、考える機能を持った「心の官」すなわち良心だとする。

生まれながらの状態を「良」とするのは人間に対する楽観的な見方だ。『孟子』が生来備わっている知恵を良知と呼ぶのと同様である。社会生活を送る中で様々な欲望に幻惑され、慣習に縛られ、真の心に曇りが生じる。無垢な正直さが失われ、ウソ偽りに流されていく。「講真話」は言うまでもなくあるべき良心に立ち返ることを唱えている。すでに社会の中に組み込まれ、組織に縛られた個人にとって、それは至難だ。だから「難しい!」と悲痛な叫びが上げるしかない。

無垢な人間の姿を理想とし、人間に対する楽天的な見方は、フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーにも通ずる。孤児、召使、犯罪者となり、迫害を受けて放浪を続け、栄華とどん底を経験したこの思索家がたどりついたのも、子どものような自然な心である。「教育とは子どもの進歩と人間の心の自然の歩みに従うべきだ」。ルソーは『エミール』でこう言っている。子どもは教師の道具ではなく自然の一部となる。自然の声として魂に宿るのが良心だ。同書でサヴォワ人副司祭はこう語る。

「良心は決して欺かない。それは人間の本当の案内者だ。良心は魂に対して、本能が肉体に対するのと同じ関係にある。良心に従うものは、自然に服従しているのであり、迷うことをおそれる必要はない」

ルソーは「神は私に、善を愛すために良心を、善を知るために理性を、善を選ぶために自由を与えた」といい、その良心に従い、「真理のために生命を捧げる」と誓った。子どもも善への愛と悪への憎しみは知っている。それは自分を愛することと同じように自然なことだ。子どもへの限りない哀惜は、5人の子どもを捨てた懺悔に裏打ちされた肺腑をえぐる絶唱でもあるのだろう。だが自己愛が拡大し、増殖し、他人と自分を比べ競争心や羨望、虚栄心が生まれると人は鎖につながれた奴隷となる。ではどうすればいいのか。

「人間の弱さはどこから生じるのか。その力と欲望との間に見られる不平等から生じる。私たちを弱いものにするのは、私たちの情念である。それを満足させるには、自然に私が与えている以上の力が必要となる。だから欲望を減らせばいい」

ルソーの言葉はそのまま『孟子』の中においても違和感はない。神の存在と不可分な西洋と、神を遠ざけ、人間と人生に対する飽くなき関心に支えられた中国の思索が、2000年の歳月を隔て、等しく良心=conscienceを探し当てたのは驚くべきことだ。いずれも利が幅を利かせ、真理がゆがめられていた社会から生まれた思索であることを思えば、「講真話」の精神は人類が歴史から学んだ今なお生きる教訓である。

ルソーはフランス革命を生み、日本の自由民権運動や辛亥革命にも影響を与えた。フランス革命が生んだ『人権宣言』は正しくは『人間と市民の権利宣言』であり、人間の中でも市民=中産階級を特別視する思想が含まれている。この点、ルソーの良心は貫徹されていない。自由民権運動も、辛亥革命が生んだ孫文の三民主義も民族の救済=愛国が先決とされ、個人は置き去りにされた。中国の共産党政権はその後、人民=無産階級という新たな概念を取り入れ、公民の伸張を妨げたままだ。

若干、脱線したのでこれは日を改めて考えることにする。「講真話」が、人間が本来持っている魂の声である良心の叫びであることを言いたかっただけである。

 ◇ ◇ ◇

本日、29日の胡耀邦生誕100周年記念講演会会場となる日大経済学部の教室を下見した。実に素晴らしい教室である。お骨折りを頂いた曽根康雄教授に感謝申し上げたい。

【独立記者論6】知識人の良心とは何か?・・・真実を語ること(まだ続く)

2015-11-11 09:50:57 | 独立記者論
『孟子』とルソーの良心論に入る前に、もう一つ、真実を語ることの難しさに触れなくてはいけない。肝心な人物を忘れていた。魯迅である。まずは『魯迅全集2』(人民文学出版社)に収められている短編『立論』を以下に全訳する。


私は夢の中で、小学校の授業で作文を書こうとして、先生に立論の方法を尋ねた。
「難しい!」。先生は眼鏡をずらして射るように私を見つめて言った。「君にひとつお話をしよう--」

ある家に男の子が生まれ、一族が大喜びした。満一か月を迎えたお祝いをした際、家の者が赤ん坊を抱いて来客に見せた--当然のことながらめでたいことをみんなに祝ってもらおうと思ったのだろう。
ある客は『この子はやがて金持ちになりますよ』と言ったため、家人から感謝された。
ある客は『この子はやがて仕官しますよ』と言ったため、お返しにお世辞を受けた。
ある客は『この子はやがて死ぬんだ』と言ったため、家じゅうの者から袋だたきに遭った。
やがて死ぬと言うのは当たり前であって、富貴になると言うのはウソかも知れない。だがウソを言った者はよい目を見て、当たり前のことを言った者は殴られる。君は・・・。

そう問われた私は答えた。
「私はウソもつきたくないし、殴られるのも嫌です。それならば先生、どう言えばいいのでしょうか?」
すると先生は答えた。
「それなら、君はこう言うしかない。『あらあら、この子は!ほら、なんて・・・。いやはや!ハハハ!へへ!ヘッ、ヘッヘッヘッ』」


中国ではしばしば、本音を言うことの是非を論じる場合に引用される文章だ。TPOをわきまえて話すべきだなどと正論を並べるのは筋違いだ。魯迅はマナー講座をしているわけではなく、真実を語ることについて、教師に「難しい!」と言わせたのだ。教師はすなわち魯迅自身である。

人は最初から大きなウソをつくわけではない。世間のしがらみや人情、慣習にがんじがらめにされ、身動きの取れない社会で生きている。個人はその中で賢く振舞うためのの知恵を身につける。巧みにウソをつく技を磨いていく。ありもしない全体意思のために個人の意思はかき消され、気が付くと見の回りはウソで塗り固められ、それをウソだと感じることもないほど慣れてしまっている。「慣習」とか「空気」と呼ばれる抗しがたい力だ。個人は社会に従属し、個性は埋没し、独立が失われる。社会がどこに向かおうとしているのか。それを真に問おうとすれば、「この子はやがて死ぬんだ」と本当のことを言った客のように袋叩きに遭うことになる。

この文章が書かれたのは魯迅が北京に住んでいた1925年7月8日だ。魯迅らが中心となって民主と科学を訴えた五・四運動(新文化運動)からは6年が過ぎている。孫文がこの年の3月に死去し、5月には上海の南京路で五・三〇事件が起きた。日系など外国資本の搾取に抗議する中国人労働者のデモが英国の警察から発砲を受け、死傷者を出した事件だ。国内の混乱に乗じて列強の影が濃くなり、屈辱と繁栄が交錯していた時代である。多くの人が目の前の不正義を見て見ぬふりで通り過ぎていた。当たり前のことを言うことが「難しい!」社会だったのだ。

魯迅はまた1936年、日本の雑誌『改造』(4月号)に求められ、『私は人をだましたい』と題する評論文を書いた。すでに満州事変が勃発し、当時、魯迅が移り住んでいた上海にも日本軍の進駐が始まっていた。検閲下の日本の雑誌に、侵略を受けている中国人に何を書けというのか。原稿用紙8枚ほどの短文に計4か所伏字がされた。

魯迅は同文のなかで、水害の義援金を募る少女に1円を渡したことを書いた。難を逃れようと安全な場所を見つけた人々は、治安が悪化するといって機関銃でその場を追われた。おそらくみな死んでしまっただろう。1円は水利局の役人の1日分のたばこ代にもならない。だが魯迅は、天真爛漫な少女が失望する顔を見たくないがために、1円で彼女の悦びを買った、と告白する。そして次のように、その文章を書いている行為そのものを問う。

何か書けと言われたから礼儀上「はい」と答えた。「はい」というたから書いて失望させないようにしなければならないようになったが、つまる処やはり人だましの文章である。こんなものを書くにも大変良い気持でもない。いいたいことは随分あるけれども「日支親善」のもっと進んだ日を待たなければならない。(中略)自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解(りょうかい)するには、筆、口、あるいは宗教家のいわゆる涙で目を清すというような便利な方法が出来ればむろん大いに良いことだが、しかし恐らくかかることは世の中に少ないだろう。哀しいことである。出鱈目のものを書きながら熱心な読者に対してすまなくも思った。(岩波文庫『魯迅評論集』)

平和な現代において、知識人は同じ覚悟を持ち得るだろうか。自分を偽り、人をだますことを生業としている者はあまりにも多い。もしかすると本人はだましているという自覚さえないほど感覚がマヒしている。私も例外ではなかったことを認める。血を吐きながら「講真話」(真実を話す)ことと向き合ってきた先人の歩みをいま少し、振り返るべきだ。良心は本来、人に備わっているものである。

魯迅は同文をこう締めくくっている。

「終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。」

翌年、北京で盧溝橋事件が起き、日中は全面戦争へと突入する。「血の予感」は的中した。多くの人がだまし、だまされた末路である。すべては小さなウソから始まったとすれば、教師が漏らした「難しい!」は、途方もない重みをもって我々にのしかかっている。





【独立記者論5】知識人の良心とは何か?・・・真実を語ること(続く)

2015-11-10 17:22:26 | 独立記者論
今年の4月18~20日まで、大学時代の同級生5人が上海旅行に訪れた。当時、現地に駐在していた私は全行程のプランを練り、同行したが、辞職につながる特ダネ原稿のことは頭から離れることはなかった。原稿がボツ扱いになり、辞表を出すのは23日である。思い出深いのは滞在中の19日、旧フランス租界の武康路にある巴金故居を訪れた際のことだ。書斎に巴金が書き残した「講真話」(真実を話す)の言葉を見つけた。

巴金(は・きん)(1904~2005)は中国の現代文学を代表する小説家として中国作家協会副主席、主席を務めた、井上靖や中島健蔵ら日本の作家とも親交が深く、日本に滞在し日本語を学んだこともある。故居の書斎には日本語の辞書も並んでいた。なぜ「講真話」なのか。それは文化大革命の悲惨な歴史を振り返らなければならない。

文化大革命期は、巴金を含め多くの作家ら知識人がプロレタリア階級の敵として迫害を受けた。体を縛られて公衆の前に引きずりだされ、畜生扱いの罵詈雑言を浴びせられ、殴られ蹴られることもしばしばだった。巴金とともに中国文壇を率い、北京庶民の生活を描いた老舎は紅衛兵から暴行を受け、北京郊外の太平湖で水死した。入水自殺したとされる。

巴金は文革中、迫害に屈して「罪」を認め、反省文を書き、文革を主導した四人組に迎合した。毛沢東が死に文革が終結した後、巴金は自分の行状を振り返り、分析し、自己批判する散文を書き続けた。周囲から見れば痛ましいほどの自分との対決だった。その末にたどり着いた結論が「講真話」である。巴金は老舎が亡くなってから1年後、友の死を知り、その翌年に行われた追悼の納骨式に参加した。

私は2013年、拙著「『反日』中国の真実」(講談社現代新書)の中で、以下の通り、巴金が老舎を追悼した一文を引用したことがある。

(巴金は追悼文の中で)老舎が戯曲『茶館』の中で登場人物に言わせた「私は自分たちの国を愛しているが、だれが私を愛してくれているというのか?」を何度も引用しながら、「彼の口から叫び出された中国知識人の心の声を、どうかみんな、しっかり聞いてほしい」と書いた。文革博物館の建設を訴え続けた巴金の叫びは、まだ実現の見込みさえ立っていない。

「講真話」には、巴金自身の経験に加え、犠牲となった多くの仲間の魂も込められている。巴金は1980年、東京で開かれた国際ペンクラブ大会で「文学生活50年」と題するスピーチを行った。演説が嫌いな巴金は、次代に語り継ぐ責任から世界の作家に向けて語りかけた。

「今日、私が10年間に行ったことを振り返れば、実にばかばかしく、実に愚かだ。だが当時私はそう思ったわけではない。しばしば思うことがある。もし過ぎ去った10年の苦難な生活に一つの総括をし、真剣に自分を分析し、是非をはっきりと見分けることをしなければ、私はまたもう一人の自分になって、残忍で野蛮で愚かで荒唐無稽なことを荘厳で正確なものだとみなすようになってしまうかも知れない。この精神上の欠損からは逃れることができないのだ」

巴金の言葉は、ある国のある時期に向けられたものではなく、人間社会が陥る落とし穴を照らし出そうとしたものに違いない。スピーチの最後では「私は今、はっきりと言えることがある」として、「正直で、良心のある作家は決して目先のことにとらわれた臆病な人間ではない」と語った。巴金が真実のすべてを語り得たかどうか、私に判断するすべはない。彼の偉大さは、「講真話」を公言し、そこに自分を追い込んだことにある。文革後、多くの知識人が沈黙し、自分を偽った。社会を憎み、復讐の情にとらわれた者も多い。感傷的になり、自分の殻に閉じこもった者もいる。だからこそ「講真話」と言い得た良心と勇気には感嘆せずにはいられない。

巴金が言い残した「講真話」も「良心」も、中国の知識人に、すべてではないが、しっかりと伝えられている。彼らと話しているとしばしば、座右の銘として「講真話」を挙げる。それだけに真実を話すことは難しい。言論統制をしている国の体制もあるが、そもそも人間社会が共通に抱えている問題、そして人間の弱さなのではないか。

そして私は自分の身、自分が身を置く社会を振り返る。独立した精神、思考をもって真実を語っているか。日本国憲法には「思想及び良心の自由」と書いてある。その「良心」について、果たして真剣に考えたことがあったか。「良心」は良いか悪いかの心ではない。良し悪しを見分ける精神の働きを言っている。良し悪しを分けるものは何か。それはすなわち「講真話」ではないのか。もちろん憲法は沈黙することも表現の自由に含めているが、時代と歴史に責任を感じた者、責任を負うべき者は、声を上げる責任をも負うのではないか。自由を隠れ蓑にして沈黙を守るのは、精神的怠惰であり、卑怯ではないのか。良心はどう叫んでいるのか。良心の叫びに正直に従うことが、「講真話」ではないのか。

「良心」については『孟子』が述べている。ルソーも語っている。無垢な人間に対する楽天的な性善説がそこにある。この続きは改めて語ることにする。

【独立記者論4】「多数者の暴虐」は霊魂そのものを奴隷化する---J.S.ミル『自由論』

2015-11-08 22:52:40 | 独立記者論
英国の哲学者であり経済学者であるジョン・スチュアート・ミルが『自由論』(ON LIBERTY)を著したのは1859年だ。英国では19世紀、産業革命によって台頭した中産階級が経済的、政治的発言権を求め、参政権の拡大や自由貿易の推進など自由主義的改革が進められた。一方、中国はアヘン戦争(1940~42)やアロー戦争(1956~61)によって英仏の侵略を受け、「眠れる獅子」から半植民地国家へと転落し始めた。

手元に塩尻公明・木村健康訳の岩波文庫版『自由論』(1971)がある。同著の中で、「世界最大の最も有力な国民」であった中国について、完璧な「慣習の専制」によって数千年間も停滞し、「歴史をも持っていない」とまで言い切っている。もちろん中国=東洋であり、明治維新前夜の日本もその柵封体制の中に含まれている。東洋はまだ「自由」「人権」の言葉さえ持っていなかったが、だからといって思想や歴史が存在しなかったわけではない。外に閉じていたのであって、ミルの不明を責めるのはフェアではない。歴史的事実として、西洋は東洋をそう認識していたのである。

西洋には新聞を中心に世論が生まれていた。「多数者の暴虐」である世論が、法律の刑罰以外の方法によって、「霊魂そのものを奴隷化」している害悪が語られた。異なる意見を「異端」「精神異常」として迫害する見えない力だ。ミルは、個性の表現に不寛容な世論を「人間性の諸部分のうち特に抜きん出て、その人物の輪郭を平凡な人々とは際立って異なったものとするようなあらゆる部分を、中国の婦人の足のように緊縛して不具にしてしまう」と指弾し、「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々に他ならない」と述べた。現在の皮相的な新聞報道をえぐり取る鋭利な問題意識である。

また、宗教の道徳的規範と分かちがたく結びついている慣習が、「人類が互に課している行為の規則については、いかなる疑念をも抱かせないようにする効力」をもって人々の思想を支配し、個性の発展を阻害している悪弊も指摘された。思想の自由はとりもなおさず個人の独立と不可分である。自由があって初めて独立の空間が生まれ、独創性が自由の眼を開く役割を担うのである。

奴隷化した精神とは例えばこういうことである。「信仰をはっきりと自覚したり、自己の体験によって吟味したりする手数を省略し、ただ信頼してそれを受け入れるかのような状態となり、ついには、信仰は、人間の内的生活とは殆ど全く没交渉となる」、あるいは「何が自分の地位にふさわしいことであるか、自分と同様の身分、収入をもっている人々の普通していることはなにか」を自問することが慣習化し、「精神そのものが軛(くびき)につながれている」「人間的諸能力は委縮し飢え衰える」状態だ。

忌避すべきは、国民を鋳型に流し込め、精神に対してばかりでなく肉体に対しても専制を敷く国家教育であり、有能な人材によって成り立つ官僚集団だ。ミルはこう語っている。

「支配者であるある官僚たちが彼らの属している組織と規律との奴隷であることは、被支配者たちが支配者の奴隷であるのと異なるところはない。シナの官人が専制政治の道具であり単なる被造物であることは、最も下賤な農民がそうであるのと少しも異なるところはない」

「(飼いならされた)国民は、万事を政府がやってくれると期待する習慣をもち、また少なくとも、政府の許可ばかりか指導をも求めた上でなければ何事も行わない習慣をもっているので、彼らは、自然に、彼らの上に降りかかってくる災害をすべて政府の責任とするようになり、そして、その災害が忍耐の限界を超える場合には、政府に反抗して立ちあがり、革命と呼ばれるものを起こす」

ではいかにあるべきか。今から見れば決して難解なことを言っているわけではない。だが容易に成し遂げられないルールを言い当てている。「仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」との原則であり、一人の意見の信頼性を強固にするのは、反対意見をおいてほかにはないという真理である。

特に独立した思考は重要だ。「相当の研究と準備をもって自分自身でものを考える人物が、たとえ誤謬に陥ろうとも、その誤謬は、自己の意見がものを考えることを自らに許さないために正しい意見を抱いているに過ぎない人々の正しい意見よりも、真理に対してより多くを貢献する」。独立した精神をもって到達した一つの意見は、人間の尊い営みであって、人類共有の価値であると言っている。慣習は人から日々の選択を奪う。人の知覚や判断、道徳が選択の苦悩から生まれることを思えば、選択なきところに思想も真理も進歩もない。

個人の思考と同時に、公共的活動の実践も重要だ。政府の関与をできるだけ少なくし、民衆の自発的な生産や慈善活動を拡大することで、自由な国民の政治教育を施すことができる。つまり「公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与える」ことにつながる。そして、この能力と習慣が育たなければ「自由な憲法は運用されることも維持されることもできない」と結論付ける。現在においても、地方自治からNPO、ボランティア活動を含め、社会活動に参加することが法治を実のあるものにする。独立した思考、それを実践する場がなければ、憲法も空文化するしかない。時代の制約を受けながらなお、時代を超えた価値を伝えていることが偉大な思想の条件である。それを十分実感できる。

「国家の価値は、長い目で見れば結局はそれを構成している個人の価値によって決まる」とミルは最後に語っているが、決して狭隘な国家利益を論じているわけではなく、独立した個人の価値を重んじる表現だとみるべきだろう。個性が価値を生み、生命が充実する。彼は「諸々の構成単位により多くの生命が宿るとき、それらの単位から成り立っている集合体もまたより多くの生命をもつ」と語っている。


中台トップ会談と『義勇軍行進曲』80周年で感じた複雑な歴史

2015-11-08 10:50:06 | 日記
昨日の7日は中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統による初の中台トップ会談がシンガポールで行われた。アジア外交で失点続きの中国にとって、台湾との蜜月をアピールすることは極めて大きな意味を持つ。アジアでの対米優位を確保するためにも、「中華民族の偉大な復興」を実現するためにも中台統一は喫緊の課題である。今後、海上シルクロード経済圏構想において台湾に協力を求め、経済的に取り込む動きが活発化するだろう。

中台トップ会談に合わせたわけではないが、都内の日中友好会館ではこの日、『義勇軍進行曲』(日本語では『義勇軍行進曲』)の80周年記念コンサートが行われ、私は知り合いに誘われて出かけた。主として日本で活躍する中国人の歌手、揚琴・二胡・笙の奏者らが日中の民謡や民族音楽を披露した。ソプラノの『里の秋』が心にしみた。終戦直後の日本ではやった、戦地から引き上げる父親を待つ家族の心境を歌ったものだ。

中華民族の奮起を促す同曲は抗日戦争期、共産党軍を中心に広まり、1949年の中華人民共和国建国後、中国の国歌となった。私が連想したのは昨年、台湾の軍人出身で元行政院長の郝柏村氏が盧溝橋事件77周年で訪中した際、中国テレビの取材で同曲を口ずさみ、台湾で反発を招いた事件だった。郝氏は「抗戦の歌で、当時は老若男女みなが歌えた」と答えたが、国共内戦、対立の歴史を背負い、以前、戒厳令下の台湾では禁じられた曲だけに、そう単純に割り切れないのも事実だ。

抗日戦争史は中台関係を改善する突破口にもなり得るし、障害物にもなり得る微妙な要素である。『義勇軍進行曲』に対する反応がそれを象徴している。と、こんなことを考えた。そして同曲と日本との縁に思いをはせた。

同曲は日本で学んだ2人の共産党員であり芸術家の田漢氏と聶耳氏がそれぞれ作詞、作曲した。著名劇作家の田漢が脚本を書き、抗日戦争に身を投ずる青年を描いた映画『風雲児女』の主題歌として生まれ、広範に広まった。だが田漢は文化大革命期、政治的迫害を受けて獄中死し、国家の曲は演奏できても彼の作った歌詞は歌うことを禁じられた。1978年から4年間は、共産党と毛沢東を礼賛する歌詞に書き換えられた。彼の死は封印され、遺言も遺体も残されなかった。翌年に開かれた葬儀では、「骨壺」に同曲のレコードや愛用のメガネ、万年筆が納められたという悲惨な運命だった。

聶耳も作詞の直後、神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で遊泳中に死亡し、不運な最期を迎えた。フランスへの留学を夢見た天才音楽家だった。自分の曲が国歌になるのを知らずに23歳の人生を終えた。同海岸には聶耳の記念碑が建てられ、こうした縁で、藤沢市と彼の故郷・雲南省昆明は友好都市の関係を結んでいる。

80周年記念コンサートは、田漢氏の姪で日本に住む音楽家の田偉氏らが呼びかけた。彼女は阪神・淡路大震災後、日中間の文化芸術交流活動に力を注いでいる。江蘇省無錫の桜まつりにも参加し、私もそこでお会いしたことがある。私はこの日、同じく無錫で30年近くにわたり桜の植樹を続けているボランティアの招きでお邪魔した。会場には藤沢市の関係者もいた。

これほど多くの物語を背負った歌も珍しいのではないか。はたから見れば、抗日戦争の歌を今日、日中の民間人が記念するのは奇異に見えるかも知れないが、それはステレオタイプの机上論であろう。特定の時代の特定の人々の意思とはかかわりなく、歴史は独自の歩みをし、記憶を刻んでいく。こうした血の通った歴史にこそ、偽りのない正直な真実が含まれている。伝えるべきはこうした歴史だと思う。観念のみで物事を考えてはいけない。机上でいくら深読みをしても実際が伴わなkれば、小さな点をどこまでも掘り続けているだけで、面の広がりを持った見方は生まれない。


※参考 中華人民共和国国家(日本語訳)
起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!
我らが血肉で築こう新たな長城を!
中華民族に最大の危機せまる
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ
起て! 起て! 起て!
我々すべてが心を一つに 敵の砲火をついて進め!
敵の砲火をついて進め!
進め! 進め! 進め!