英国の哲学者であり経済学者であるジョン・スチュアート・ミルが『自由論』(ON LIBERTY)を著したのは1859年だ。英国では19世紀、産業革命によって台頭した中産階級が経済的、政治的発言権を求め、参政権の拡大や自由貿易の推進など自由主義的改革が進められた。一方、中国はアヘン戦争(1940~42)やアロー戦争(1956~61)によって英仏の侵略を受け、「眠れる獅子」から半植民地国家へと転落し始めた。
手元に塩尻公明・木村健康訳の岩波文庫版『自由論』(1971)がある。同著の中で、「世界最大の最も有力な国民」であった中国について、完璧な「慣習の専制」によって数千年間も停滞し、「歴史をも持っていない」とまで言い切っている。もちろん中国=東洋であり、明治維新前夜の日本もその柵封体制の中に含まれている。東洋はまだ「自由」「人権」の言葉さえ持っていなかったが、だからといって思想や歴史が存在しなかったわけではない。外に閉じていたのであって、ミルの不明を責めるのはフェアではない。歴史的事実として、西洋は東洋をそう認識していたのである。
西洋には新聞を中心に世論が生まれていた。「多数者の暴虐」である世論が、法律の刑罰以外の方法によって、「霊魂そのものを奴隷化」している害悪が語られた。異なる意見を「異端」「精神異常」として迫害する見えない力だ。ミルは、個性の表現に不寛容な世論を「人間性の諸部分のうち特に抜きん出て、その人物の輪郭を平凡な人々とは際立って異なったものとするようなあらゆる部分を、中国の婦人の足のように緊縛して不具にしてしまう」と指弾し、「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々に他ならない」と述べた。現在の皮相的な新聞報道をえぐり取る鋭利な問題意識である。
また、宗教の道徳的規範と分かちがたく結びついている慣習が、「人類が互に課している行為の規則については、いかなる疑念をも抱かせないようにする効力」をもって人々の思想を支配し、個性の発展を阻害している悪弊も指摘された。思想の自由はとりもなおさず個人の独立と不可分である。自由があって初めて独立の空間が生まれ、独創性が自由の眼を開く役割を担うのである。
奴隷化した精神とは例えばこういうことである。「信仰をはっきりと自覚したり、自己の体験によって吟味したりする手数を省略し、ただ信頼してそれを受け入れるかのような状態となり、ついには、信仰は、人間の内的生活とは殆ど全く没交渉となる」、あるいは「何が自分の地位にふさわしいことであるか、自分と同様の身分、収入をもっている人々の普通していることはなにか」を自問することが慣習化し、「精神そのものが軛(くびき)につながれている」「人間的諸能力は委縮し飢え衰える」状態だ。
忌避すべきは、国民を鋳型に流し込め、精神に対してばかりでなく肉体に対しても専制を敷く国家教育であり、有能な人材によって成り立つ官僚集団だ。ミルはこう語っている。
「支配者であるある官僚たちが彼らの属している組織と規律との奴隷であることは、被支配者たちが支配者の奴隷であるのと異なるところはない。シナの官人が専制政治の道具であり単なる被造物であることは、最も下賤な農民がそうであるのと少しも異なるところはない」
「(飼いならされた)国民は、万事を政府がやってくれると期待する習慣をもち、また少なくとも、政府の許可ばかりか指導をも求めた上でなければ何事も行わない習慣をもっているので、彼らは、自然に、彼らの上に降りかかってくる災害をすべて政府の責任とするようになり、そして、その災害が忍耐の限界を超える場合には、政府に反抗して立ちあがり、革命と呼ばれるものを起こす」
ではいかにあるべきか。今から見れば決して難解なことを言っているわけではない。だが容易に成し遂げられないルールを言い当てている。「仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」との原則であり、一人の意見の信頼性を強固にするのは、反対意見をおいてほかにはないという真理である。
特に独立した思考は重要だ。「相当の研究と準備をもって自分自身でものを考える人物が、たとえ誤謬に陥ろうとも、その誤謬は、自己の意見がものを考えることを自らに許さないために正しい意見を抱いているに過ぎない人々の正しい意見よりも、真理に対してより多くを貢献する」。独立した精神をもって到達した一つの意見は、人間の尊い営みであって、人類共有の価値であると言っている。慣習は人から日々の選択を奪う。人の知覚や判断、道徳が選択の苦悩から生まれることを思えば、選択なきところに思想も真理も進歩もない。
個人の思考と同時に、公共的活動の実践も重要だ。政府の関与をできるだけ少なくし、民衆の自発的な生産や慈善活動を拡大することで、自由な国民の政治教育を施すことができる。つまり「公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与える」ことにつながる。そして、この能力と習慣が育たなければ「自由な憲法は運用されることも維持されることもできない」と結論付ける。現在においても、地方自治からNPO、ボランティア活動を含め、社会活動に参加することが法治を実のあるものにする。独立した思考、それを実践する場がなければ、憲法も空文化するしかない。時代の制約を受けながらなお、時代を超えた価値を伝えていることが偉大な思想の条件である。それを十分実感できる。
「国家の価値は、長い目で見れば結局はそれを構成している個人の価値によって決まる」とミルは最後に語っているが、決して狭隘な国家利益を論じているわけではなく、独立した個人の価値を重んじる表現だとみるべきだろう。個性が価値を生み、生命が充実する。彼は「諸々の構成単位により多くの生命が宿るとき、それらの単位から成り立っている集合体もまたより多くの生命をもつ」と語っている。
手元に塩尻公明・木村健康訳の岩波文庫版『自由論』(1971)がある。同著の中で、「世界最大の最も有力な国民」であった中国について、完璧な「慣習の専制」によって数千年間も停滞し、「歴史をも持っていない」とまで言い切っている。もちろん中国=東洋であり、明治維新前夜の日本もその柵封体制の中に含まれている。東洋はまだ「自由」「人権」の言葉さえ持っていなかったが、だからといって思想や歴史が存在しなかったわけではない。外に閉じていたのであって、ミルの不明を責めるのはフェアではない。歴史的事実として、西洋は東洋をそう認識していたのである。
西洋には新聞を中心に世論が生まれていた。「多数者の暴虐」である世論が、法律の刑罰以外の方法によって、「霊魂そのものを奴隷化」している害悪が語られた。異なる意見を「異端」「精神異常」として迫害する見えない力だ。ミルは、個性の表現に不寛容な世論を「人間性の諸部分のうち特に抜きん出て、その人物の輪郭を平凡な人々とは際立って異なったものとするようなあらゆる部分を、中国の婦人の足のように緊縛して不具にしてしまう」と指弾し、「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々に他ならない」と述べた。現在の皮相的な新聞報道をえぐり取る鋭利な問題意識である。
また、宗教の道徳的規範と分かちがたく結びついている慣習が、「人類が互に課している行為の規則については、いかなる疑念をも抱かせないようにする効力」をもって人々の思想を支配し、個性の発展を阻害している悪弊も指摘された。思想の自由はとりもなおさず個人の独立と不可分である。自由があって初めて独立の空間が生まれ、独創性が自由の眼を開く役割を担うのである。
奴隷化した精神とは例えばこういうことである。「信仰をはっきりと自覚したり、自己の体験によって吟味したりする手数を省略し、ただ信頼してそれを受け入れるかのような状態となり、ついには、信仰は、人間の内的生活とは殆ど全く没交渉となる」、あるいは「何が自分の地位にふさわしいことであるか、自分と同様の身分、収入をもっている人々の普通していることはなにか」を自問することが慣習化し、「精神そのものが軛(くびき)につながれている」「人間的諸能力は委縮し飢え衰える」状態だ。
忌避すべきは、国民を鋳型に流し込め、精神に対してばかりでなく肉体に対しても専制を敷く国家教育であり、有能な人材によって成り立つ官僚集団だ。ミルはこう語っている。
「支配者であるある官僚たちが彼らの属している組織と規律との奴隷であることは、被支配者たちが支配者の奴隷であるのと異なるところはない。シナの官人が専制政治の道具であり単なる被造物であることは、最も下賤な農民がそうであるのと少しも異なるところはない」
「(飼いならされた)国民は、万事を政府がやってくれると期待する習慣をもち、また少なくとも、政府の許可ばかりか指導をも求めた上でなければ何事も行わない習慣をもっているので、彼らは、自然に、彼らの上に降りかかってくる災害をすべて政府の責任とするようになり、そして、その災害が忍耐の限界を超える場合には、政府に反抗して立ちあがり、革命と呼ばれるものを起こす」
ではいかにあるべきか。今から見れば決して難解なことを言っているわけではない。だが容易に成し遂げられないルールを言い当てている。「仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」との原則であり、一人の意見の信頼性を強固にするのは、反対意見をおいてほかにはないという真理である。
特に独立した思考は重要だ。「相当の研究と準備をもって自分自身でものを考える人物が、たとえ誤謬に陥ろうとも、その誤謬は、自己の意見がものを考えることを自らに許さないために正しい意見を抱いているに過ぎない人々の正しい意見よりも、真理に対してより多くを貢献する」。独立した精神をもって到達した一つの意見は、人間の尊い営みであって、人類共有の価値であると言っている。慣習は人から日々の選択を奪う。人の知覚や判断、道徳が選択の苦悩から生まれることを思えば、選択なきところに思想も真理も進歩もない。
個人の思考と同時に、公共的活動の実践も重要だ。政府の関与をできるだけ少なくし、民衆の自発的な生産や慈善活動を拡大することで、自由な国民の政治教育を施すことができる。つまり「公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与える」ことにつながる。そして、この能力と習慣が育たなければ「自由な憲法は運用されることも維持されることもできない」と結論付ける。現在においても、地方自治からNPO、ボランティア活動を含め、社会活動に参加することが法治を実のあるものにする。独立した思考、それを実践する場がなければ、憲法も空文化するしかない。時代の制約を受けながらなお、時代を超えた価値を伝えていることが偉大な思想の条件である。それを十分実感できる。
「国家の価値は、長い目で見れば結局はそれを構成している個人の価値によって決まる」とミルは最後に語っているが、決して狭隘な国家利益を論じているわけではなく、独立した個人の価値を重んじる表現だとみるべきだろう。個性が価値を生み、生命が充実する。彼は「諸々の構成単位により多くの生命が宿るとき、それらの単位から成り立っている集合体もまたより多くの生命をもつ」と語っている。