昨日27日の『人民日報』7面理論面に論評「”妄議”の錯誤と危害を明確に認識する」が掲載された。筆者は済南大学政治・公共管理学部講師の韓慧氏。目立たない一文だが、現在、中国共産党が抱えた問題を考えるうえで見逃すことができない内容を含んでいる。
「妄議」とは一般の中国人にも聞きなれない言葉だが、だいたいの意味は推測ができる。「妄」はよくないこと、よこしまなこと。「議」は話し合うこと。「妄議」とはよくないたくらみを議論するといった意味だ。問題が生じたのは2015年10月、党中央が『中国共産党規律処分条例』を改訂し、第46条で「ニュースサイトやラジオ、テレビ、新聞雑誌、書籍、講座、フォーラム、報告会、座談会などの方法で以下の行為を行った者」に情状によって警告から党籍剥奪までの処分を定めた。その行為の一つとして挙げられたのが「中央の大きな政治方針を妄議し、党の集中統一を破壊した」行為だった。周永康や薄熙来による政権転覆クーデターや暗殺計画などが背景にあると思われる。
習近平が一年前の2014年10月23日、第18期第4回党中央委員会第2回全体会議で、党内の腐敗現象について「ある者は党の政治規律や政治規矩を無視している」として、その事例として分派活動や猟官活動のほか、「上層部をものともせず、中央の意向を妄議する」ことを挙げていることが改めて注目され、「妄議中央」が「中央の言うことを聞かない」「中央を批判する」などと拡大解釈されていった。
前任者の摘発で河北省党委書記に就任したばかりの趙克志が8月、同省唐山を視察した際、「党員幹部は政治上、絶対に自由主義を犯してはならず、中央に対して妄議してはならず、中央と省委の精神と悖る言論を広めてはならない」と忠誠を表明したのに続き、11月に入ると新疆ウイグル自治区の元『新疆日報』編集長、趙新尉が「政治規律と政治規矩に著しく違反し、党中央と自治区党委の重要な活動方針、政策、決定に対し妄議した」として摘発された。中央に対する「妄議」に党員はますます震え上がった。「党中央に盾を着いたら身が危ない」との受け止め方が広がったのも無理はない。
こうした空気の中、『人民日報』の論評は、言論の封殺や言論の自由に対する弾圧、党内民主を妨げるものだとする見方に対し。「明らかな偏見や見落としがあり、誤りである」と指摘し、党内の不安を鎮めようとする意図が感じられた。「妄議」は、「事実を捻じ曲げ、ルールを破った議論」を指し、党内の団結を乱し、中央の権威を傷つけるものだという。「我々の党は一貫して党内民主や批判と自己批判の優れた党の作風を重んじてきた」と弁護し、党内民主は個人主義や自由主義の民主とは異なり、党規約からかけ離れ、ましてや違反することは許されないとクギを刺した。要するに、憲法が保障する言論の自由も、党の権威を汚すようなことがあってはならないという原則論の中において有効であり、その範囲内を超えた場合に妄議だと断罪されるということなのである。
法を超えた議論である以上、線引きの基準は人の判断に委ねられた恣意的なものとならざるを得ず、多くの幹部がわずかなリスクでも避けるため、より小心翼々となるのは必然である。地方大学の一学者が解説をしたところで説得力はない。耳慣れない言葉を持ち出した習近平自身が、定義をきちんと定めない限り、下の者たちは安心して自由な発言をすることができない。「妄議中央」を、「お上にたてをついたらわが身が危ない」とする認識はそう簡単に打ち消されるものではない。強力な権力を握った習近平政権は一方で、羊の群れのように従う官僚群を生み出してしまった。
新たな改革に挑む気力や積極性は大きくそがれている。1980年代の改革が、現場の創意工夫や進取の精神によって推進されたことを思うとき、「妄議」がもたらした圧力がいかにして生まれ、どう影響を及ぼしていることを深刻に受け止めない限り、次の一歩はないように思う。、
「妄議」とは一般の中国人にも聞きなれない言葉だが、だいたいの意味は推測ができる。「妄」はよくないこと、よこしまなこと。「議」は話し合うこと。「妄議」とはよくないたくらみを議論するといった意味だ。問題が生じたのは2015年10月、党中央が『中国共産党規律処分条例』を改訂し、第46条で「ニュースサイトやラジオ、テレビ、新聞雑誌、書籍、講座、フォーラム、報告会、座談会などの方法で以下の行為を行った者」に情状によって警告から党籍剥奪までの処分を定めた。その行為の一つとして挙げられたのが「中央の大きな政治方針を妄議し、党の集中統一を破壊した」行為だった。周永康や薄熙来による政権転覆クーデターや暗殺計画などが背景にあると思われる。
習近平が一年前の2014年10月23日、第18期第4回党中央委員会第2回全体会議で、党内の腐敗現象について「ある者は党の政治規律や政治規矩を無視している」として、その事例として分派活動や猟官活動のほか、「上層部をものともせず、中央の意向を妄議する」ことを挙げていることが改めて注目され、「妄議中央」が「中央の言うことを聞かない」「中央を批判する」などと拡大解釈されていった。
前任者の摘発で河北省党委書記に就任したばかりの趙克志が8月、同省唐山を視察した際、「党員幹部は政治上、絶対に自由主義を犯してはならず、中央に対して妄議してはならず、中央と省委の精神と悖る言論を広めてはならない」と忠誠を表明したのに続き、11月に入ると新疆ウイグル自治区の元『新疆日報』編集長、趙新尉が「政治規律と政治規矩に著しく違反し、党中央と自治区党委の重要な活動方針、政策、決定に対し妄議した」として摘発された。中央に対する「妄議」に党員はますます震え上がった。「党中央に盾を着いたら身が危ない」との受け止め方が広がったのも無理はない。
こうした空気の中、『人民日報』の論評は、言論の封殺や言論の自由に対する弾圧、党内民主を妨げるものだとする見方に対し。「明らかな偏見や見落としがあり、誤りである」と指摘し、党内の不安を鎮めようとする意図が感じられた。「妄議」は、「事実を捻じ曲げ、ルールを破った議論」を指し、党内の団結を乱し、中央の権威を傷つけるものだという。「我々の党は一貫して党内民主や批判と自己批判の優れた党の作風を重んじてきた」と弁護し、党内民主は個人主義や自由主義の民主とは異なり、党規約からかけ離れ、ましてや違反することは許されないとクギを刺した。要するに、憲法が保障する言論の自由も、党の権威を汚すようなことがあってはならないという原則論の中において有効であり、その範囲内を超えた場合に妄議だと断罪されるということなのである。
法を超えた議論である以上、線引きの基準は人の判断に委ねられた恣意的なものとならざるを得ず、多くの幹部がわずかなリスクでも避けるため、より小心翼々となるのは必然である。地方大学の一学者が解説をしたところで説得力はない。耳慣れない言葉を持ち出した習近平自身が、定義をきちんと定めない限り、下の者たちは安心して自由な発言をすることができない。「妄議中央」を、「お上にたてをついたらわが身が危ない」とする認識はそう簡単に打ち消されるものではない。強力な権力を握った習近平政権は一方で、羊の群れのように従う官僚群を生み出してしまった。
新たな改革に挑む気力や積極性は大きくそがれている。1980年代の改革が、現場の創意工夫や進取の精神によって推進されたことを思うとき、「妄議」がもたらした圧力がいかにして生まれ、どう影響を及ぼしていることを深刻に受け止めない限り、次の一歩はないように思う。、