『孟子』とルソーの良心論に入る前に、もう一つ、真実を語ることの難しさに触れなくてはいけない。肝心な人物を忘れていた。魯迅である。まずは『魯迅全集2』(人民文学出版社)に収められている短編『立論』を以下に全訳する。
私は夢の中で、小学校の授業で作文を書こうとして、先生に立論の方法を尋ねた。
「難しい!」。先生は眼鏡をずらして射るように私を見つめて言った。「君にひとつお話をしよう--」
ある家に男の子が生まれ、一族が大喜びした。満一か月を迎えたお祝いをした際、家の者が赤ん坊を抱いて来客に見せた--当然のことながらめでたいことをみんなに祝ってもらおうと思ったのだろう。
ある客は『この子はやがて金持ちになりますよ』と言ったため、家人から感謝された。
ある客は『この子はやがて仕官しますよ』と言ったため、お返しにお世辞を受けた。
ある客は『この子はやがて死ぬんだ』と言ったため、家じゅうの者から袋だたきに遭った。
やがて死ぬと言うのは当たり前であって、富貴になると言うのはウソかも知れない。だがウソを言った者はよい目を見て、当たり前のことを言った者は殴られる。君は・・・。
そう問われた私は答えた。
「私はウソもつきたくないし、殴られるのも嫌です。それならば先生、どう言えばいいのでしょうか?」
すると先生は答えた。
「それなら、君はこう言うしかない。『あらあら、この子は!ほら、なんて・・・。いやはや!ハハハ!へへ!ヘッ、ヘッヘッヘッ』」
中国ではしばしば、本音を言うことの是非を論じる場合に引用される文章だ。TPOをわきまえて話すべきだなどと正論を並べるのは筋違いだ。魯迅はマナー講座をしているわけではなく、真実を語ることについて、教師に「難しい!」と言わせたのだ。教師はすなわち魯迅自身である。
人は最初から大きなウソをつくわけではない。世間のしがらみや人情、慣習にがんじがらめにされ、身動きの取れない社会で生きている。個人はその中で賢く振舞うためのの知恵を身につける。巧みにウソをつく技を磨いていく。ありもしない全体意思のために個人の意思はかき消され、気が付くと見の回りはウソで塗り固められ、それをウソだと感じることもないほど慣れてしまっている。「慣習」とか「空気」と呼ばれる抗しがたい力だ。個人は社会に従属し、個性は埋没し、独立が失われる。社会がどこに向かおうとしているのか。それを真に問おうとすれば、「この子はやがて死ぬんだ」と本当のことを言った客のように袋叩きに遭うことになる。
この文章が書かれたのは魯迅が北京に住んでいた1925年7月8日だ。魯迅らが中心となって民主と科学を訴えた五・四運動(新文化運動)からは6年が過ぎている。孫文がこの年の3月に死去し、5月には上海の南京路で五・三〇事件が起きた。日系など外国資本の搾取に抗議する中国人労働者のデモが英国の警察から発砲を受け、死傷者を出した事件だ。国内の混乱に乗じて列強の影が濃くなり、屈辱と繁栄が交錯していた時代である。多くの人が目の前の不正義を見て見ぬふりで通り過ぎていた。当たり前のことを言うことが「難しい!」社会だったのだ。
魯迅はまた1936年、日本の雑誌『改造』(4月号)に求められ、『私は人をだましたい』と題する評論文を書いた。すでに満州事変が勃発し、当時、魯迅が移り住んでいた上海にも日本軍の進駐が始まっていた。検閲下の日本の雑誌に、侵略を受けている中国人に何を書けというのか。原稿用紙8枚ほどの短文に計4か所伏字がされた。
魯迅は同文のなかで、水害の義援金を募る少女に1円を渡したことを書いた。難を逃れようと安全な場所を見つけた人々は、治安が悪化するといって機関銃でその場を追われた。おそらくみな死んでしまっただろう。1円は水利局の役人の1日分のたばこ代にもならない。だが魯迅は、天真爛漫な少女が失望する顔を見たくないがために、1円で彼女の悦びを買った、と告白する。そして次のように、その文章を書いている行為そのものを問う。
何か書けと言われたから礼儀上「はい」と答えた。「はい」というたから書いて失望させないようにしなければならないようになったが、つまる処やはり人だましの文章である。こんなものを書くにも大変良い気持でもない。いいたいことは随分あるけれども「日支親善」のもっと進んだ日を待たなければならない。(中略)自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解(りょうかい)するには、筆、口、あるいは宗教家のいわゆる涙で目を清すというような便利な方法が出来ればむろん大いに良いことだが、しかし恐らくかかることは世の中に少ないだろう。哀しいことである。出鱈目のものを書きながら熱心な読者に対してすまなくも思った。(岩波文庫『魯迅評論集』)
平和な現代において、知識人は同じ覚悟を持ち得るだろうか。自分を偽り、人をだますことを生業としている者はあまりにも多い。もしかすると本人はだましているという自覚さえないほど感覚がマヒしている。私も例外ではなかったことを認める。血を吐きながら「講真話」(真実を話す)ことと向き合ってきた先人の歩みをいま少し、振り返るべきだ。良心は本来、人に備わっているものである。
魯迅は同文をこう締めくくっている。
「終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。」
翌年、北京で盧溝橋事件が起き、日中は全面戦争へと突入する。「血の予感」は的中した。多くの人がだまし、だまされた末路である。すべては小さなウソから始まったとすれば、教師が漏らした「難しい!」は、途方もない重みをもって我々にのしかかっている。
私は夢の中で、小学校の授業で作文を書こうとして、先生に立論の方法を尋ねた。
「難しい!」。先生は眼鏡をずらして射るように私を見つめて言った。「君にひとつお話をしよう--」
ある家に男の子が生まれ、一族が大喜びした。満一か月を迎えたお祝いをした際、家の者が赤ん坊を抱いて来客に見せた--当然のことながらめでたいことをみんなに祝ってもらおうと思ったのだろう。
ある客は『この子はやがて金持ちになりますよ』と言ったため、家人から感謝された。
ある客は『この子はやがて仕官しますよ』と言ったため、お返しにお世辞を受けた。
ある客は『この子はやがて死ぬんだ』と言ったため、家じゅうの者から袋だたきに遭った。
やがて死ぬと言うのは当たり前であって、富貴になると言うのはウソかも知れない。だがウソを言った者はよい目を見て、当たり前のことを言った者は殴られる。君は・・・。
そう問われた私は答えた。
「私はウソもつきたくないし、殴られるのも嫌です。それならば先生、どう言えばいいのでしょうか?」
すると先生は答えた。
「それなら、君はこう言うしかない。『あらあら、この子は!ほら、なんて・・・。いやはや!ハハハ!へへ!ヘッ、ヘッヘッヘッ』」
中国ではしばしば、本音を言うことの是非を論じる場合に引用される文章だ。TPOをわきまえて話すべきだなどと正論を並べるのは筋違いだ。魯迅はマナー講座をしているわけではなく、真実を語ることについて、教師に「難しい!」と言わせたのだ。教師はすなわち魯迅自身である。
人は最初から大きなウソをつくわけではない。世間のしがらみや人情、慣習にがんじがらめにされ、身動きの取れない社会で生きている。個人はその中で賢く振舞うためのの知恵を身につける。巧みにウソをつく技を磨いていく。ありもしない全体意思のために個人の意思はかき消され、気が付くと見の回りはウソで塗り固められ、それをウソだと感じることもないほど慣れてしまっている。「慣習」とか「空気」と呼ばれる抗しがたい力だ。個人は社会に従属し、個性は埋没し、独立が失われる。社会がどこに向かおうとしているのか。それを真に問おうとすれば、「この子はやがて死ぬんだ」と本当のことを言った客のように袋叩きに遭うことになる。
この文章が書かれたのは魯迅が北京に住んでいた1925年7月8日だ。魯迅らが中心となって民主と科学を訴えた五・四運動(新文化運動)からは6年が過ぎている。孫文がこの年の3月に死去し、5月には上海の南京路で五・三〇事件が起きた。日系など外国資本の搾取に抗議する中国人労働者のデモが英国の警察から発砲を受け、死傷者を出した事件だ。国内の混乱に乗じて列強の影が濃くなり、屈辱と繁栄が交錯していた時代である。多くの人が目の前の不正義を見て見ぬふりで通り過ぎていた。当たり前のことを言うことが「難しい!」社会だったのだ。
魯迅はまた1936年、日本の雑誌『改造』(4月号)に求められ、『私は人をだましたい』と題する評論文を書いた。すでに満州事変が勃発し、当時、魯迅が移り住んでいた上海にも日本軍の進駐が始まっていた。検閲下の日本の雑誌に、侵略を受けている中国人に何を書けというのか。原稿用紙8枚ほどの短文に計4か所伏字がされた。
魯迅は同文のなかで、水害の義援金を募る少女に1円を渡したことを書いた。難を逃れようと安全な場所を見つけた人々は、治安が悪化するといって機関銃でその場を追われた。おそらくみな死んでしまっただろう。1円は水利局の役人の1日分のたばこ代にもならない。だが魯迅は、天真爛漫な少女が失望する顔を見たくないがために、1円で彼女の悦びを買った、と告白する。そして次のように、その文章を書いている行為そのものを問う。
何か書けと言われたから礼儀上「はい」と答えた。「はい」というたから書いて失望させないようにしなければならないようになったが、つまる処やはり人だましの文章である。こんなものを書くにも大変良い気持でもない。いいたいことは随分あるけれども「日支親善」のもっと進んだ日を待たなければならない。(中略)自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解(りょうかい)するには、筆、口、あるいは宗教家のいわゆる涙で目を清すというような便利な方法が出来ればむろん大いに良いことだが、しかし恐らくかかることは世の中に少ないだろう。哀しいことである。出鱈目のものを書きながら熱心な読者に対してすまなくも思った。(岩波文庫『魯迅評論集』)
平和な現代において、知識人は同じ覚悟を持ち得るだろうか。自分を偽り、人をだますことを生業としている者はあまりにも多い。もしかすると本人はだましているという自覚さえないほど感覚がマヒしている。私も例外ではなかったことを認める。血を吐きながら「講真話」(真実を話す)ことと向き合ってきた先人の歩みをいま少し、振り返るべきだ。良心は本来、人に備わっているものである。
魯迅は同文をこう締めくくっている。
「終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。」
翌年、北京で盧溝橋事件が起き、日中は全面戦争へと突入する。「血の予感」は的中した。多くの人がだまし、だまされた末路である。すべては小さなウソから始まったとすれば、教師が漏らした「難しい!」は、途方もない重みをもって我々にのしかかっている。
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