行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論9】「新聞は社会の公器でなくてはならない」と訴える中国人学者の胸中

2015-11-26 10:40:35 | 独立記者論
広辞苑で「公器」を引くと、「おおやけのもの。公共の機関」とあり、「新聞は社会の――」と用例が示されている。だが今や新聞を「社会の公器」とする社会通念は薄れ、人気就職先ランキング上位からも姿を消した。インターネットの出現で発行部数の拡大が見込めない中、じり貧の危機に直面しているのは世界に共通する新聞業界の課題である。海外ではペーパーがいつ消滅するかという予測まで行われている。

2008年の金融危機後は欧米で新聞社の倒産が相次いだ。経済情勢に左右されやすい広告に収入やすい広告に収入の7~8割を頼っていたためだ。買収によって大資本のコントロールを受ける危険も指摘されている。日本の新聞社は宅配制度による定期購読者が95パーセントを占め、収入の六割に達する販売収入が経営の安定を支えてきたが、そのビジネスモデルがいつまでも続くとは思えない。もっとも多額の不動産収入に頼る新聞社も少なくなく、新聞販売事業だけでは経営が難しい台所事情がある。

日本の新聞は、独占禁止法の適用除外規定で販売価格の統一が認められ、報道による個人情報の取得は個人情報保護法の義務規定を受けない。宅配には関係が薄いが、第三種郵便物として郵送料金も割引されている。新聞記事に対する名誉毀損訴訟においても、記事内容が真実で、公共にかかわり、報道の目的が公益を図るためであると認められれば免責される。「社会の公器」の名が廃れてもなお幅広い優遇措置の恩恵に浴しているのは、無条件に与えられた特権ではない。報道機関が言論の自由、国民の知る権利を体現し、民主主義社会において不可欠な存在だと広く認められているためだ。形の上では私企業であっても、もっぱら営利を追求する一般企業とは異なる。もっとも松下幸之助の言葉を借りれば企業そのものが「社会の公器」であり、「企業は社会とともに発展していくのでなければならない」となる。

忘れかけていた「社会の公器」論を、意外にも北京で手にした『炎黄春秋』11月号で見つけた。元社会科学院新聞研究所長の孫旭培と教え子の中山大学コミュニケーション・デザイン学部准教授、盧家銀が連名で発表した「报纸应该是社会公器」(新聞は社会の公器でなくてはならない)とする寄稿だ。

同寄稿によると、国際共産主義運動史においては、マルクスがドイツ社会民主党を批判した『ゴータ綱領』批判が、彼の死後、党理論誌『新時代』で発表された例を引き、党内における言論の自由が存在していたが、レーニンが第三インターナショナルを設立して後、「各級の党組織に軍規律のような鉄の規律を実行する」との方針が採用され、言論の自由は否定された。

中国では民国時代に発行され、幅広い読者を得た『大公報』が「各党を等しく見て、公民の立場で意見を公表する」「言論による取引はしない」「独立した思考により、盲従をしない」とする編集方針(1926年復刊時)の下、「社会の公器」として力を発揮し、蒋介石も毛沢東も愛読していた。中国共産党史においては、重慶に拠点を置いた『新華日報』が抗日戦争中、庶民の声を重視し「社会の公器」としてのイメージを持ったものの、延安で発行された『解放日報』は「一字一句の独立を認めない」「党紙は党の喉と舌」との立場に立ち、党の宣伝道具と化した。

建国後の1956年7月1日、『人民日報』が「人民日報は人民の公共武器であり、公共財産だ」と社説を掲げ、多様な意見の公表を呼びかけたが、「毛沢東の不評を買って、半年もたたずに元に戻ってしまった」という。1959年冬、河南省信陽地区では大飢饉により100万人が餓死していたにもかかわらず、『河南日報』は計7本、「共産主義に進軍する」とする連載が行われ、「メディアが政治の力に利用され、公器の役割を完全に失う悪い結果を招いた」。2003年、広東省で起きた新型肺炎(SARS)感染の情報隠しもまた、こうした公器の私用化によって起きた。

同寄稿は、歴史の反省に立ち、党機関紙が党内で公器の役割を果たすようにするほか、民間による公共新聞の発行を求めるような政策を求めている。また、中国の世論が、党の意見を代弁する主流メディアと庶民の声を反映するインターネットとに二分されている現状を踏まえ、両者の相互乗り入れを提言している。それは中国共産党が範とするマルクス・エンゲルス思想が「言論出版の自由」を唱えていることにもかなっている、と正論を述べている。

公器という言葉は、2000年以上も前の著作『荘子』に登場している。「名誉は公器であって、一人が多くを占めるものではない。仁義の徳は、先王の宿に泊まるようなもので、折に触れこだわるのはよいが、長くかかわっていると災いとなる」との教えだ。みんなが共有すべき器なのだ。ある特定の組織や団体が占有すべきものではない。孫旭培はそう言っているのに違いない。

一方、言論の自由が憲法で保障されている日本で、新聞が「社会の公器」の役割から遠ざかっているのはなぜなのか。

世界に冠たる新聞王国日本は高度成長期、きめ細かい宅配サービスによって形成された。だが、一億総中流社会と呼ばれ、みなが同じ夢、同じ価値観を追い求めていた時代はとっくに終わった。価値観が多様化し、家族観やライフスタイルも千差万別だ。均質な最大公約数をイメージした大量発行部数時代の紙面作りはもう時代遅れだ。真ん中にあったニーズが両極に広がり、さらに多面化しているにもかかわらず、ひたすら人のいない中間地帯にボールを投げ続けることになりかねない。

だが新聞社内は官僚化し、異なる意見を戦わせる空気は全くない。記者が会社に隷属して独立した思考を持たず、社内では言論の自由が存在していない。事なかれ主義がはびこり、直面している課題に対する全体的な危機感は驚くほど欠けている。その新聞が言論の自由という錦の御旗にすがって「公器」を標榜するのは自己矛盾である。新聞が「社会の公器」から遠ざかっているのは、情報化社会の変化という外部環境の要因に加え、ダブルスタンダードの矛盾に気づかない内部の要因によるところが大きい。内部にいた者として、私はそう感じる。