行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論8】月刊誌『炎黄春秋』で見つけた独立人の良心

2015-11-25 17:51:18 | 独立記者論
胡耀邦生誕100周年記念で放映された中国中央テレビ(CCTV)の記録フィルムで、1982年9月13日付『人民日報』1面に掲載されていた趙紫陽元総書記の名前と写真が外される改ざんが行われていたことはすでに指摘した。当局からすれば、小さな過ちで失脚したものの、それを上回る多大な功績を残した胡耀邦と、学生デモへの武力弾圧を巡って「党分裂」を招く重大な過ちを犯した趙紫陽とを分断させ、趙紫陽の復権は程遠いとクギを刺す意図があったのだと推測される。胡耀邦に対する大幅な名誉回復に乗じ、民主派勢力が勢いづくことを警戒したのだろう。取り越し苦労のように思えるが、自信がないことの裏返しだ。

天安門事件に直接かかわる趙紫陽には厳格に処分し、その分、胡耀邦を復権させて民主派勢力を分断させるやり口だ。こうした歴史的評価が固定化してしまうことを民主派知識人たちは警戒する。彼らにすれば、胡耀邦から趙紫陽に開明的な民主化路線が引き継がれ、それが天安門事件前夜の大衆的なうねりに発展した歴史の連続性が重要だ。小平ら保守派長老が学生の民主化要求デモを「反革命暴乱」と認定し、武力鎮圧を正当化した歴史的評価は受け入れられない。

常務委員7人が顔そろえ、破格の扱いだった今回の胡耀邦生誕100周年記念は、習近平の強い思いとそれを実現させる力がなければできなかった。と同時に、出席していない顔ぶれにも注目する必要がある。胡耀邦、習仲勲と並ぶ開明的な指導者として知られる万里・元人民代表大会常務委員長の四男、万季飛・元国際貿易促進委員会会長の姿はあったが、胡耀邦追い落としを主導した小平、薄一波、陳雲ら保守派長老の家族は出席していない。党内が必ずしも一致していないことを物語る。強い習近平の裏にはもろさが隠されていることも留意すべきだ。表向きは自信を語っているが、実態は伴っていない。

一方、「趙紫陽」の名前を堂々と載せているメディアがあることも忘れてはならない。民主派知識人が中心となり、党史の闇に光を当てようとしている歴史月刊誌『炎黄春秋』だ。同誌は天安門事件後、国際的に孤立する中国の良心を内外に示そうと創刊された。A4版計96ページで定価10元(約190円)。中国共産党や党指導者の歴史、事跡について、当事者が自身の経験を回顧した原稿を中心に毎号約20本掲載する。権力闘争の暗部や過去の失策などに焦点を当て、暗に現在への反省を求める内容が多い。書店にはほとんど置かれていないが、国内外の定期購読によって発行部数は20万部に及ぶ。


『炎黄春秋』11月号には7月15日に他界した万里を追悼する胡啓立・元党常務委員の口述「巍巍万里」(壮大なる万里)が巻頭に掲載されているが、その中で「解決水荒、趙紫陽批示;請万里同志定」との見出しが見える。天津市長だった胡啓立が1981年夏、天津を襲った干ばつによる水不足で河北省の貯水庫に頼ろうと中央の支援を仰いだところ、胡耀邦総書記が許可をし、趙紫陽首相が「(土木問題に詳しい)万里副首相に諮るように」と指示したとの回顧録だ。

同口述には次の一文もある。

「1980年代、改革開放の大きな潮流の中、小平は最高指導者として指揮し、胡耀邦と趙紫陽は協力して対応し、互いに連携を取った。万里は勇敢に先頭に立ち、道を切り開く先兵の役割を果たした」

歴史の改ざん、ねつ造に断固として抗し、真実を語り継ごうとする決意、歴史に対する誠実さと責任感がある。独立した一人の人間、知識人としての良心である。胡耀邦も趙紫陽も個人としては欠点や弱さがある。そうした個性を過大評価して攻撃するのはフェアではない。歴史の流れにおいて個人が残した事績を正しく評価すべきである。


同誌11月号には王海光・元中央党校教授の寄せた『如何研究胡耀邦』の論文もある。胡耀邦が、中国の伝統的な文化の中にある偉人崇拝の流れに反し、事実に基づいて真理を探究する探求実事の姿勢を貫いたこと、人民の側に立った平等、公正な改革、世界への開放といった現代文明の価値観を持ったこと、趙紫陽とともに市場経済、民主政治の道を断固として進む改革派の代表だったことなどが指摘されている。

同論文はさらに、「胡耀邦、趙紫陽の二人の総書記が失脚したのは、もとよりイデオロギー対立があったものの、より根本的なのは特権集団との利益の衝突であり、社会の民衆もこうした特権集団に多くの意見があり、何度かの学生運動もこれと関連している。胡、趙の両総書記が失脚した後、政治体制改革は停滞し、近代化を進める政治、経済の両輪は一つを欠いてしまった。経済社会の発展はバランスを崩し、GDPの経済指標によって膨れ、足元がぐらついた巨人になり、近代化の目標から遠ざかるばかりだ」と述べ、「30年前に提起した『権力が大きいか、法が大きいか』の問題が今なおはっきりしていないのは、歴史の悲哀と言うしかない」とまで言い切っている。

同号には、胡耀邦、趙紫陽の開明的な改革思考によって1980年代前半、やりがいのある仕事ができ「春」を感じたという元『人民日報』記者、季音の寄稿や、1988年、趙紫陽が改革・開放政策によって浮上した党内腐敗に警鐘を鳴らした事績を振り返る趙紫陽の元秘書、季樹橋の回想録も収録している。

独立した思考に基づいて異なる意見を戦わせ、より正しい真理にたどり着くのは洋の東西を問わない定理である。胡耀邦が残した教訓を、『炎黄春秋』は忠実に継承していると言うべきだろう。ますますか細くなっている伝統だが、強さは増していると信じたい。

胡耀邦は、習近平の父・習仲勲を冤罪から救った恩人である。『炎黄春秋』もまた習仲勲が強く支持し、亡くなる前年の2001年、創刊10周年を祝って「いい雑誌だ」と筆書きのメッセージを贈っていることも付記しておきたい。

景山公園から眺めた雪景色の故宮

2015-11-24 12:38:34 | 日記
昨日、景山公園に足を運んだ。故宮の北門・神武門を出てすぐ目の前にある小高い人工の丘だ。明朝最後の皇帝・崇禎帝が北京に攻め入った李自成軍に追われ、首を吊ったとされる槐の木がある。故宮の雪景色を見るのには最適な場所である。寒風が吹き、地面が凍り付いて歩くのも骨が折れたが、山頂にはカメラを持った市民が多数集まっていた。

私には思い出深い公園である。もう30年近く前にさかのぼる。

私は1986年に日本の大学を卒業して1年間、北京で中国語の語学留学をした。学生時代から新聞記者になるのが夢だった。新聞社は新卒と既卒の差別がなく、慌てて就職するする必要がなかった。日本はバブル時代だった。ひっきりなしに大学OBから企業説明の宴席に招かれる浮かれた社会に違和感を覚え、外の世界を見たいと思った。同級生の多くは留学や旅行先に欧米を選んでいたが、人と違うことをしたいと思い、隣国でありながら実はベールに包まれた中国を選んだ。

小平と胡耀邦のコンビが主導した改革・開放政策は1970年末からスタートしたが、まだ高度経済成長の軌道には乗っておらず、人々の暮らしは質素で、考え方も素朴だった。月給はみな50~60元前後で貧しかったが、明日の生活はよくなるという希望に満ちていた。

「赤い疑惑」や「おしん」など日本の一般庶民を描いたテレビ番組が放映され、経済先進国の日本に学ぼうとする姿勢が強かった。路上でも日本人留学生と聞くと人だかりができ、「カラーテレビはどのブランドがいいのか」と質問攻めにあった。大学の内外でしばしば「日本語を話してくれ」とせがまれた。そんな光景がごく普通にあった時代である。日本への留学熱が高まり、1988年には、上海の日本総領事館がビザ発給を求める若者たちに取り囲まれる事件も起きた。

夏休みに一人旅をし、船で大連から上海へ向かう途中、甲板で開かれた余興の歌合戦で、「北国の春」をリクエストされて歌ったこともある。ある時、天津を歩いていて日が暮れ、安価な宿泊先が見つからず公園で野宿をしようとした。治安も悪くなく、私も不安はなかった。そこでたまたま通りがかった警官が私を見つけ、外国人と知って驚いた。豊かな国から来た外国人は「外賓」と呼ばれ、もてはやされていた時代である。警官は知り合いのいる旅館に連絡を取り、従業員寮に無料で泊まれるよう手配してくれた。

テレビのチャンネルを変えるたびに映し出される抗日戦争ドラマには辟易としたが、「多数の日本人は戦争の被害者だ」とする考えは浸透しており、「これからは友好だ」と声をかけてくる中国人の方が多かった。腹を割って歴史問題も語った。いまだに交際の続いている友人もできた。学校が休みのたびに地方を旅し、悠久の歴史、広大な土地を抱えた中国の持つ多様性、底知れなさを感じた。

そんな北京生活の中で、折に触れ自転車をこいで出かけたのが景山公園だった。今は花壇が整備され、2元の入場料を取られるが、当時は全く人の手が入らず、野山を駆け上るような感覚だった。平日は人もまばらだった。山頂に1人で腰かけ、夕日を受けて黄金色に輝く故宮の瑠璃瓦を眼下に一望し、いずれ記者としてこの地に戻ってくると誓った。広大な大地とおおらかな人々が、私を温かく受け入れてくれるように感じられた。

日中の蜜月時代を総書記として演出したのが胡耀邦だった。大の読書家で文化大革命期、北京で幽閉状態に置かれている間、『田中角栄伝』『日本列島改造論』にも目を通し、「日本は戦後の困難を抱えながら、科学、教育に力を注ぎ、急速な経済発展を成し遂げ、工業大国になった。日本の経験は我々が見本として学ぶべきだ」が持論だった(『胡耀邦伝』)。1984年には日本から3000人の青年訪中団を招いた。最も多くの日本人と会った中国の総書記と言ってよい。

作家・山崎豊子の代表作の一つ『大地の子』が胡耀邦の強いバックアップによって生まれたこともよく知られている。胡耀邦は生前、取材協力を求めに訪れた彼女と面会した際、こう伝えた。

「中国の都合のいいことばかり書いて貰っては困る、美しく書いて貰いたいとは思わない、中国の立ち遅れ、欠点、暗い影も、制限なしで、どんどん書いて結構、嘘を書かれることは困る」(「『大地の子』と私」)

これだけ深い懐を開いた中国の指導者は後にも先にも胡耀邦だけである。同作品は月刊『文藝春秋』に連載されたが、胡耀邦故居の収蔵品リストには山崎豊子が贈呈した連載中の同誌1989年7月号がある。山崎豊子は1991年6月、江西省九江市の墓前に同著上中下3巻を捧げた。

肌を突き刺すような寒風に打たれながら、駆け抜けるように過ぎた30年前の記憶をたどった。西の空が茜色に染まってきた。かつての光景がよみがえってきた。

CCTVが放映した胡耀邦生誕100周年記念フィルムの大きなウソ

2015-11-23 15:31:47 | 日記
胡耀邦の生誕100周年を記念し、中央テレビ(CCTV)が20日から記録映像計5集を放映した。重要な功績を遺した指導者を回顧することは意義があるし、これまで十分に評価されてこなかった胡耀邦の名誉回復にもつながる。だが、映像の中に看過できないウソ、いやねつ造が含まれていたのは残念だ。残念で仕方ない。

1982年9月1日から11日まで中国共産党第12回全国代表大会が開かれた。文化大革命の後遺症を乗り越え、「中国の特色を持つ社会主義」という新たな概念のもとに改革・開放に向かってスタートを切った記念すべき大会である。引き続き13、14日に開かれた第12期第1回中央委員会全体会議で胡耀邦、葉剣英、小平、趙紫陽、李先念、陳雲を党中央政治局常務委員に選任した。

9月13日の『人民日報』には一面で常務委員6人の名前と写真が名目上の序列順に掲載された。写真は上段に並べられ、上段は胡耀邦、葉剣英、小平、趙紫陽、下段には李先念、陳雲が置かれた。ところがどうだろう。CCTVの『胡耀邦』第4集の画面に映し出された同日の『人民日報』は、実物とは決定的な違いがあった。



趙紫陽の名前が外され、上段の右端にあるべき彼の写真が李先念と置き換えられている。歴史に残る新聞紙面をねつ造するのは、歴史への冒涜であり、「実事求是」という中国共産党がモットーとする精神にも反する。『人民日報』は、メディア人として恥ずべき行為をしたCCTVに抗議すべきだ。もちろんCCTVも言論統制下にある以上、上層部の意向を受けたものであることは言うまでもない。だがそれでもなお、CCTVの責任者については、メディア人として最低限の良心は問われるべきである。

「実事求是」とは、事実に基づいて、真実を探求することである。習近平総書記も20日の胡耀邦生誕100周年記念座談会で「我々が胡耀邦同志を記念するのは、とりもなおさず、彼の実事求是の精神、勇敢に思索を開拓する精神を学ぶことだ」と強調している。どうしてせっかくの記念イベントを台無しにするこうした愚行が行われるのか。非常に残念だ。

胡耀邦は1987年、民主化を求める学生デモに同調したことで党内の保守派長老から攻撃され失脚する。1989年4月15日、失意のうちに死去するが、彼を偲び、憤る若者たちの追悼が同年6月4日、人民解放軍による武力鎮圧を招いた天安門事件につながる。胡耀邦から総書記を引き継いだ趙紫陽は天安門事件の武力鎮圧に反対して失脚する。

同事件後、胡耀邦と趙紫陽の2人は一時、メディアから姿を消したが、胡耀邦については復権が進み、それが生誕100周年記念座談会につながった。だが一方、趙紫陽は「学生らによる動乱を支持し、党を分裂させた」としてすべての職を解任され、党籍だけを残したまま1989年6月から92年10月までの3年4か月、党の審査を受けた。趙紫陽は自己批判を拒み続け、第14回党大会は「当初の結論を支持し、審査を終了する」と結論を出した。だが亡くなるまで当局の監視下に置かれ、外出も制限された。

農業の生産向上や経済体制、政治体制改革に力を尽くした業績に関する記事は一部メディアで散見されるようになったが、依然、タブー視される風潮は変わっていない。今回の『人民日報』ねつ造事件が何よりもの証左だ。とにかく残念だ。中国語で言えば「就是太遗憾!」。だが失望はしない。良心を失っていない人はまだたくさんいる。CCTVの内部にもそうしたメディア人はいると信じる。悲観からは何も生まれない。少しでも前に進むべきだ。そのためのこの一文を書いた。

自分自身、日本人としても過去の歴史を誠実に学び、将来への教訓としてくみ取るべきであると改めて肝に銘じたい。二重基準は許されない。

『胡耀邦文選』に掲載された日中関係に関する「四つの意見」

2015-11-22 18:48:20 | 日記
北京は雪である。足元が悪かったが、出版されたばかりの『胡耀邦文選』を求め王府井に出かけた。北京最大の繁華街だが、今日はさすがに人通りが少ない。王府井書店には『胡耀邦文選』の特設カウンターが設けられていたが、手に取る人は少なく、店員によると「買い求める人も多くない」とのこと。宿泊先のホテルで20代の従業員に胡耀邦について聞いたが「知らない」との返事がほとんどだった。

生誕100周年記念日の20日、湖南省瀏陽市の故居も近辺の農村からバスに乗ってやってくる観光客が目立つ程度で、格別なにぎやかさはなかった。江西省から来た40過ぎの女性に胡耀邦の印象を聞くと、「我々の主席だ」としか答えが返ってこなかった。約100キロ離れた湖南省省都の長沙で地元のタクシー運転手(37)に同じ質問をすると、やはり「知らない」と答えが返ってきた。驚きべき風化ぶりである。

『文選』をめくってみた。計693ページ。建国直後、四川省北部で執政を担っていた1952年5月から、総書記から失脚する直前の1986年10月までの講演や会見発言、手紙など計77編が収められている。その中に、1985年10月18日、日中友好21世紀委員会でのスピーチ「日中関係を発展させる四つの意見」があった。同委員会は1983年11月に胡耀邦が訪日した際、当時の中曽根首相との合意によって翌年3月発足したものだ。『文選』に掲載されたスピーチは2ページ分。以下、日本語に訳してみた。

1、日中関係を強固にし発展させることは、日中両国人民の長期的、根本的な利益にかかわる大事であり、同時に、アジアと世界の平和と安定にかかわる大事である。我々両国がともに日中友好を自国の基本的な国策とすることは、完全に正しい。日中の長期的な友好事業を軽視したり、低く評価したりする考え方ややり方はすべて将来への見通しを欠いており、誤りだ。私は、我々両国政府と人民がみな努力を続け、日中友好の自覚をより一層大切にするよう希望する。

2、日中友好を発展させるため、我々両国政府と人民はみな、正しく両国の厳しい対立の歴史に対峙しなければならない。両国の半世紀に及ぶ対立は、日本のごく少数の軍国主義指導者が作り出したもので、日本の人民や現在の幅広い朝野の人々が責任を負うべきものではない。日本のごく少数の軍国主義指導者の手によって中国への侵略戦争やその他の侵略戦争が引き起こされ、中国やアジア、太平洋地区の各国に極めて大きな災難をもたらし、最後には日本の人民にも甚大な災難を及ぼした。この点を我々両国の人民と次代の子孫は厳しい歴史の教訓とし、戒めとしなければならない。これらの戦争を起こした当人たちはすでにこの世におらず、ある者はすでに国際法の正当な制裁を受けたが、彼らの子どもや子孫には累が及んでいない。つまり、我々は日中友好の関係を発展させる努力をする際、歴史上発生した対立の影響を今日の協力に及ぼすべきではないが、一方で、日中の対立を生んだ首謀者に同情寄せるべきでもなく、さらにごく少数の者がたくらむ軍国主義活動の復活を許すべきでもない。さもなければ日中友好に陰りが生じることは避けられず、ひいては深刻な結果を招くことにもなる。

3、日中の長期的な友好を実現する厳粛な任務は、我々両国の政府と人民のたゆまない努力が必要である。我々両国の各層がみな、両国政府が署名した日中共同声明と日中平和友好条約に対し真剣に向き合い、厳格に順守し、相互が認めた平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定の四つの原則を堅持しなければならない。両国の歴史、現状、利益や観点にはみな異なる点もあるが、交流の中で困難にぶつかった時は、双方が大局に立ち、慎重に事を運び、真剣に相手の友好的な建議や合理的な要求を検討し、相手の人民の感情を損うことが起きないよう全力を傾けるべきである。私は、我々双方が高みに立ち、遠くを見つめ、深く考えさえすれば、日中の長期的な友好の前途は明るいと思う。

4、日中友好の最高の目標は子々孫々の友好を実現することである。この崇高な目標のために、我々はまずこの目標を実現するのに役立つプラスの要素を発展させ、この目標を実現するのに不利なマイナスの要素を適切に処理し、21世紀の日中が引き続き友好であるよう努めなくてはならない。こうすれば、子々孫々の友好は堅固な基礎を築くことができる。日中友好21世紀委員会は非常に重大な任務を負っており、各委員の職責には両国人民が大きな希望を寄せており、ことのほか光栄なものである。委員会の業績が日中友好の歴史に刻まれるよう、みなさまの努力を期待したい。

以上

日中友好21世紀委員会はその後、新日中友好21世紀委員会に受け継がれたが、所期の目標からは大きく隔たっているように思える。訳しながら、決して愉快な気持ちにはならなかった。

また1983年8月15日、訪中した毎日新聞の山内大介社長との会見内容も収録されている。胡耀邦が訪日に先立ち、日中関係など国内外の10の問題を語った後、「日本は偉大な民族で、我々が参考にし、学ぶべき点が多くある。我々は一つの願いがある。それはつまり、世界の大小の国からできるだけ長所を吸収することだ」と述べた。

77編の中、2編が日本に関するものである。さて、今は、将来はどうか。

【お知らせ】11月29日、日本で唯一の胡耀邦生誕100周年記念講演会

2015-11-21 23:50:32 | 日記
中国では胡耀邦元総書記の生誕100周年を記念する座談会が11月20日、北京の人民大会堂で開かれ、習近平総書記が「彼の革命精神と崇高な風格は我々が永遠に学ぶに値するものだ」と格別の高い評価を与えました。同座談会には習氏を含め中国共産党最高指導部の党中央政治局常務委員7人全員が顔をそろえ、歴代最高クラスの指導者のみに発行が許される講演・論文集『胡耀邦文選』も同日、没後26年たってようやく出版されました。中央テレビ(CCTV)では胡耀邦の業績をたどる計5回の記録映像も始まっています。

少し遅れた“復権”にはどんな意味が隠されているのでしょうか。胡耀邦は党主席、党総書記というトップの地位にありながら失脚し、不遇の晩年を過ごしました。ただ、誰にでも分け隔てなく接し、事実を重んじて虚偽を退け、廉潔な姿勢を貫いた姿勢を慕う人は多くいます。日中ともに若い世代にはなじみのない人物だと思いますが、忘れてならないのは、彼は1980年代、日本から3000人の青年訪中団を招くなど、日中蜜月時代と呼ばれる一時期、率先して対日協調政策を推進したことです。歴代指導者で最も小柄な胡耀邦ですが、実にエネルギッシュな人物でした。日本でも是非、彼の生誕100年をを回顧するイベントを行いたいと思い、以下の講演会を企画しました。日中の未来を担う若者たちが熱心に準備をしてくれました。

私はちょうど11月20日、湖南省瀏陽市にある胡耀邦の故居(生家)を訪れてきました。その際の様子もご報告します。単なる一方通行の講演会ではなく、多くの方と日中関係について意見を交換する場にもしたいと思います。まだ余裕があるということなので、どうぞご遠慮なくご参加ください。

北京は雪が続いています。今朝は少し積もっていました。東京でお会いしましょう。


【胡耀邦生誕100周年記念講演会】

11月20日は中国の元指導者、胡耀邦氏(1915-1989)のちょうど生誕10 0周年に当たり、中国では重要な記念日として各種行事が予定されている。胡耀邦氏は1 984年、日本から3000人青年訪中団を招くなど日中民間交流に大きな足跡を残した ことで知られる。また今年三回忌を迎えた作家・山崎豊子氏が著した代表作『大地の子』 は、胡耀邦氏が直接、山崎氏と面会し、執筆のための事前取材に強力な支援を約束したこ とが作品誕生の背景となっている。だが、日中の若者たちにとってこうした歴史は徐々に 縁遠いものとなりつつある。日中関係が困難な時期を迎えている今、改めて日中民間交流 の歴史を振り返り、学ぶ場を設けることは、新たな未来を切り開く上で大きな意義を有す ると考える。
【主催】日中の未来を考える会(代表 保思兆) NPO 日中独創メディア(代表 加藤隆則)
【日時】2015年11月29日午後1時から5時まで 13:00 開場、受付 13:30 講演、質疑応答、交流 16:30 閉会
【場所】日本大学経済学部7号館7043教室 http://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/maps/
【参加人数】約120人
【講演者】 日本大学非常勤講師 及川淳子「胡耀邦生誕100周年の今日的意義」
      ジャーナリスト 加藤隆則「胡耀邦と習近平の父・習仲勲」
『文藝春秋』元編集長 岡崎満義「山崎豊子さんの思い出」
【参加費用】 学生 無料 社会人 500円(資料代として)
お申込み① http://goo.gl/forms/NxGXnKLJgY
申し込み② 532147818@qq.comまでメールで