行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

コピーに囲まれた学生に与えた10分間の「沈黙」(その2)

2016-11-15 13:11:29 | 日記
いきなり「言葉は沈黙から生まれ出た」と言われても、抽象的過ぎてすぐにピンと来ないのは無理もない。朝起きてから床に就くまで、音と文字の洪水の中で暮らしているのだ。リップマンの『世論』を精読して、メディアを通じて接する、真実ではない疑似環境のからくりは理解できても、だからといって社会、世界を正しく把握できるわけではない。とらえどころのない対象を前にして、時には右往左往し、長く沈黙し、人は終わりのない探求を続けるしかない。

続けて取り上げたのは、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』だ。



真正、オリジナルそして相対する複製、コピーとは何かを考える糸口を与えてくれる一冊である。この世の中に二つとないもの。ある時間、ある空間から離れがたく結びついているもの。永遠を前提に創造されるもの。それに対し、技術の進歩は作品を時間、空間から切り離し、いつでも、どこでも手の届く対象に変えた。ある絵は貴族の部屋から美術館に運ばれ、ネットでもアップされる。人を縛っていた小部屋は、レンズによって解体され、差異のない空間を生み出していく。

だがその結果、我々の身の回りは複製で埋め尽くされてしまった。ガイドブックを手に旅行をし、載っている写真の場所を探す。それを見つけると目的を果たしたかのような気持ちになって〝証拠写真〟を撮る。だが目の前にあるものは、ガイドブックの写真とは明らかに違う。ある時点のある空間を忠実に複製したとしても、時間までは複製できない。時の経過によって空間が風景が変わっていることを忘れている。旅の記憶は、旅行者の目によって切り取られて、唯一無二のものとして刻まれる。

オリジナルを見失った結果、偽ニュースが出回り、なりすましの詐欺行為が横行する。反復、保存が時間と空間への執着を弛緩させる。コピーを追いかけることに追われ、独自の、独創的な、独立した思考が見過ごされる。携帯画面の平面が、立体的な思考を奪っていく。一つの文字、一つの言葉が持っていた重量は、かつてないほど軽くなっている。湯水のように沸いてくる情報は、ファーストフードのように瞬く間に消費され、捨て去られ、更新されていく。アクセス数、購買量といった数字の中に飲み込まれ、大きな利益が頭上を覆っている。

目を覚ますのには沈黙が必要なのだ。携帯をオフにし、一人で散歩をし、本を広げ、自然の中にいる自分の時間と空間を取り戻さなくてはならない。沈黙から言葉が生まれるとはこういうことである。

「東洋には格好の手がかりがあるではないか」。こういうと学生たちが身を乗り出した。下を向いていた者も顔を上げた。



「一期一会」という。中国人も理解ができる表現だ。一度しかない出会いの覚悟が、緊張した一回性の時間と空間を生む。複製はきかない。人も空気も水も風景も飾りも、そして飲み交わす茶のすべてが、その場限りのものなのだ。だから無駄がない。人の触れ合いに必要なもの、最低限のものだけがそこにある。あらゆる作法は、お互いを敬い、一回きりの場を享受するためにのみ存在する。

言葉が、こちらをじっと見つめる学生の目から心の中に入り込んでいくのを感じる。同じ言葉を持っているのだという共感、共鳴だ。

(続)

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