行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

コピーに囲まれた学生に与えた10分間の「沈黙」(その3)

2016-11-15 14:02:55 | 日記
東洋では、言葉によらない悟り、直感を重んじてきた。鈴木大拙の『禅と日本文化』(原著は英語『Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture)』)は「不立文字(ふりゅうもんじ)」を挙げる。



知識には三つの種類がある、と鈴木大拙はいう。一つは、本を読み、人の話を聞いてたくわえる、いわゆる一般的に知られている知識。もう一つは、科学的な観察と実験、分析、推理によって得られる知識。そして、第三の知識は直感的な理解の方法によって到達することのできるものだ。

第三の知識こそ、宗教的信仰の基礎をなし、深い存在のなかにある。禅はこの知識を呼び覚まそうとする。形式を排し、執着を解き、超越的な孤高の境地を極める。因果を論じる理論は軽視される。理由や理屈を詮索せず、そこにあるものをそのまま受け入れる。だから論理を体現する言葉には頼らない。自らの身をもって感じ取るしかない。そこには沈黙の力がある。

鈴木大拙の書は、中国から帰ってきた禅僧の道元が、かの地での学びを尋ねられた際、「柔軟心のほかには学ばなかった」と答えたとのエピソードが紹介される。



それこそが和の精神だという。理屈ではないのだ。同じ時期、鈴木大拙と同じように東洋文化を英語で伝えようとした中国人が林語堂である。



林語堂は『吾国吾民(My Country and My People)』の中で、中国人の「ロジック」について、「中国人の論理は真理に対する概念に基づいている。真理は中国人の考えによれば、ただ暗示することができるのみで、決して証明はできない」と書いている。ただ「忘言の境地によって会心」し、「その然りたるを知るも、その然りたる所以を知らない」ものである。不立文字と同じ認識に立っている。根は共通している。

そして沈黙に話は戻る。言葉が氾濫する時代にこそ、いかに沈黙が大切か。ニュース、情報に追われ自分さえも見失いかねない環境だからこそ、空を見上げ、山から地上を見下ろすることが大事なのだ。

「今夜は超級月亮(スーパームーン)じゃないか」

授業の最後に、「期末テストは『沈黙の10分』をテーマに、自らの思考を振り返りながら、自由な論点でメディを語ること」と公表した。「わーっ!」と声が上がった。大変化球だと思ったのだろう。驚いたことに、「先生、次の授業でもう一回やってもらえますか?」という学生がいた。複製文化はここまで浸透しているのか。私は「君が言ったのは時間の複製だ。複製がきかないから尊い。その場限り、そのときだけの時間を我々は共有し、学びあっている。だから大事にしなくてはならない」と伝えた。

期末テストのテーマを解読していくことが、締めくくりの授業の主眼になる。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (小谷)
2017-02-16 10:25:46
沉默,是与自己独处和对话的时间。在各种信息横飞,浮躁的生活里,总会有很多言不由衷,沉默会让自己沉淀下来。所以中国的道教和佛教才会那么重视冥想吧。
返信する

コメントを投稿