行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

寅さんの闘病仲間からもらった手紙

2015-08-10 09:28:03 | 日記
映画『男はつらいよ』シリーズ48作で寅さんを演じ続けたで俳優の渥美清さんがこの世を去ったのは19年前、1996年の8月4日だ。実はその3年後の1999年同日、私は渥美さん(本名・田所康雄)が眠る東京新宿の源慶(げんきょう)寺にある墓前にいた。この日、墓参に来るゆかりの人たちを取材しようと待っていた。

「3年たっても忘れない友こそ、真の友だ」

渥美清さんは私生活を一切明かさず、派手な交際も好まなかった。ベールに包まれたその名優の素顔に迫ろうと試みたのである。彼の母校、板橋区立志村第一小学校の松尾民子校長から、同校創立70周年で人と人のかかわりを学ぶ「寅さん研究」をしたいと聞かされ、新聞紙面で参画しようと思いついたのが発端だった。こうして読売新聞都内版に同年8月から12月にかけ計71回、友人たちが語る連載企画「拝啓 渥美清様」が生まれた。同シリーズは好評で、中央公論新社から単行本、文庫本としても出版された。

同企画の語り部の一人に梅村三郎さんがいた。渥美さんはフランス座で役者の下積みをしていた1954年5月から約2年間、埼玉県春日部市の病院で結核の療養生活を強いられた。その際、同じ病室で知り合い、弟のようにかわいがったのが7歳下で板金工の梅村さんだった。同病院では入院患者の半数近くは助からなかった。渥美さんは梅村さんを、坊主をもじって「ボンズ」と呼び、梅村さんは本名の「田所康雄」から「ヤッサン」と慕った。

渥美さん闘病仲間にたたき売りの口上をやって見せ、人気者だった。その後の寅さんの片鱗がうかがえる。トイレに立つのにも、タオルを肩にかけ、歌舞伎役者みたいに口をひん曲げて「それじゃあ行ってくるぜ」とおどけて見せた、とは梅村さんの述懐だ。畑仕事をしている農家の人には、大きな声で「みなさま一日お仕事ご苦労さんでした」と、セリフの練習をするように呼びかけた。
 
梅村さんが涙ながらに語ったエピソードがある。退院後、結核患者だからという偏見から以前勤めた工場の職を失い、落ち込んでいたころ。住まいのあった赤羽駅近くで突然、フランス座に復帰していた渥美さんとばったり再会し、「なんてつまんなそうな顔してんだよ。おれの舞台見に来いよ」と誘われた。

「自分よりも多く肺を取った人が、舞台で額に汗をかき、客を笑わせていた。感動したなあ。肺を取った者のツラさは経験しなけりゃわからない。言葉じゃ何とでも言えるけど、ヤッサンは芝居で『負けるな』と励ましてくれたんだ」

梅村さんがずっと大切にしている言葉だ。二人の関係は途絶えることなく続いた。

梅村さんとは取材で知り合い、その後、折に触れ直筆の手紙をもらった。わざわざ都内の我が家まで自分の趣味で撮った花の写真を届けてくれたこともある。その梅村さんが先日、私の書いた『文藝春秋』8月号の記事を読み、かつての結核病棟の見取り図を添えた手紙を送ってくれた。冒頭の写真が見取り図だ。それぞれの場所に記憶に残された思い出が書き込まれ、「雪割草は 踏まれても踏まれても 雪を割って出てくる逞しさがある」と話していた渥美さんの言葉が記されている。

文面には「私11月で80歳になり体力の衰えはありますがまだ元気です」とのことで、私の独立宣言に「いつかこの日が来るのではと感じていましたよ!心より大きな拍手を送ります」とあった。そんな目で見られていたことを知り、驚いた。人はえてして、他人はよく見えるが、自分のことはよくわかっていないのかも知れない。

また「お守り」として、渥美さんと山田洋次監督が写っているテレフォンカードが同封されていた。手紙には「私のこれまでの人生の中で特に、記者魂の加藤隆則さんと、役者魂の渥美清さんとの出会いを誇りに思い幸せだと思っています」とありがたい言葉も書いてあった。固く結びついた私たち二人の関係もまた、渥美さんの遺徳なのだろう。

連載企画後、私は時々、冗談半分にメールの最後に「寅次郎」と署名するようになり、いつしか私を「寅さん」と呼ぶ友人も出てきた。退職の通知をした他新聞社の親しい記者からはこんなメールも届いた。

「少し落ち着いて考えてみると、結構前からいつかそんなときが来るようなが予感がしていたのでした。いずれにしても、寅さんのことですから、みんなをあっと言わせる新たな道を進まれることでしょう」

期待には応えられないと思うけど、地道に励むことを約束します。『男はつらいよ』第5作には「地道な暮らしってのはいいなあ」なんて、旅人らしいセリフもありますので・・・。

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