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Bリーグについて67

2021-05-14 00:01:15 | バスケ(Bリーグ・代表等)

 リスペクトコラムです。
 少し前にキープしていたネタ記事のうちの1つです。テレビ東京(テレビせとうち)で3月6日(土)に放送された「SPORTSウォッチャー」の特集「Humanウォッチャー」です。これはいいと思い、慌てて録画ボタンを押しています。普段全く馴染みのないB2仙台ですが、今回グっと距離感が縮まりました。
   
【震災10年 マー君も手倉森も 東北を盛り上げる男たち B1仙台(仙台89ERS)社長 志村雅彦】
「(志村社長は)かつてはチームの看板選手でMr.ナイナーズと呼ばれた。監督に就任したのは去年5月。妻は地元TV局のアナウンサー。2児の親の38歳。慶応大学環境情報学部卒で、その思考力は現役時代はコートで使ったが、今はチームと地域のために使う。この日は南三陸町へ。
 仙台を本拠地とするチームだが、震災以来県内各地でホームゲームを行い、地域とのふれあいを続けている。今年もコロナ禍、南三陸町での公式戦を開催。

志村:「10年目になるが、地域の皆さんにしっかりと感謝を伝えて、今年は仙台市以外でもホームゲームを開催して、地域の皆さんに感謝を直接伝えたい。プロの試合を見せて、今なかなか仙台に来ることも仙台に移動することも、皆さん少し制限している中でも自分達が足を向けて行くことで感謝を伝える。」
   
 被災地を中心に「NINERS HOOP」と名付けた様々な地域貢献活動を行っている。Bリーグでも「HANDS UP! PROJECT supported 日本郵便」と題し、震災の被害が大きかった地域の活動をサポートしている。感染対策をしながらの活動は苦労が尽きない。予算のやりくりも頭が痛い。だが、それでも。

志村:「震災以降、特にそうですけど地域に対するというか、仙台・宮城に対する思いというのが更に強くなっていますので、あの当時のことを知っているのは、もう僕しかいないのでクラブの中には。自分が先頭に立って、このクラブが今後の10年後であったりとか、今までの10年をしっかりと感謝して、地域の皆さんに感謝しながらこの先に繋げていくのが僕の役割と思っている。」

 HOOPとは輪という意味。バスケを通じて人の輪を広げたいという思いがある。南三陸町でも年に一度の機会。だが今年は例年とは事情が違う。コロナ禍で外出自粛のムードがあり、どれだけ観客動員に影響が出るのか。
 慶応大学時代の伝手を頼れば、引退後に他の勤め先も探す事もできたはず。だが志村はそれを選ばず、苦労を覚悟で社長を引き受けた。なぜか。それもまた運命だったのかもしれない。生まれも育ちも仙台市。10歳でバスケを始め、仙台高校で全国大会連覇。2008年、25歳でB1仙台に入団。160cmという小柄な体格ながら闘志あふれるプレーで、中心選手へと成長。「ミスターナイナーズ」その名前が定着した頃、それは起きた。

志村:「ちょうど大きい揺れを感じたのが、僕らはアウェーの遠征に行くバスの中だった。その時宮城県内のSAで休憩していた時だったので、僕はバスの中にいたが、バスが倒れるのではないかという大きな揺れを感じた。バスのTVから仙台空港や仙台の沿岸部に津波が来て、街を飲み込んでいく姿を目の当たりにした。」

 東日本大震災、それがその後のプランと奇跡の入口だった。
志村:「当時の代表だった中村さんに、その当時のホームアリーナであったカメイアリーナが被害にあっているし、なかなか試合を興行を続けていくのが難しい可能性があるという話をされて、しばらくチームとしては活動できないかもしれないと。」
   
 試合も練習もできなくなったチームは地震発生から3日後にチーム解散を決める。所属選手は他チームに移籍する事になり、志村は沖縄のチームに移る。だが、チーム愛は貫く。89ERSを象徴する89番を背番号にしてプレーしようと志村が提案。多くの選手がそれに応じた。

中村社長(当時)「正直涙が出てきました。選手たちが他のチームのユニフォームを着ているとはいえ、「やはり仙台の選手だ」という思いは私はありましたので、そういう選手たちが仙台を支援して欲しいと思って「89」をつけてくれたというのは非常に嬉しく感じました。」
   
被災地にプロスポーツは必要なのか、重い問いかけに答えたのは仙台市民だった。チーム存続を訴える署名活動を開始。集まった署名は2万以上。支援金も集まり、スポンサーも現れた。あとは選手次第。全国に散った選手たちがどうするか。将来性を見れば戻らない方が得策とも言えた。

志村:「本当に、戻ってきて欲しいというのを周りの方に多く声をかけてもらって、こういう時に自分が生まれ育った街で、これからじゃあもう1回歩みだそうという時に、自分自身は仙台でプレーすべきだなと思った。こんなにも必要とされて、自分でしかできない仕事をこれからやっていかないといけないと思った。なかなかそういう機会は無いと思ったので、自分が仙台でプレーする事で、復興の歩みを進めて行けるならば、バスケ選手として1人の人間としてこの地域に対して恩返しできるチャンスと思ったし、仙台でプレーする事が全部前向きになると思って決断した。」
   
 まだ外に瓦礫の山が残る2011年10月に半年余りの時を経て、チームは活動を再開した。あの日聞いた歓声は忘れない。バスケにできる事がはっきりわかった。その信念を今も持ち続けている。
 南三陸町でのホーム戦の翌日、仙台市内(震災遺構 仙台市立荒浜小学校)に志村の姿があった3月11日にこの一帯に植樹を実施。チームカラーの黄色のキンモクセイで、地域を繋ぎ未来を繋ぐ。その理念はこれからも変わらない。植樹したキンモクセイはBリーグが開幕する10月頃に花を咲かせる。
   
志村:「震災が発生して多くの方に助けていただいて、自分が活動させてもらっていて、誰かのために自分ができることというのをやっていこうと思ったので、本当にこの地域、仙台・宮城の方のために自分は生かされているものとして、それを繋いでいく。助け合いだったりとか、みんなで協力していくこの文化が本当に復興の速度を早めてくれたと思うし、失ったものも大きかったですけど、僕らがあの時教訓として得たものは、人の温かさであったりだとか助け合いの精神というものは忘れないで自分が繋いでいきたいと思っている。」

 という内容でした。まず目を引いたのが、仙台さんはホーム戦の会場を県内各地でやっている点。B3岡山でさえ、今季は試合会場数はグっと絞られて主に岡山か津山でした。でも仙台さんは多くの会場で実施している。B2リーグはホーム集中開催という制約があると思っていたのですが、実際は違っていたんだと。南三陸町での開催は岡山でいえば真備町でやるようなもの。
 志村社長の口からよく「感謝」という言葉が出てきていました。そこには数字ばかり追う商業主義の色は全くありません。「NINERS HOOP」のHOOPは輪という意味という事で、出てきましたね。そういう意味ではトライフープという名前は誇れるいい名前ですね。

 震災のために一時解散に至っても、ファンが署名活動で再びチームを蘇らせる、それに応えて条件が悪くなっても仙台に帰って来るというのもいい話ですね。ふと、豪雨災害の真備の時はこういうドラマは何も無かったな、どうしてなんだろと思ってみたり。震災遺構にモニュメントを寄贈か、これも豪雨の時の岡山には無い景色だ。
 仙台さんは今まではアメリカのようなアリーナ、ゼビオアリーナのイメージが強く、恵まれているBクラブというものですが、実はJ1仙台と同様に地域に密着して頑張っているクラブなんですね。しかもB2。てっきりB1と思っていました。観終わった後に思ったのは、例えば来季(B3優勝でB2昇格を決めたらそのまま来季B2なのかな)試合相手になるのかなと。この番組でかなり馴染み感が強まったので、ぜひ早く生で仙台さんを観たいなと。
B2仙台公式HP:https://www.89ers.jp/
#がんばろう日本 #ThankYouHealthcareWorkers #ThankYouCaregivers 

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