穂村弘 2012年 講談社文庫版
私の好きな歌人・穂村弘の書くものは、面白い。
視点っていうのかな、おもわぬ発想による表現があるから。
たとえば、記憶をなくすほど酒を飲んでも死なないひとがいるけど、自分だったら、とっくに死んでるような気がするという著者は、
>何十年もべろんべろんの人々がそうならないのは、彼らのヒトゲノム上に『べろんべろん、でも大丈夫』の情報が書かれているためではないだろうか
なんて言い方をする、こういうとこが面白い。
このエッセイ集は、雑誌とかに2005年から2009年くらいまでに載ったものが集められている。
おおまかに分けると、なかみは2種類の文章が含まれてて、ひとつは著者独特の、これまでも書かれてきた、自分と周りの世界の違和感のようなものについて。
どうして、みんなは日常のあらゆる場面で自然にふるまえるんだろう、自分はとても怖くて最初の一歩が踏み出せない、みたいな感覚。
中学生のころから、自意識が強すぎて困った、それを抜け出すのに25年かかった、なんて白状してる。
読むと、あー、分かる、って思うとこあるんだけど、たとえば初めて『人間失格』を読んだときの
>負けた、と思う。どんな技が来るかわかっていたのに投げられてしまった柔道選手の気分である。
なんて感想の語られかたしちゃうと、共感もつというか、同類だなーなんて感じてしまう。
もうひとつのテーマとしては、めずらしくというか、ありがたいことに、言葉・文章についていろいろと書かれいてる。
いままでも“オートマティックな表現を避けろ”とか、短歌に関するテクニックをちらっと見せてくれてたことがあるけど、なるほどなーと思わされる。
著者自身は、散文を書くと、短い分量のものでも前半と後半で矛盾が生じちゃったりするというミスを犯すらしいが、その原因を、
>これは書き手としての資質と関わりがあると思う。私は言葉を支配的にコントロールすることが苦手なのだ。一旦書き出した言葉はこちらの意思とは無関係に暴れ馬のように跳ね回る。「私」はその首に必死にしがみついているだけ。
と分析している。そうか、暴れ馬ぢゃなきゃ、キラッとした短歌は詠めないんだなと、欠点というより私なんかは感心しちゃう。
今回いちばん気に入ったとこは、詩とか短歌って本として読まれて(売れて?)ないって問題点から始まるとこなんだけど。
それはどうしてかというと、わからないから、ではないかと。
そのへんを
>今の読者にとって「わからない」ことへの抵抗感はとても強いのだ。確実に「わかる」ところに着地することが求められている。その結果、近年は小説などでも、「泣ける」本とか、「笑える」本とか、感情面での一種の実用書のような扱いになっている。
と指摘してる。
言語表現を支える二つの要素は「共感」と「驚異」なんだが、泣けるとか笑えるとかって観点で本を求める読者は、共感だけが欲しくて、驚異なんか求めてないんだ、とも言ってる。
ふつう若いうちは驚異を求めるんだが、近年の若者の言葉に対する感覚は、圧倒的に共感寄りにシフトしている。
>「驚異」を求めて無謀な賭けに出る者がいなくなると世界は更新されなくなる。彼らの言葉の安らかさは、より大きな世界の滅びを予感させるのだ。
って穂村弘の指摘、まじめに重要だと思う。
私の好きな歌人・穂村弘の書くものは、面白い。
視点っていうのかな、おもわぬ発想による表現があるから。
たとえば、記憶をなくすほど酒を飲んでも死なないひとがいるけど、自分だったら、とっくに死んでるような気がするという著者は、
>何十年もべろんべろんの人々がそうならないのは、彼らのヒトゲノム上に『べろんべろん、でも大丈夫』の情報が書かれているためではないだろうか
なんて言い方をする、こういうとこが面白い。
このエッセイ集は、雑誌とかに2005年から2009年くらいまでに載ったものが集められている。
おおまかに分けると、なかみは2種類の文章が含まれてて、ひとつは著者独特の、これまでも書かれてきた、自分と周りの世界の違和感のようなものについて。
どうして、みんなは日常のあらゆる場面で自然にふるまえるんだろう、自分はとても怖くて最初の一歩が踏み出せない、みたいな感覚。
中学生のころから、自意識が強すぎて困った、それを抜け出すのに25年かかった、なんて白状してる。
読むと、あー、分かる、って思うとこあるんだけど、たとえば初めて『人間失格』を読んだときの
>負けた、と思う。どんな技が来るかわかっていたのに投げられてしまった柔道選手の気分である。
なんて感想の語られかたしちゃうと、共感もつというか、同類だなーなんて感じてしまう。
もうひとつのテーマとしては、めずらしくというか、ありがたいことに、言葉・文章についていろいろと書かれいてる。
いままでも“オートマティックな表現を避けろ”とか、短歌に関するテクニックをちらっと見せてくれてたことがあるけど、なるほどなーと思わされる。
著者自身は、散文を書くと、短い分量のものでも前半と後半で矛盾が生じちゃったりするというミスを犯すらしいが、その原因を、
>これは書き手としての資質と関わりがあると思う。私は言葉を支配的にコントロールすることが苦手なのだ。一旦書き出した言葉はこちらの意思とは無関係に暴れ馬のように跳ね回る。「私」はその首に必死にしがみついているだけ。
と分析している。そうか、暴れ馬ぢゃなきゃ、キラッとした短歌は詠めないんだなと、欠点というより私なんかは感心しちゃう。
今回いちばん気に入ったとこは、詩とか短歌って本として読まれて(売れて?)ないって問題点から始まるとこなんだけど。
それはどうしてかというと、わからないから、ではないかと。
そのへんを
>今の読者にとって「わからない」ことへの抵抗感はとても強いのだ。確実に「わかる」ところに着地することが求められている。その結果、近年は小説などでも、「泣ける」本とか、「笑える」本とか、感情面での一種の実用書のような扱いになっている。
と指摘してる。
言語表現を支える二つの要素は「共感」と「驚異」なんだが、泣けるとか笑えるとかって観点で本を求める読者は、共感だけが欲しくて、驚異なんか求めてないんだ、とも言ってる。
ふつう若いうちは驚異を求めるんだが、近年の若者の言葉に対する感覚は、圧倒的に共感寄りにシフトしている。
>「驚異」を求めて無謀な賭けに出る者がいなくなると世界は更新されなくなる。彼らの言葉の安らかさは、より大きな世界の滅びを予感させるのだ。
って穂村弘の指摘、まじめに重要だと思う。
