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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

整形前夜

2013-04-12 08:53:15 | 穂村弘
穂村弘 2012年 講談社文庫版
私の好きな歌人・穂村弘の書くものは、面白い。
視点っていうのかな、おもわぬ発想による表現があるから。
たとえば、記憶をなくすほど酒を飲んでも死なないひとがいるけど、自分だったら、とっくに死んでるような気がするという著者は、
>何十年もべろんべろんの人々がそうならないのは、彼らのヒトゲノム上に『べろんべろん、でも大丈夫』の情報が書かれているためではないだろうか
なんて言い方をする、こういうとこが面白い。
このエッセイ集は、雑誌とかに2005年から2009年くらいまでに載ったものが集められている。
おおまかに分けると、なかみは2種類の文章が含まれてて、ひとつは著者独特の、これまでも書かれてきた、自分と周りの世界の違和感のようなものについて。
どうして、みんなは日常のあらゆる場面で自然にふるまえるんだろう、自分はとても怖くて最初の一歩が踏み出せない、みたいな感覚。
中学生のころから、自意識が強すぎて困った、それを抜け出すのに25年かかった、なんて白状してる。
読むと、あー、分かる、って思うとこあるんだけど、たとえば初めて『人間失格』を読んだときの
>負けた、と思う。どんな技が来るかわかっていたのに投げられてしまった柔道選手の気分である。
なんて感想の語られかたしちゃうと、共感もつというか、同類だなーなんて感じてしまう。
もうひとつのテーマとしては、めずらしくというか、ありがたいことに、言葉・文章についていろいろと書かれいてる。
いままでも“オートマティックな表現を避けろ”とか、短歌に関するテクニックをちらっと見せてくれてたことがあるけど、なるほどなーと思わされる。
著者自身は、散文を書くと、短い分量のものでも前半と後半で矛盾が生じちゃったりするというミスを犯すらしいが、その原因を、
>これは書き手としての資質と関わりがあると思う。私は言葉を支配的にコントロールすることが苦手なのだ。一旦書き出した言葉はこちらの意思とは無関係に暴れ馬のように跳ね回る。「私」はその首に必死にしがみついているだけ。
と分析している。そうか、暴れ馬ぢゃなきゃ、キラッとした短歌は詠めないんだなと、欠点というより私なんかは感心しちゃう。
今回いちばん気に入ったとこは、詩とか短歌って本として読まれて(売れて?)ないって問題点から始まるとこなんだけど。
それはどうしてかというと、わからないから、ではないかと。
そのへんを
>今の読者にとって「わからない」ことへの抵抗感はとても強いのだ。確実に「わかる」ところに着地することが求められている。その結果、近年は小説などでも、「泣ける」本とか、「笑える」本とか、感情面での一種の実用書のような扱いになっている。
と指摘してる。
言語表現を支える二つの要素は「共感」と「驚異」なんだが、泣けるとか笑えるとかって観点で本を求める読者は、共感だけが欲しくて、驚異なんか求めてないんだ、とも言ってる。
ふつう若いうちは驚異を求めるんだが、近年の若者の言葉に対する感覚は、圧倒的に共感寄りにシフトしている。
>「驚異」を求めて無謀な賭けに出る者がいなくなると世界は更新されなくなる。彼らの言葉の安らかさは、より大きな世界の滅びを予感させるのだ。
って穂村弘の指摘、まじめに重要だと思う。
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横浜公園=スタジアム

2013-04-09 20:15:56 | 横浜散策

横浜公園って、市の公園なんだけどさ。
敷地内にあるone of 施設である横浜スタジアムが主だと思ってるひとが多いのでは。

いまの時期は、園内のチューリップが満開でキレイです。

中途半端ぢゃなくて、もう、これでもかーってくらい咲き誇ってんで、俗っぽいの好きぢゃない私でも、素晴らしさは認めます。


野球の試合のないときのほうが、私は好きですね、ここ。
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ひさしぶりに、馬に乗る

2013-04-08 20:55:22 | 馬が好き
きょうから新学期というひとも多いんぢゃないでしょうか、なんていうカーラジオを聞きながら、私も今日から新しいとこで乗馬を習うために出かけてく。
思えば過去7年間、撫でようと思ったらスグそこに(最後の1年にいたっては住んでるとこのトナリw)馬がいたのは、恵まれてたんだなー。
こんどは車で45分かけてワザワザ行かなきゃならない。
月曜日は、集合時刻っていうよりも、9時半までに馬場に出なさいというキメらしいんだが、なんせ初めてなんで早めに着こうとこころがける。
ここは、私の乗馬歴の始まりの場所なんだけど、練習となると約20年ぶりということになる。
なにがどこにあるか教えてもらってから、馬を引き出す。

きょう乗る馬は、ピアノマン。
聞いたことない名前なんで、「内国産乗用馬か何か?」って訊いたら(ヨーロッパ乗馬には見えない)、サラブレッドって答えが返ってくる。へー、そーなんだ、いずれにせよおとなしいのは何よりだ。
きょうは同じ馬に先に乗るひとがいて、私は二鞍目なので、馬装手伝って送りだしたあと、ヘルメットとか借りてから歩いて馬場へ行く。
どーでもいーが、こーんないい天気なのに(紫外線キツイかなって思ったくらい)、インドアで乗るって、信じらんない!
まあ、かくいう私も、それこそ20年前はインドアでしか乗ったことなくて、その後ブランクを経て復帰したとこも年中インドアだった。
で、4年前に初めて本格的に屋外で乗ることになったときは、最初は風の音がしても、怖かった。
でも、慣れちゃえば、やっぱ外のほうが開放感あって、楽しいと思う。(雨や雪さえ降んなきゃの話だけどね。)
馬だって、外のほうが楽しいだろうに(笑)
よく言われることに、インドアで障害競技とかやるのは、勢いよく走らせんの結構大変だったりする、らしい。

ところが、この日も、先生たちが障害の練習をしてるんだが、私から見たらありえない高さにして、バンバン飛んでいく。すごい。
さて、ホゲーっと見てたら、いよいよ乗り代わり。1か月ぶりだからね、気をつけないと。
端のほうの区切られた一角に入りたかったんだけど、ラチ閉められちゃったんで、しかたなく広いほうで。
あいかわらずバンバン飛んでる人馬もいるんで、ジャマんなんないように(←助走のラインが読み切んないから)、そっち近づかないように回る。
上手なひとが先に乗ったあとなので、私が乗った時点で、すでに馬は前に出てる。これでやることは半分以上無いと言っていい。
(馬が前に出てからが乗馬なんだけど、馬をそこまでやる気にさせるのは、場合によっては大変だったりする。)
んぢゃ、常歩で、ほらウケてみ、ってやってみる。ありゃりゃ、うまくいかない。
手綱の長さ変えてみたり、脚つかってみたり、いろいろやりながら、こっちおいでって拳使うんだけど、だめだ、引っ張り合いになっちゃう。
んー、まあ適当にやるかと、軽速歩。動く動く、動きと反応は申し分なし。
ときどき回転を入れながら、ハミうけをさぐるんだけど、どうもうまくできない、動いてはくれるけど言うことはきいてくれてない感じ。
回転は、比べてみれば右手前のときのほうが、ちょっと外に張り出すかなって感じ。左手前ではクビを内に向けるように、内方姿勢を丁寧に丁寧にって心掛ける。
ちっともうまくいかないけど、馬場もすいてきたこともあるし、いちど常歩にしてストップ・ゴーを再確認して、輪乗りで、駈歩をだす。
すこし詰めたり伸ばしたり、輪乗りをつめたり開いたり。
動いてるんで、輪乗りから蹄跡に出て、長辺で伸ばしたり、反対側では詰めたりってやってみる。横木は2本置いてあったけど跨がないで、横を通って、最初はその間隔を7歩だったので、次に出してったときは6歩になるようにしてみる。
それにしても、座れてないなー。アブミが脱げたり深く入ったり。ダメだ、こりゃ。
ちょっと休憩、でもすぐに常歩で、ハミうけてみ?ってやってみる。あいかわらず、うまくいかない。
力比べしたってしょうがない、もっと繊細なタッチが必要だな。
ジワっとはたらきかけて、ゆずるとこに細心の注意をはらう。
そこ?いま納得してる?って返す。
カンペキぢゃないけど、ちょっとした均衡状態ができるとうれしい。…これはミラノに教わったこと。
なんか座れないから駈歩はやめとこ、と思って、軽速歩を再開。
それはそうと、素手で乗ってたら、左の薬指の皮がむけちゃったから、手袋をする。
実は、手袋もってきたの、馬場に入ってからよく見れば、色が同じ(白)ってだけで、別々のモノの左右だった、まあ左か右だけを二つ持ってきちゃうよりはマシだけど、はぁー。
それにしても、皮むけたとこをみれば、第一関節のとこなんだから、手綱の持ち方が根本的におかしいんだよね。(以前からそうだった。)
まあ、私の指のことはいいや、広くまわりながら、伸ばしたり詰めたり。
スピードアップするときの反応はものすごくいいし、スローダウンするときも微妙な抑え方ですぐ言うこときいてくれる。
スローペースを維持するときに、力を使う必要がなくなってきた、リラックスしながら歩度を維持。
そうやって余裕がでてくると、忘れてた「言葉を口から出す」ことを始めるようになる。「巻き乗りするよー」とか「はい、直線、伸ばすよー」とか。
アブミあげしたかったんだけど、ちょっと馬の肢の調子よくないって聞いたんで、私のドスンドスンする正反撞はかわいそうかなと思い、やめとく。ちなみにパンとしてれば、障害110センチを超えて飛んでくらしいんだけど。(私ゃ飛びたくないが。)
最後、鏡の前を通って見てみたけど、だめだな、やっぱウケてるカッコにすらなってない。もうちょっと前に倒れるくらいのバランスでいいのかなとも思う。
「どうですか?」って訊かれるんだけど、答えようもないので、ひさしぶりなんでよくわかりませんと言う。
なんか技術的には去年の途中から下降線をたどってるような気がする、自分では。

練習のあとは、馬の手入れして、終ったら、例によってリンゴやってみる。
あれ?食わない? だから、サラブレッドはダメだっていうのw

しょーがないんで、隣に並んでて、クビだしてこっち見てる馬たちにやる。みんな喜んで食う。
それを見て、ピアノマンは、前ガキを始めるんだけど、ほら食えって差し出すと、食わない。
なんだかなあ。

でも、こうやって馬のいる風景、とても楽しい!
コメント (2)
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東京奇譚集

2013-04-04 21:31:11 | 村上春樹
村上春樹 2005年 新潮社
なるべく順番に読み返してる村上春樹。
近々、新作も出版されるみたいだけど。
これは、長編「海辺のカフカ」(こないだ読み返した)、中編「アフターダーク」のあとに出た、短編集。
「偶然の旅人」
ゲイのピアノの調律師と、書店のカフェ(あるのだ、そういうものが)で出会った小柄な女性を中心にした話。
「ハナレイ・ベイ」
息子がサーフィンをしているときに鮫に襲われて死んだ、ピアニスト・サチの話。
これ、いい。読み返すまで忘れてたけど、すごくいい短編。
「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
失踪した夫を探す相談を受けた「私」の語る話。
マンションの24階に住む義母のところから、自分のウチである26階まで上がる、階段の途中で彼は行方不明になってしまったと思われる。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
主人公の淳平は小説家。父から「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」という哲学を言い渡される。
31歳のときに出会った年上の女は魅力的だった。何をしてるかわからない、とてもミステリアスな感じの彼女。
彼女とのベッドの中での会話で、淳平は、腎臓のかたちをした石を拾って持ち帰る医師の話を、小説のネタとして考えていると、持ち出す。
「品川猿」
日常的な場面で、突如自分の名前が思い出せなくなるという現象に悩まされる、安藤(旧姓:大沢)みずきさんの話。
夫にも相談できない、そんな自分の症状に悩んでいる彼女は、品川区役所の「心の悩み相談室」に行って、カウンセラーと相談しているうちに解決に近づく。
…って、なーんか独特の短編ばっかり。ちなみに、著者:村上春樹氏は、インタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」のなかで、この短編集について、「いくつかのキーワードをざあっと紙に書き並べて、そこから三つずつ選んで、それをもとにひとつの短編を書くという作業をやっていたと思います」って言ってる。いわゆる“三題噺”か。それで、こんな面白いものが書けるんだから、すごいんだけど。
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ドーン

2013-04-03 20:54:50 | 読んだ本
平野啓一郎 2012年 講談社文庫版
こないだ『空白を満たしなさい』を読んで、気になってたんで、読んでみた平野啓一郎の小説。
『空白を~』でいきなり出てきて面食らった「分人」、ひとつにまとまった個人ぢゃなくて、その相手ごとに使いわけるような分人という概念について詳しく書いてある。
(やっぱ時系列で読まないとダメなのかな、同時代の小説って?)
たとえば、源氏物語を例にとって、
>主人公の光源氏は、究極のプレイボーイで、複数の女性のための分人dividualを内に抱え込んでいる。個人individualが対人関係ごとに完全に分化divideしていますが、これは、現代の日本人にも特徴的です。誰と一緒にいるかで、彼らは人格がコロコロ変わります。
とか、登場人物の夫婦間の会話という形を借りて、
>〈分人〉って言ってるそのdividualは、〈個人〉individualも、対人関係ごとに、あるいは、居場所ごとに、もっとこまかく『分けることができる』っていう発想なんだよ。(略)…相手とうまくやろうと思えば、どうしても変わってこざるを得ない。その現象を、個人indivisualが、分人化dividualizeされるって言うんだ。で、そのそれぞれの僕が分人dividual。個人は、だから、分人の集合なんだよ。
とかって、わかりやすく(?)説明している。
物語のほうは、2030年代が舞台の、いわばSF。
人類史上初めて火星の地に降り立った日本人宇宙飛行士が、主要登場人物のひとり。
(ちなみに本作が発表されたのは2009年だけど、舞台のなかの日本は“東京大震災”のあとって設定。)
それと、アメリカ大統領選挙をめぐる情報戦(よく日本人にこんなことが書けたもんだ)とか、いろんなテクノロジーを駆使したテロの陰謀とかが盛りだくさんの、スケールでかい感じ。
謎めいた人物の暗躍するさま、正体は一体何者だかわかんなかったりする仕掛けは、ちょっと「お、フィリップ・K・ディックみたい」なんて思いながら読んでた。
いずれにせよ、ハードもソフトも進歩したせいで、瞬時にさまざまな情報がかけめぐる近未来像は、けっこうクラクラする。
そうなると、人なんて存在は弱くて、
>そもそも記憶などというものは、個体が、ただ自らの生存のために発達させた機能であって、他者と共有するということ自体に、最初から無理があるのだった。だからこそ、記録メディアが発展したんじゃないのか?
なんて一節にあるように、主観はあてになんないというか確実かどうか不安なもので、映像とかネット上の情報として確かめられなきゃ本当のことぢゃない、って感じなんだけど、それは今でもそういう風潮あるよねえ、なんて思うわけだ。
終盤のほうで、
>あなたは、情報の過剰摂取で身動きが取れなくなっている。ダイエットしましょう(略)良い思想を摂取し、体を動かしましょう!行動して、摂取した情報を消費することです。
ってセリフがあるんだけど、ここ読んだときは、ちょっと救われた感じがした。
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