many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

井上ひさしの日本語相談

2023-06-09 20:23:56 | 読んだ本

井上ひさし 1995年 朝日文芸文庫版
国語改革がどうこうという本に引き続いて読んでみた、ただしこちらはぐっとくだけた感じで私にとっては娯楽的。
日本語相談シリーズは前に丸谷才一版大岡信版を読んだけど、ことし2月ころだったか地元の古本屋の均一棚で見つけたんで買ってみた、「パロディ大全集」シリーズを読んだりしたこともあって、著者の日本語相談はどんな感じなんだろうと気になったもんだから。
まず、たとえば、とかく日本語で話題になる漢字について、いろんな漢字に同じ訓(よ)みが与えられてる「異字同訓」の問題を、前に読んだ高島俊男さんは使い分けなくていいんだみたいに言うんだけど、
>さて、日本語の表記が漢字の借用に始まったことはどなたもよく知っておいでだろうと思います。その際、たとえば「なく」という日本語が、中国語では複数の語「泣・鳴・啼・哭」などに分かれていることを発見、それをそっくり借用しました。(略)そして使い分けているうちに、その意味文化は日本人の血肉となりました。たしかに、ある語を意味や用法によって書き分けることは、漢字の使い方を複雑で煩わしいものにしたのは事実でしょう。がしかしこの書き分けは日本語をずいぶん豊かにしたのではなかったか。日本語は視覚型の言語ですが、異字同訓はその視覚性を支える大事な柱の一本だろうと思います。(p.163「異字同訓は制限・禁止でなく目安」)
というように解説してくれてる。
日本語は視覚型の言語ってのは、なんかハッとさせられるようなとこ突いてるんでは。
新聞のスポーツ面の見出しに「あて字」があふれてるのは許されるのか、みたいな相談に対しても、あて字は日本語の単語を漢字表記するための策で、万葉集で「恋」を「孤悲」と書いたりとか大昔から例がたくさんある、歌舞伎狂言の題なんか「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」とかって調子だとして、
>仮名表記とは段違いの意味喚起力や視覚的表出力がありますね。あて字は日本語を「見る言語」として完成させた有力な助ッ人なのです。
>(略)やはり日本語の本質は(少なくとも漢字を使用するかぎり)「見る言語」というところにもあるわけで、そのエネルギーがスポーツ欄の見出しに噴出している。(略)
>そういうわけで私は、あて字は一種の民間文芸のようなもの、いくらでも許されていいと呑気に構えています。(p.175-176「あて字は「見る言語」のエネルギー」)
というように容認している、ここでもやっぱり視覚型の言語ってわかってることが、漢字のそういう使い方を肯定する理由になってる。
読んでみて、全体的な印象としてもったのは、著者はあまり、いわゆる正しい文法とか本来の用法とかに固執しない、ってことで、それは、だって言語ってのは使われてくうちに変わってくんだもん、みたいなスタンスに立ってるからではないかということ。
たとえば、「「繋ぐ」という動詞を「繋げていきたい」と使う人がいるが、正しくは「繋いでいきたい」ではないか」みたいな相談に対して、ことばには「ゆれ」がある、それはあっていいので認めてよいのではというように回答する。
>(略)「二つ以上の言語形式が、同一の場面に共存、共生するんですよ」となりましょうか。そして、国語学者たちは、この現象のことを「ことばのゆれ」といっています。(p.209-210「「繋げていきたい」は許されるか?」)
として、まず音韻がゆれていて、「やっぱり~やっぱし~やはり」のどれでも使われているというような例をあげ、アクセントも語彙もゆれているといい、
>表記もゆれています。(略)「やわらかな(い)肌」(形容動詞)、「よい(いい)人柄」(形容詞)、「だんだん(に・と)よくなる」(副詞)など、その気で周囲を見まわすと、どこもかしこもゆれています。(略)
>ことばを規則づめにしては、かえって不便です。そこで、表現の多様性を許容できる程度に、規則がゆるくつくってあるのだとおもいます。動詞の活用もまたしかり、二種類の活用形式を並存させていることが多いのです。(略)
>「繋げる・繋ぐ」も、この下一段(繋げる)と五段(繋ぐ)の関係、そこで、「繋げていきたい」という言い方も、認めてあげてよいのではないでしょうか。(p.210-211)
というように解説してるんだけど、規則づめでは不便だ、ってのは学校の授業ではなかなか言いにくい達見なんぢゃなかろうか。
ちなみに、別の章で、「いい天気」「いいタイミング」などというとき「いい」と「よい」のどちらが正しいのでしょうか、という質問があるんだけど、
>どちらも正しい。そこで、二本立てで使いこなして行くのがよろしい。これが答えです。(略)この微妙な違いを使い分けることは大切ですが、ひとまず、どちらも正しいと心を据えるのが肝腎です。(p.225-226「いいとよいはどちらでもいいのか」)
と明確に答えてる、どちらも正しいって言い切るのは気持ちのよい回答だと思う。
「いい」は口語っぽいとして、そのあとの箇所では、
>漱石の『坊っちゃん』では、(略)この痛快な小説の主人公はどんなときも、「いい」で押し通しています。「よい」は決して使わない。この小説は江戸弁の口語体で書かれていますから、主人公の口調に「よい」が入り込む隙がないのです。(略)
>「いい」が口語的だという証拠をもう一つ挙げると、二十数年前に、若い人たちに流行った「いいじゃん」、あれは「よいじゃん」でもよさそうなのに「いい」の方に付きました。「じゃん」が、どっちがより口語的かをちゃんと嗅ぎ分けたのだと思います。(p.226-227)
みたいに書かれてる、なるほどねと思わされる。
さらに「いいじゃん」についての話では、こういう言い方は方言だと思うけど共通語化していいのか、という質問に答えてる章があって、
>ところで話し言葉の世界でもうひとつ厄介なのは文末の問題です。言いたいことは文末の手前ですべて言い切ってしまった。その上さらに「……だよ」「……だと思うよ」「……だろうじゃないか」といった文末をつけ加えるのはうっとうしい、また強すぎる。このとき神奈川方言をもってきて文末を「じゃん」にしてしまうのはなかなかの智恵だと感心しました。流行言葉にばかに甘いようですが、消えていくべきものはやがて消えていくはずですし、筆者にはあまり気になりません。(p.83-84「「すみません」だらけの世の中に?」)
と答えている、消えていくものは消えていくという達観がもちろんいいし、ほかの章でも、言語ってのは書かれた文章だけぢゃなくて、話し言葉の世界ってのがすごく重要って論調がみられるのは注目すべきとこだと思った。
べつの質問では、形容詞の連用形を副詞的に用いることができるが、若い人などが「すごい楽しい」「すごい好き」など終止形で使っている、「すごく楽しい」「すごく好き」と連用形を使うべきでは、ってのがあるんだが、
>おっしゃるように、「すごく楽しい」「すごく好き」が正しい言い方です。終止形「すごい」をそのまま副詞的に使ってはいけない。
>ところが、厄介なことに、もう一つ、「ほんとうは誤りであっても、それを使う人がふえて、社会的に承認されれば、その誤りは、言語体系の中へ組み込まれていく」という大原則があります。
>「すごい楽しい」という言い方がとても流行しているようですから、少なくとも、話し言葉の場面では、やがて市民権を得ることになるでしょう。言葉は、社会的な約束の大きな束です。人びとの間に「その言い方を認めようじゃないか」という暗黙の約束が結ばれると、誤用が誤用でなくなってしまいます。(p.197-198「「誤用」が社会的に承認されるとき」)
という答えをしている、正しくなくたって通じちゃえばしょうがない、って大原則、ふつうはなかなか認めたくないのかもしれないけど、そのへん太っ腹ですね。
なお、「すごい楽しい」って本来はまちがってるはずの言い方が流行した理由を考えて、
>(略)わたしたちは、いつも新しい言い方を求めていますから、その好みにあっているのかもしれません。そして、なによりも、わたしたちは、「正しい言い方」の味気なさを知っています。これは、その味気ない正しさへの、ちょっとした悪戯なのかもしれない。わたしは、そう思って諦めているのですが。(p.200)
みたいにいうんだけど、正しい言い方が味気ないってのは、こうして改めて言われないと意識してなかったかもしれない、なるほどねえ。
さて、どうでもいいけど、本書に載っていた質問のひとつに、
>通訳をしていて、「他人の褌で相撲をとる」という発言を、とっさに「他人のパンツでレスリングをするな」と訳しました。後になって考えてみると、これは明らかに誤訳で(略)(p.29「他人のパンツでレスリング?!」)
ってのがあって、質問者名が「東京都大田区・ロシア語通訳」ってなってるんだけど、これって米原万里さんだろ絶対、って、ちょっと驚いた、っつーか笑った。(調べてみたら『ガセネッタ&シモネッタ』の「フンドシチラリ」という章にそういうエピソードがあった。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする