2022年1月11日(火)
6年前の恵比寿さんの日には、空海様が行った長安(現 西安)に行っていましたが、今回は8~10日の3日間、熊本の故郷へと行っていました。
黄金をキャッチした場所で上を見上げると・・、私には龍神の雲に見えましたが・・、その後の出来事からして間違いなく龍神だったと思っています。
この世は正に神様の世界です。
そして超古代の故郷には、間違いなく山頂国家が形成されていたと言う痕跡だらけでした。
偶然にも縄文時代の古墳と思われる土盛りも発見することができました。
この場所では目的は違うものでしたが、それを測定し終わって振り向きざま偶然に発見したものでした。
・・なんで分かるのか!?と聞こえてきそうですが、先ずはすかさずテラファイトコア・ロッドが反応したからでした。
これ以上は詳しく書けません。ご容赦くださいませ。
これは個人的にそっと・・しか話せません。聞こえるか聞こえないほどに・・・
故郷は、超古代の匂いプンプンでした!
きれいな山々が・・ありました。嬉しかったですねぇ。
嬉しくなって、コア・ロッドを向けてみましたぁ。!
2022年1月10日(月)
空海の足跡をたどって西安へと行きましたが、もうあれから6年もの時間が流れました。
空海が暮らした西明寺があったと言われる場所へも探して行きました。
突然、兵馬俑を見ることになり、「秦氏の謎を解け!」と言われたよう気がしましたが、やっと秦氏の謎も解けたように思える昨今です。
そしていよいよ今年はその立証をする年になるのではと思っている私です。 春までにはチャレンジしたいと思っています。
2020年4月10日(金)
特に空海は、藤原不比等の遺言及び、藤原直系である桓武天皇の命を受けて、忠実にその任務を遂行した。
又、嵯峨天皇も空海と共に藤原プロジェクトを遂行したのである。
弘法大師廟では、手を合わせて祈る先は京都府南丹市山中にある藤原不比等の墓であるが、
卑弥呼の墓と藤原不比等の墓と、高野山弘法大師廟は、ケプラー三角形を描く配置である。
桓武天皇の亡骸も、タレスの定理のポイントに埋葬された。
空海は、長安から帰国し、嵯峨天皇の命を受けて真っ先に京に入って務めた寺は高雄山寺であった。
その高雄山寺のすぐ目の前が、桓武天皇が眠る高雄山(428.4m)だった。
桓武天皇から生前、特命を受けた空海は、桓武天皇陵造営の任務に携わっていた。
若き空海の空白年間の最大の任務遂行ポイントは神戸である。
2020年1月
若き日、空海様は、久米寺に縁を持っている。
空海様の空白年間を解き明かすには、最低、空海様がどこのお寺に縁を持ったから解き明かさなくてはなりません。
空海は急ぎ大和国久米寺を訪れ、そこで、密教の核心を説いている「大日経」を発見したと伝えられているようですが、大日如来こそイエス・キリストのことである。
それで、久米寺とイエス・キリストの墓とを繋いで、意味ある山や神社や寺院が三角法で浮き上がるかを調べると・・!
二等辺三角形を描くポイントに、淡路島の油谷山。
そして、重要なポイントには必ず行基が関わっていますが、その行基の開基という東光寺(猪名川町)。
そしてそして、法道仙人も必ず重要なところには登場しますが、孝徳天皇勅願で法道仙人開基と伝えられる摩耶山天上寺(神戸市)が浮かび上がりました。
若き空海様は、久米寺で間違いなくイエス・キリストの真実を聞いてしまったことでしょう。
空海は大学を中退してから、空白年間が10年ほどあって・・、その内、和泉国の槇尾山寺で剃髪して・・、そして久米寺。
突然、30歳で東大寺に姿を現し、遣唐使船に乗り込み長安(現、西安)へ。
2年ほどで帰国し、太宰府庁に隣接した観世音寺に留められる。
そして又、槇尾山寺。それから高雄山寺~乙訓寺を行き来している。
実は、遣唐使船に乗る前と帰国後に、神戸の再度山大龍寺に身を寄せている。
私の不思議物語ももう10年が経とうとしている。
どうも・・空海様の空白年間と同じように動き回っていたようです。
空海様の空白年間と任務は全て教えられたようです。
2018年10月25日(木)
歴代の天皇の中でも、思い半ばでこの世を去った第50代桓武天皇と第96代後醍醐天皇浮かんできます。
後醍醐天皇陵は、奈良県吉野にありますが、桓武天皇の墓は定かでないようです。
でも私には、桓武天皇の墓は京都府にある高雄山(428.4m)だと教えます。
現在の神護寺の上になります。
空海さまが長安から帰って太宰府庁に隣接する観世音寺にいて、公に京の都に最初に入った場所が高雄山寺でした。
どうしてか・・!? これを考えれば答えは当然至極なのです。
そこには、和気清麻呂の墓もありますし、桓武天皇も眠っていますから、当然としてこの2人に指導された空海さまが、2人の御霊の供養をしたわけです。
この国の大王たちは、この世で最後の務めとして、亡骸をどこに置くかによって連綿と続く王家の人達が眠るお墓や陵墓でこの国の歴史を教えていました。
高雄山のお墓の場所にも行かされました。
最近、武部さんがしきりに吉水神社のことを書かれていますが実は、台風で荒れ狂う宗像大社へ行って不思議なことが始まった2010年8月11日から数日後の8月16日、千ヶ峰の麓に居られる有名な女性霊能者のところへと連れて行かれました。
そこで、「今日は後醍醐天皇の命日です。ほらっ、目の前に後醍醐天皇が居られます・・」と、まあ不思議なドラマがあったりして、それからほどなくして、私が信頼する友人の実家が吉野だということで連れて行かれたのが吉水神社でした。
そこでまた、後醍醐天皇の存在を知ることになり、ほどなくして綾部の大本教本部に突然連れて行かれたり、笠置山に連れて行かれたりして・・。
もう何が起きているのか、どこかの世界に引き込まれたのか、ドギマギする日々が加速していきました。
その後、「隠岐の島へ行って一番高い大満寺山へ登れ! 昔は摩尼山と呼ばれていた」と言うことで、大急ぎで隠岐の島へと行ったりして、ここでも後醍醐天皇をより強くしることになったりしました。
もうどこまでも不思議な世界にどっぷりと浸かってしまた8年間です。
もちろん吉野の後醍醐天皇陵にも行かされました。
そして、桓武天皇の墓と後醍醐天皇陵の二点から、二等辺三角形を描くポイントが、「とうりゃんせ」の唄の舞台であり、地下神殿の在処だと教えられて居ます。
なにも分からない状態から、「穴を掘れ!」と言われて穴掘りを開始した場所が、どのような祀り場所であるのかの根拠を時間をかけて教えられているようです。
実は、隠岐の島の大満寺山と後醍醐天皇陵の二点を結ぶラインに、この地下神殿の場所は見事に位置しています。
そして最近、武部さんがしきりに後醍醐天皇に関する吉野と隠岐の島のことをブログで書かれておられるので、
後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓とを見つめて浮かび上がるのが、イエス王家の人達を祀る、岡山にある天神山です。
天神山と言えば、その山を守るように配置されていた日蓮宗不受不施派弾圧の歴史の謎も教えらえましたね。
天神山~熊山遺跡~京都御所~東京の御所~から、日月神示が下された千葉県の麻賀多神社までは見事に一直線であることも浮かび上がりました。。
そしてそこから、麻賀多神社が向いている方角に、本当に岩山を「日と月」に造り上げた山を発見し、その日月の山(岐阜県)へも行かされました。
そして、後醍醐天皇陵と日月の山と、イエス・キリストの墓が綺麗な2:1:√3にほぼ近い綺麗な三角形を描くようになっているなど、関係性がある場所場所を教えられました。
後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓は、大事な大事なベンチマーク的な意味を秘めていることを教えられます。 重要な二点です!
そして今回、不思議な図形を描かされました。もうこれは、どう見ても簡易式の住居となるテントに見えてしまいます。
古代ユダヤの王たちの住まいである幕屋、ユダヤの秘宝アークを安置する幕屋の図案を描いています。
そしてその場所の位置こそが地下神殿であることを古代ユダヤの大王の血を引き継ぐ桓武天皇とご後醍醐天皇が教えています。
後醍醐天皇と桓武天皇の亡霊が動き出したようです。
武部さん、綺麗なセーマンが現れましたよ。
・・それにしても、綺麗な図形ですねぇ。
2018年9月28日(金)
円仁は、 五台山~長安へと行って日本に帰って来たのは太宰府。
太宰府からここ湯村に立ち寄ったとのことであるが、これはもう意図した場所へと急いで来たのかもしれない。
おそらくその時代(1200年前)、今の正福寺一帯は、天台山を思わせるような風景がそこにあったのではないだろうか。
円仁は、天台へと向かったが行けなかった。
偶然だろうか・・、寺へと上がる階段の方位は、中国の天台山へと向かう方位である。
意味ある場所に意味ある方角を意識して設計、建築されているのであればとワクワクする思いでコンパスグラスを握りしめて私は門をくぐった。
果たして・・ご本尊様は、どこを向いておられるのか、どこに手を合わせるようになっているのか。
円仁の思いは今に受け継がれているのだろうか・・と。
自然の川に、大きな鯉が沢山泳いでいましたねぇ。
毎年11月17日に私は、イエスの命日を選んで自ら岩戸隠れした卑弥呼を偲んで聖地神河へと、多くの方々に行っていただきました。
昨年は、福本遺跡よりイエスと卑弥呼の陵墓へ手を合わせていただきました。
今年は宇宙的俯瞰場所から、手を合わせていただきたいと思っています。
11月17日(土)姫路発です。
泊りは、湯村温泉。
そして翌日は、宝珠を持ったお爺さんの陵墓が見える里へと皆さんをお連れしたいと今、計画中です。
この季節はもう、カニのシーズンに入っていてなかなか大勢で泊まれる宿もなく、少々割高になりそうですが、
きっと皆さんに感動していただけると思っています。
最澄、空海・・そして円仁。
素晴らしい偉人達がこの国には居られたんですねぇ。
只々、頭が下がる思いです。
ありがたや ありがたや・・。
2018年9月20日(木)
んん~~ん、何なんだ!?? 何?? このへしゃげた五角形は・・???
と、ジ~~ッと見ていたら、 な~~んだ、そうだったのかぁ! と思いがやってきました。
長安に行った円仁さんと空海さまは、高野山 星の岩屋 両面薬師 横川(比叡山延暦寺) と正福寺の5つの重要な寺院や聖地を使って、
西日本に大きな大きな宝珠を描いていました。
天台宗と真言宗・・、一見まったく別の教えのように思われそうですが、実は普遍の真理の追及と教えにおいて全く同じもののようです。
道教の聖地千山に祀られている仙人は、右手に瓢箪が付いた蛇の杖と、左手には宝珠を持っていました。
そのありがたい宝珠を、空海さま所縁の地とで作り描いた円仁さんでした。
長安に行った二人の思いがいつまででも描かれているようです。
天台と真言の共演です。
最後の一か所、正福寺へと行くことで宝珠五ケ所巡礼が達成できそうです。
ああ~~ありがたや アリガタヤ ・・ 大きな大きな宝珠を授かるなんて。
この日本列島には、巨大な瓢箪が付いた蛇の杖もありましたねぇ。
2018年9月19日(水)
17日、以前から気になっていた比叡山延暦寺の横川中堂へと行きました。
慈覚大師円仁が開いたという横川(よかわ)。
根本如法塔のご本尊様が向いている方角はコンパスグラスで232度。
この方角には、空海様がお生まれになったという星の岩屋にピタリと位置しています。
偶然でしょうか。
空海様が開いた高野から星ノ岩屋までと、横川の三点は綺麗な二等辺三角形を描きます。
偶然でしょうか。
横川中堂のご本尊様に手を合わせる(61度)と、その先には皆神山があり、その先にこそ大きな謎が隠されている ようです。
そしてご本尊様はどこを見つめているかと言えば、空海様自作の亀石もある再度山一帯を見つめて居られます(241度)。
元三大師堂で手を合わせる299度方向にはピタリと、円仁さんが開基したという兵庫県新温泉町の湯村温泉郷にある正福寺に手を合わせるようになっています。
これらは全て偶然ということはないでしょう。
空海様と同じように長安へと渡った円仁は、空海さまの任務と秘密を全て知っているような気がしてなりません。
2017年6月18日(日)
事の始まりは、下記の情報が世界をかけめぐりました(過去の記事より)
四大文明の神は聖書の神
「142ページにMr.Uemoriで掲載していますから・・」と、新書の著者のSさん。
四代文明の神は聖書の神
エジプト ハトホル神の顔の地上絵
Egypt Geoglyph of the face of Hathor God in Japan
空海様が教えてくれた秘密の暗号カバラー
The secret code which Kuukai taught.Kabara,Davidstar,Cross
Ikuno Silver mine Asago city Hyogo,Japan
大十字架→(西安)→イスラエルガリラヤ湖
Big size Cross→Changan(Xian)China→Lake galile in Israel
中十字架→ローマバチカン
Middle size Cross→Vatican Roma
小さな十字架→中国鞍山 千山
Small size Cross→Anshan China Qianshan
空海様が、第十六次遣唐使の一員として日本を出航したのは、804年5月12日のことで、暴風雨にあい漂着したのが中国の福州でした。
時に空海様は31歳。白山から生野を通って、大中二本の十字架の交点を結んで南西へと線を伸ばすと線上に天草など重要なポイントが並んでいて、その線を中国へと伸ばすと・・キッチリと福州に行きます。空海様は、福州から長安(西安)へ行きますが、三つの十字架のメッセージをあらためて解読する必要があるように思います。
2017年5月24日(水)
私は、桓武天皇という素晴らしい天皇がこの世に居られたことに深く感謝いたします。
そして桓武天皇を支えた素晴らしい仲間達。 和気清麻呂、行基、最澄、・・そして空海さま。 なんと素晴らしい人達が居られたのでしょう。
私は、日本人としてこの国に生まれ、そして今、この国に生かされていることに誇りと感動を覚えます。
桓武天皇は、自分の亡骸を秘密裏に人里離れた山の中に安置するように、生前、遺言していたのですね。
「私の遺体は、高雄山の山頂に埋めてくれ」・・と。
桓武天皇は生前、交野山(こうのやま)(大阪府交野市)から2度も北に向かって祈ったと言われています。
交野山には、立派で見事な磐座がありますが、ここからコンパスグラスで、磁北(0°)に位置するところが、高雄山です。
もう桓武天皇はこの場所から、自分が眠りにつく場所とその時を思い浮かべていたことでしょう。
そしてその場所には、大きな丸い石に立派な字体で梵字の「阿」が刻まれていました。
これらのことも空海さまも全てご存じでしたね。
空海さまは高野山を開いた後、毎月月に一度、奈良県吉野郡野迫川村池津川荒神岳347にある、荒神社(立里荒神)に行ったと言われています。
この不思議な物語の最初の頃、もう5,6年も前のことですが、荒神社に行ってこのことを聞かされた時、不思議に思っていました。
高野山からかなり時間もかかる山の中にどうして・・、と思っていましたが、やっと謎が解けました。
この荒神社から真北に位置するところが、神護寺がある京都の高雄山です。
ここには、和気清麻呂の墓もあります。
空海さまが、遣唐使船で長安に渡り、留学僧は20年間帰国できないにも関わらす、2年数か月で戻ってきました。
そして、彼は京の都に上がるまで、九州の太宰府庁に隣接した観世音寺に身を寄せていたということになっていますが、これもそうではありません。(このことは何れ機会にかきます)
でも、公けに京に上がって最初に住まったのが、高雄山寺でした。
高雄山には、和気清麻呂と桓武天皇の墓があるわけですから、当然のことです。
空海さまは、公けに高雄山に入るまでも、内々に何度もお墓参りに来ていたことでしょう。
そして空海さまが高野山を開かれたことも、それから月に一度は、高雄山の真南に位置する荒神社の山に登って、真北に向かってお祈りをされたのでしょう。
なんと、高雄山(428,4m)から荒神社(1242m)までは丁度100㎞で、この南北ラインに対して、高雄山から直角に西へ92㎞行ったところに、あのイエス・キリストの最期の場所と、イエスの遺体を入れた陵墓を教える十字架の山の交点の三点で直角三角形を描きます。
ここまでくれば、偶然という言葉は一切使えません。
もうこれは高度で緻密な計画の上での所作のなにものでもありません。
ですから・・、「かごめかごめ」の唄と、「とうりゃんせ」を世に残し、いつの日か必ずこの国の本当の歴史が表にでるように仕組んだ、桓武天皇、和気清麻呂、最澄、空海さま達の凄さと素晴らしさが心に響き渡ります。
桓武天皇陵がある伏見桃山城は、京都市伏見区桃山町にありますが、この丘から、桓武天皇の墓である428,4mの高雄山を見通すことができます。遮る山はありません。
・・そのことから、伏見桃山城は、桓武天皇を遥拝する場所であることが分かります。 そしてその城は、神河町にあるイエス・キリストの墓に向けて造られていました。
これらのことを心して、27日は応神天皇の故郷と、神護寺への巡礼ツアーに出かけます。
2017年1月11日(水)
昨年の戎さまの日には長安(現西安)に行って、重大なことをいろいろ教えられました。
今年は、またまた重大なことを教えられました。
10日昼前、意識を無くしたように眠らされました。
そして・・、それから教えられたことは・・・、秦河勝の先祖は女王卑弥呼であり戎様にも行きつくと・・。
もちろん卑弥呼はイエスの血を引いていますよ。
戎様は、イエスの従兄弟のタダイだと教えていました。
戎様のお墓は、神河町にある高星山でしたね。
秦河勝のご先祖様は卑弥呼さんの曾孫だと教えてくれます。
曾孫と言えば、応神天皇もそうでしたね。
まだ居られましたよ。時の半島の王様に賀志波比売命が嫁がれました。
朝鮮半島と日本が、王家の血を受け継いで安定したその時に、又同じ王家の血を受け継いだ秦河勝が弓月の国から19万の民を率いて日本にやってきました。
じゃまするものは何もなく、国状が安定していたので時を持して祖国へと秦河勝のご先祖様は大勢の民を伴って帰って来たんですね。
そして、応神天皇 仁徳天皇を支えて国造りに貢献したのでしょうね。
そのことを秦河勝のお墓である赤穂の生島と、綾部に眠る神様と同距離になる場所に女王卑弥呼の墓があり、戎様(タダイ)の墓があります。
そのことを教える為に空海様は、眠るポイントとして高野山の弘法大師廟の位置決めをしています。
そして、卑弥呼の両親の先祖を辿れば、そのご先祖様達が御神体山と崇める白頭山をキッチリと教えています。
おそらく・・千円札の裏面に富士山の絵がありますが、湖面に映る姿は富士山とは全く別物で、中国と北朝鮮との国境にある白頭山ですね。
卑弥呼の先祖を辿れば高句麗の王様に通じることが分かるのを嫌がる勢力があるのでしょうか。
でも・・その逆に、王家のルーツは現在の北朝鮮にあるのだとサインを絶やさない人達が居られるのも確かなようです。
現在の千円札の前は、鶴が描かれていましたね。 先祖は鶴=イエス・キリストだと言っていました。
我国の最初の千円札には、ヤマトタケルと建部神社でしたよ。
ヤマトタケルはイエスの長男である綏靖天皇だと言ってました。
でもヤマトタケルは暗殺されたことになっていました・・が、どうも朝鮮へと帰っていたとのことです。
日本では七福神ですが、道教の聖地千山では九福神を祀っています。
日本の七福神には入れてもらっていない神様のお一人で、横笛を吹くカンショウシが、実はヤマトタケル=綏靖天皇でした。
ヤマトタケルはイエスに王権を託された後、この国の礎となっています。当然として千円札の最初にヤマトタケルが採用されたのも納得できます。
これらの事実を、本当の日本の歴史を近隣諸国や世界に知らしめる時が来たということです。
これを隠し続けて世界の平安はありませんし、遠ざかるばかりです。
本当のことをいち早く世界に知らしめなければなりません。
現在の天皇の最期の責務として・・あるいは、少なくとも次の天皇は、元号が新たになるその日には、隠し続けてきたこの国の本当の歴史を国民に毅然として語らなけばなりません。
「日本が問われる時がやってきた」と荒ぶる神々が注視しています。
2016年10月26日(水)
10月9日(日)は室戸岬のホテル明星から馬路村へと車を走らせました。
あいにく小雨がパラツク天気でしたが、天気は回復に向かう気配でした。
空海さまは、長安(現、西安)から帰ってきて真っ先に馬路や生野へと来ていると私は思っています。
馬路は重要な場所だと言うことです。
馬路は、イエス・キリストの生命の樹で言えば、第4のセフラのケセドにあたる場所です。
(ケセドはゲドゥラーとも呼ばれる。数字は4、色は青、金属は錫、図形は正四面体、宝石はサファイア、惑星は木星を象徴する。王座に座った王で表される。神名はエル。守護天使はザドキエル)
今でこそ馬路村は辺鄙な場所ですが、古代には全く逆だったと考えられます。
おそらく太古の遺跡が表土に覆われて隠されていると私は思っています。
金林寺で御参りしてから、目指す山へと向かいました。
二千年前の銅鐸がこの場所にあることが、イエスの生命の樹の意味を教えてくれています。
淡路島からも忽然と銅鐸が出土しましたが、出土した場所は、イエスの生命の樹の第二のセフラの中心部でしたね。
馬路村に着いた時はまだ小雨が降っていましたが、山に入るころには雨は上がっていました。
目指す山に入るにも全く道は無いので、崖みたいな急斜面を上って小山の頂点にたどり着き、そこから尾根伝いに頂上まで登りました。
目指した頂上には、磐座はありませんでしたが、私はその場所に行っただけで、何か胸のつかえが下りて清々しい気分になれました。
見えない御霊の皆さん方が長い年月を経て再会されているようでした。
山から下りて、麓の熊野神社へと呼ばれましたが、そこで手を合わせると、登った山に手を合わせるように神社の向きは配置されていました。
神社の上空には、私達に感謝するかのように、エネルギー体の雲が微笑んでいるようでした。
金林寺で手を合わせると、広島県三次市の弘法山に向かって手を合わせるようになっていました。
2016年6月24日(金)
6月26日(日) 最澄さまの比叡山延暦寺根本中堂に行くに当たり、「行く前に、高野山金剛峯寺金堂の秘密を知ってから行ってほしい」と空海さまが言われているようで、それまでに行って秘密を教えてもらうことにしました。
それはやっぱり先に空海さまにご挨拶に行かなければ、筋が通りません。
金堂前に着くなり、彩雲での歓迎でした。
そして雲もいろいろ語りかけているようでした。
「遅かったぞ! でも・・ぎりぎりセーフだ!」と雲でサインをだしていました。
「最澄氏のことを語る前に・・、根本中堂の秘密を言う前に、高野の秘密、空海のことを言え!」とな。
「善女龍王」「青龍大権現」・・ = 弁財天 = 女王卑弥呼 と教えていますね。
この凛々しい空海さまの像は、高野山にはありません。 日本のどこにもありません。
やはり空海さまは全てをご存じでしたね。
空海さまは大事なものをチャンととある場所に隠して居られましたね。
「空海さま、しかとウエモリ君は見届けました!」
「武部さん、ありがとうございます。感謝します」と、「武部さんにお伝えください」と、空海さまからの伝言でした。
感謝いたします!