散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

真田丸関係  大阪落城の定説と新説

2016年08月01日 | ドラマ
近頃は、日本史に関してやたらと「新説」がでてきます。そして主に新説は「定説」とか「俗説」を打ち消します。

坂本龍馬を利用したのはむしろ薩摩の方だった。
とか
長篠の戦いの三段打ちはなかった、もともと武田騎馬軍団なんてものがない。
とか
「天下」とは京都周辺のこと。信長の「天下布武」とは「京都周辺を武をもっておさえる」というだけのこと。

とかいうものです。

現時点における歴史上の人物のイメージ、特に戦国については司馬さんの著作が作り出したものです。(司馬さんが集大成したという意味)

だから「新説」は本当はあまり好きじゃないのです。斉藤道三はやはり「一介の油売りから美濃の国主になった」人物であってほしいのです。

関ケ原後の家康について、いくつかの新説を読みました。妙に堅苦しい学術的なものもあれば、「私はこう思う。私が新説を発見した。」という「うさんくさい」ものもあります。

おもしろいと思ったのは、関ケ原後の「外様」と「譜代」の置き方についてです。言われてみればおかしいのです。日本を東と西にわけた場合、ほとんどの譜代は関ケ原直後は「東」に配置されました。

一方、外様はほとんど西で、しかも外様の領地は「大きい」のです。

これでは大阪城の秀頼を擁して徳川幕府に逆らえ(直後には幕府はありませんが)と言っているようなものです。

西にも譜代並みの土佐の山内家みたいのもありますが、総じて西は徳川の敵ばかりです。

また、関ケ原から大阪落城まで15年。これもおかしいと言えばおかしい。家康は健康オタクでたまたま大阪落城の一年後まで生きましたが、当時の常識として関ケ原後15年も生きるとは本人だって思っていなかったはずです。

色々考えてみると、関ケ原直後は「豊臣を残すつもりでいた」、つまり自分は源頼朝となって東国を支配し、西国は天皇家と関白(豊臣秀頼)に支配をまかせる。伝統的な日本の二重権力構造を家康は考えていたのではないか。

大阪落城の事実を知っている私たちは、その事実から逆算して、関ケ原直後から「家康は長い時間をかけて豊臣をつぶす機会を狙っていた」と思っているが、そうではないのではないか。

このあたり、大河の描き方も色々で、最初からつぶすつもりの悪人家康もいますし、秀頼と会って秀頼の成長に驚き急につぶすことにした、という描き方もあります。

山岡荘八さんの「徳川家康」だと、秀頼親子の命を助けるつもりだったのに、秀忠が勝手に殺したということになっています。それで家康が激怒する。でもそうなると秀頼の遺児である国松を探し出して、首をはねた事実と大きな矛盾が生じます。

私自身の意見があるわけではないのです。ただ「新説にしてはなかなか興味深い」と思っただけです。二重権力構造構想説が。

ただ、家康は自分の存命中は豊臣をつぶしたくなかったのかな、とは思います。二代目の秀忠の代になれば、豊臣の家臣だった自分とは違って比較的自由に振る舞える。また、各大名も「代変わり」しているから、各大名の豊臣への「個人的な恩義」は薄くなる。

自分が死して後、秀忠に豊臣を処分してもらいたかった、でもあまりに長く生きすぎた。結局、存命中に豊臣をつぶすことになってしまった。

これは「新説」でもなんでもなく、私のただの「思いつき」です。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿