長谷川さんが紹介している芭蕉が松島で詠んだ句というのは、
嶋じまや千々にくだきて夏の海 というのです。
なぜ、この句を 『おくのほそ道』 に入れなかったか、二つの理由をあげ
ておられます。
≪ひとつの理由はこの句の世界はすでに本文でいい尽くしているから
です。(略)
それよりも芭蕉はこの句を気に入らなかったのではないか。というのは
「嶋じまや千々にくだきて」も「夏の海」もどちらも現実の景色です。古池
の句で切り開いた心の世界がこの句にはありません。心の世界を展開
するためにみちのくまできたのに、こんな句を松島のくだりに入れるわけ
にはゆかない。そう思ったかもしれません。≫
この部分を理解してもらうためには、このテキストの最初に戻り、
古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉
についての長谷川さんの理解を知らなければなりません。
この句を 「蛙が古池に飛びこんで水の音がした」と解釈しているとこの部
分の理解はできないことになります。それは、芭蕉がどういういきさつでこの
句をつくったか、の理解に立っての解釈が必要だからです。芭蕉の門弟の
支考の書き残したものにもとづき、
≪ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいまし
た。すると庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきます。そこでまず、
「蛙飛こむ水のおと」と詠んだ。その上に何とかぶせたらいいか、しばらく考え
ていましたが、やがて「古池や」と決めました。≫
と述べておられます。そして、蛙の飛びこみを見ていない芭蕉が心に描いた
のが「古池」で、
≪「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼びおこした幻影だったのです。
つまり古池の句は現実の音(蛙飛こむ水の音)をきっかけにして心の世界
(古池)が開けたという句なのです。つまり現実と心の世界という次元の異なる
ものの合わさった<現実+心>の句であるということになります。≫
蛙が詠まれている句ですから、kaeruとしては最大の関心をもって臨まなけ
ればならない部分です。それに一般的な理解 「古池があって、静かなところに
蛙が飛びこんでポチャン、そしてまた静けさが戻ってきました」という理解に浸り
きっていましたから、これは何を言っているのだ、の思いです。
≪言葉の生まれた順番どおりにこの句を読みなおすと、芭蕉は蛙が水に飛び
こむ音を聞いて古池を思い浮かべたということになります。(なるほど)「古池」
は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉のこころに呼びおこした幻影だったのです。≫
音は現実、池は幻影、それを結びつけるのが “言葉の力=俳句の力” という
わけか。(kaeru、納得)。
引用文ばかり多くなってオリジナリティーの無い「つぶやき」ですが、そこは大
目に見て下さい。 明日も「引用」します。