今日は「つぶやき」ません、見てもらうだけ……。
「週刊朝日」の休刊が報じられて、それに関してこの記事を読みました。
高校を卒業し就職先の東京神田の本の問屋に住み込みで入り、休みの日にはいく先がなく中野にあった伯父宅へ向かったものです。その家に「週刊朝日」があってよく手にとって目を通していました。
創刊100年だったのか、と上の記事から知り日本共産党100年と重なって最近頭に去来する「100年」にもう一つつけ加わりました。伯父の家で見たであろう頃の「週刊朝日」、
現物を手にすれば、記憶の底から浮かびあがってくるものがあるでしょう。
しかし、大正の後半から昭和を経て平成を通り抜け、令和で終刊を迎えるこの雑誌の廃刊が、紙情報誌から情報の担い手の主役交代それが情報革命の急速な展開になかで何を意味しているか、思い出に浸っているだけでは済みません。
しっかり跳ぶためには、しっかりした足場が必要です。その足場としてこの人の遺志があります。故増本一彦さん、亡くなって1周年になり、その遺志を継ぐべく「集い」が予定されました。
今日、その日に向けての実行委員会があり参加してきました。
増本さんは最近の「つぶやき」でもその遺志を託されたものとして、自らの意志にしていく思いを記しています。
この「集い」を通じて故人の目線を感じとり、己のなかに故人の声を聴き自問自答し、故人の遺志を己れの意志のなかに組み込み固めていく人を広げて行きたいと思います。