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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

牧野少年と藤井少年、 自分を託すものを得た人。 

2023-04-06 21:26:45 | どこまで続くかこのブログ

牧野富太郎少年のこと、『牧野富太郎 私は草木の精である』

のこの部分

 第四章 独学の人

 少年時代から牧野富太郎の本来の生活は学校ではなく、自然の中にあった。 後に大学で講義するよようになっても、教室内での授業よりも、野外での植物の実習に力を注いだのは、彼にとってむしろ当然なことなのであった。まず佐川は化石の産地として有名だったが、彼が最も自然に接し、最も親しんだ場所は横倉山であった。そのためこの平凡な山は、牧野富太郎によって日本の植物学上、有名な山となってしまったのである。 (略)彼はこの山へ何度も出かけるうちに、この山にある多くの植物に気付くようになった。平凡なものの中に秘められた非凡さは、誰もがすぐ見付けられるものではない。 特に自然はこのような非凡さを易々と曝け出すことを嫌うものである。このような非凡さは逃げ易く、しかもいつもは光を避けて、洞窟の奥深くに潜んでいるものなのだ。 だから非凡さを見付けることの出来る人は、まず好奇心が強く、鋭い観察者であり、熱狂的な探求者でなければならない。そして牧野富太郎は、その総てであった。 彼は頻繁に出かけることによって、 横倉山のことを何でも知ろうとした。 やがて彼の熱意の前に、自然は今まで隠していた真実の姿を見せだした。 そして牧野富太郎は、盗賊の洞窟へ入ったアリババのように、自分がどのような宝庫の中に居るのかということに、気が付いたのだった。 しかし彼は次から次へと見付かる珍しい花を、見るだけでは満足しなかった。彼はそこの総ての花の名前まで、知ろうとしたのである。自然は優秀な教師であり、優秀な教師であるが故に厳しい教師でもある。自然は容易に名前のわからない珍しい花を、次々と見せては牧野富太郎を困らせた。だが花の名前を知りたいという彼の熱心さと誠実さとは、そのようなことで屈服する訳がなかったのであった。

 

藤井聡太少年のこと、

藤井聡太はなぜこんなに強いのか?将棋のレジェンド・谷川浩司の「天才論」

藤井聡太はなぜこんなに強いのか?将棋のレジェンド・谷川浩司の「天才論」

中学生でプロ棋士(四段)デビュー、破竹の勢いで勝ち星を重ねる藤井聡太二冠。藤井聡太はなぜこれほど強いのか。同じく中学生でプロデビューし、日本将棋連盟の前会長、十...

ダイヤモンド・オンライン

 

私はこの部分に引かれました、

以下に文字写し、

相手と戦うのではなく、 将棋盤と対峙している

子ども時代の藤井聡太は負けると将棋盤にしがみついて激しく泣いた。 「引きはがすのに苦労した」 という瀬戸市の「ふみもと子供将棋教室」の文本力雄は 「将棋を始めると何も見えない。すさまじい盤面集中だった」と振り返る。 将棋を考えながら歩いていて、 溝に落ちた逸話も有名だ。

谷川は語る。「彼は相手によって作戦を変えることはなく、 相手の得意戦法を外すこともしません。対戦相手と戦っているのではなく、 将棋盤と対峙しているのです。 子ども時代の将棋教室で培われた集中力と長時間考え続けられる力から来たのでしょう。 普通は1時間も考えていたら、 考えるのを休みたくなりますが、 彼は公式戦でも相手の手番の時間帯も休まず考え続けます」。

藤井は対局中、 ほとんど相手を見ない。 相手が羽生であれ、誰であれ関係ない印象だ。 ある意味、 社会体験が少ないから萎縮しないで済むのでは?とも思うが、谷川の見方は異なる。

「社会体験の多寡より、 彼は強い相手と将棋ができることが純粋にうれしいのでしょう。 将棋の真理を追究することを実現するためには相手が強ければ強いほどいい。 きっと初防衛戦で渡辺さんと豊島(将之竜王・叡王)さんが挑戦者になったことさえも喜んでいると思います。 普通は 「大変なことになったな』と思うものですが」と驚くのだ。

(この記事は2019年9月のものです)


牧野富太郎と坂本龍馬、 森鴎外も?

2023-04-05 22:57:02 | どこまで続くかこのブログ

牧野富太郎少年が坂本龍馬と……、という展開が話題になっていますね。

なぜ龍馬が『らんまん』に登場するのか | NHK

なぜ龍馬が『らんまん』に登場するのか | NHK

【NHK】ディーン・フジオカさん演じる天狗こと坂本龍馬。『らんまん』に登場して話題を呼んでいますが、そもそも龍馬って史実では高知にいないのでは?舞台裏をご紹介!

NHK高知放送局

 

ここは牧野富太郎というより槙野万太郎物語として観ていれば良いでょうが、この時代と土佐を頭に描くにはいい「舞台」です。

ところで森鴎外とは、まったく接触はなかったでしょうが、同じ年に生まれているのです。牧野富太郎は1862年5月22日(文久二年四月二十四日)生まれですが、その年の2月17日(一月十九日)に森鴎外が生まれています。鴎外が亡くなったのは1922(大正11)年7月9日(日本共産党創立が15日)でした、ほぼ60年間牧野富太郎と森鴎外は同時代の人でした。

1862年(文久二年)は国内では寺田屋事件(5月21日・四月二十三日)、生麦事件(9月14日・五月二十八日)など、アメリカでは南北戦争の只中で、リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政府」の演説は翌年1863年の11月でした。その頃富太郎という名ではなく成太郎と呼ばれています、富太郎と名付けられたのは6歳の時だったそうです。


春はらんまん、 カエルはさんまん

2023-04-04 22:22:06 | どこまで続くかこのブログ

朝ドラ「らんまん」がはじまった昨日、このコメント欄の文字写しを終えて、

昨日の「しんぶん赤旗」の「らんまん」紹介記事(これ)、

をアップし、文字写しを終えて「今日はこれにて一件落着!」と……、そこで気が緩んだのか、風邪の後遺症か、要はカエルが散漫状況でした。

このiPadのどこかに指が触れたのでしょう、一瞬のうちに画面から写真も文字も消えた!? これは初めてでは無いがよくあることでも無いので、参った! それで遅れましたが、

ひげ爺さんから頂いていたコメント返信を以下文字写ししておきます。

牧野博士ゆかりの植物? (カエル)
2023-03-27 21:54:28
花のことならヒゲさんに聞け!ということで伺います。 来月からの朝ドラが 「らんまん」に、そこで 「舞いあがれ」 の主演・福原遥からバトンタッチされ、サインボードがプレゼントされたそうです。
「らんまん」の主演 神木隆之介から福原へ返礼されたのが 「牧野博士ゆかりの植物でつくった「花束」でした。その花を知りたいのですが、 教えて下さい。


お久さしぶりです (ひげ爺さん)
2023-03-28 08:17:56
カエルさん、こんにちは。
お久さしぶりです。
朝ドラは見ていないので、 何んの花を贈ったのか知りませんでした。
ということで調べてみました。
【福原さんの誕生月 (8月) のお花であるトルコキキョウと牧野博士の愛してやまなかった桜を手すきの土佐和紙で束ねたもの】
・・・だそうですよ。

このコメントは、先月27日の「つぶやき」に、ひげ爺さんが答えてくれたのでした。

 

昨日の「しんぶん赤旗」の「紹介記事の文字写しは、こちらで、

 慶応3(1867)年。土佐の佐川村の酒蔵・峰屋の跡取り息子槙野万太太郎(森優理斗)は5歳。 ひょろっとして草花が好きで病弱ながらよく動く男の子だ。 祖父、父が先立ったあとの峰屋を切り盛りしているのは祖母のタキ(松坂慶子)で母のヒサ(広末涼子)は病床に。タキは万太郎を立派に育てようと厳しいが愛も強い。 番頭の子竹雄を万太郎のお目付役にさせ、姉の綾も気を使う。そうしたなかで親戚のかげ口に傷つくが、おかしな侍坂本龍馬に励まされた。

 長田育恵の脚本、渡邊良雄たちの演出は、心優しい子どもが、母の好きな花を探しまわる強さと、この花の名前が知りたいという思いをまずとらえた。小さな万太郎に未来の植物学者になるものの芽生えを感じさせる。 このあとどのような人だちと出会い、社会にもまれて青年万太郎(神木隆之介)はどのように成長していくのか。

 「いらん命はひとつもない」という言葉がいらない植物はないというように響き、このドラマを貫くのだろう。 実在した小学校中退の植物学者牧野富太郎。植物を愛し無名の植物に名前をつけた研究と人生が身近に見えてくる。                    (石子順 評論家)


明日からの(らんまん) 「牧野富太郎本」

2023-04-02 20:46:04 | どこまで続くかこのブログ

朝ドラ「らんまん」のスタートに向けて「しんぶん赤旗」(3月26日)の書評頁で関連本の紹介です、

本文の文字写しをしておきます。

 

 4月からのNHK連続テレビ小説 「らんまん」の主人公は植物学者の槙野万太郎。 モデルとなったのは、自らを「草木の精かも知れん」、「草木は私の命」と言い、学名を付けて発表した植物が約1500種にものぼる牧野富太郎(1862〜1957)です。
 清水洋美著『牧野富太郎 日本植物学の父』(汐文社・1600円)は、わかりやすい文章で書かれた伝記です。 富太郎は幕末の時代、高知県佐川村(現・佐川町)の裕福な商家に生まれました。 父母は幼いうちに亡くなり、祖母に大切に育てられます。 もの心つく前からごく自然に花や木が好きだったそうです。
 寺子屋や私塾で儒学や英語などを学んだので、小学校ができて通い始めても飽き足らず、2年ほどでやめました。それからは大人が読む本を買ってもらったり、高知市内の学校の先生に教えを乞うたりして独自に植物学を勉強しました。
   名声と生活苦
 22歳で上京した時に東京帝国大学(現・東京大学)植物学教室へ出入りを許されます。植物を観察すると、 言葉で説明するばかりか精密な絵も描きました。 それらは図鑑や雑誌に掲載されて富太郎の名声を高めました。 コロナ・ブックス編集部編『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』(平凡社・1600円)は、そうした植物画や生前の写真が数多く収められ、植物へのあふれる愛が伝わってきます。
 順調な研究生活を始め富太郎でしたが、二度も教室から排除される苦
労も味わいました。。さらに祖母が亡くなって郷里からの資金援助が尽き
ると、暮らしは苦しくなっていきます。 植物採集の旅費や高価な学術書や
絵の道具の購入にはお金を惜しみませんでしたから、なおさらです。
 火の車となった生活を支え続けたのが妻の寿衛(すえ)でした。13人の子ども(7人は早くに亡くなる)を育てながら、暮らしを立て直すため料理屋を営み、郊外に土地を買って家まで建てたのです。また苦しい生活を送っていると、借財を返済して標本の保管場所まで提供してくれた池長孟(はじめ)のような援助者がいつも現れました。 それだけ富太郎が人間的魅力にあふれ、価値の高い研究をしていたことの証しなのでしょう。
  面白さ伝える
 最晩年にまとめられた『草木とともに 牧野富太郎自伝』(角川ソフィア文庫・800円)には、早くに亡くなった妻への感謝や、良き友人・知人を失った後の悲しみなどもつづられています。富太郎は観察会へ出かけたり、牧野富太郎著『植物一日一題』(ちくま学芸文庫・1000円)に収められているような随筆を書いたりして、一般の人々に植物の面白さを伝える活動に熱心でした。そこには歯に衣着せぬ書きぶりの文章もありますが、それもまた天真な富太郎らしい味わいになっています。  

              (さとの・まもる サイエンスライラー)

 


爺が、 85歳過ぎて孫の結婚式に立ちあえるということ。

2023-04-01 23:21:21 | どこまで続くかこのブログ

風邪で寝込んだこと、はじめての教会での式だったとのこと、何よりも孫の結婚式に立ちあう最初の体験だったりして、格別に嬉しい記憶に残る日でした。改めて兄が内孫の独り娘の小さい頃「この子の結婚まで生きられるかな」との言葉を思い出してました。

兄が亡くなって7年経とうとしてます、亡くなったのは85歳と3ヶ月でした。現在でも、内孫をはじめ6人いる孫の誰も所帯を持つには至っていません。今日、臨席の方々に新郎新婦の親族を代表しての息子の挨拶を聞きながら、彼が結婚した時、義父はすでに90歳を過ぎていたなーと考えていました。私の両親はこの時期にははるか以前に故人になっていましたし、義母は70歳台で亡くなっていました。

我が身で言えばあと3人、17男、18孫娘、24男がそれぞれ良き伴侶を得ての結婚式に自ら隣席したいのです。今日を経験してみて、式には孫夫婦の思いが込めれれていて、2人を理解する得難い機会であることを感じとり、それは同時に老の身のとって生きる節目であることを実感する機会でした。

こんなことが頭に去来してきたのは少し前にこんなデータを見たからでしょう、

以前「つぶやき」ました「男にとっての峠としての85歳」に関して、次の峠に向かう上で、孫の結婚式という「標」を置く意義を示しているようです。

さて何やら理屈っぽい「つぶやき」だけど、本当に結婚式に行けたの?

行って来ました、これです。

遠くの「花」より近くの花にピントを合わせました。


牧野富太郎博士ゆかりの花とは? 

2023-03-27 07:05:12 | どこまで続くかこのブログ

昨日の「らんまん」話の続きです、(「しんぶん赤旗」27日)

この終わりの五行

神木は福原へ、「物語のモデルとなる牧野富太郎博士ゆかりの植物でつくった花束」を贈りました。

と、その花はなんという花なんでしょうか? 先ほど花のことに詳しいひげ爺さんに問合せしておきましたので教えてもらったらここで報告します。以下本文文字写し……、

 放送中のNHK連続テレビ小説「舞いあがれ!」(4月1日まで)主演の福原遥から、次回作「らんまん」(3日から)主演の神木隆之介へバトンタッチするセレモニーが東京・渋谷のNHK放送センターで行われました。
 場所は「らんまん」の主人公・槙野万太郎(
神木)が通う、東京大学植物学教室のセットです。
 福原は「舞いあがれ!」を振り返り「どんな向かい風を受けてもそれに負けずに、諦めずに、ずっと頑張っていればすばらしい景色を見ることができるという思いをすごく感じた」といいま
す。
 神木は「らんまん」について 「植物だったりとか、専門的なこともあったりするので、各部が研究しながら丁寧に撮影しております」と紹介しました。
 福原は神木へ、「らんまんの番組ロゴをデザインしたサインボード」をプレゼント。 福原は「小道具制作でお世話になった板金加工の工場に作っていただきました。右から見たら〝らんまん〟、左から見たら花に見えるように緻密に設計されたデザインは、東大阪の高い技術だからこそ表現で
きたものです」と紹介しました。
 神木は福原へ、「物語のモデルとなる牧野富太郎博士ゆかりの植物でつくった花束」を贈りました。


カエルも科学します。

2023-03-24 23:54:53 | どこまで続くかこのブログ

「ようやく原子核の結合エネルギーについての初歩的な事柄を調べて整理しましたので、封書で、お送りします。」

従妹のR子ちゃんからラインが来て、手紙も届いたのが9日でした。その日の「つぶやき」で「原子核の結合エネルギーについての初歩的な事柄」を知る必要がある、みたいなことを書きました。

その必要性については「その通り」なのですが、これがなかなかの問題です。それはそうでしょう、広島長崎の原爆につながることです、それは同時にウクライナをめぐる戦争の危険性への認識であり、原発の再稼働政策への反論の基底になるべき知識です。

R子ちゃんの手紙にある図です、

この図をこちらの図を参考に見ます、

全文は、放射性同位体と放射線 – 生物図表オンライン  

R子ちゃんの説明から、

実は、図のように中性子2個と、陽子2個からなるHeと、それをバラバラにした中性子、陽子2個づつを天秤にかけると、なんとバラバラの方が少し質量が多いことがわかったのです。

こういうことでしょう、

網袋に入れたミカン二つと林檎2つを計って、次は網袋からバラバラに出し網袋と一緒に同じ4つを計ったら「なんとバラバラの方が少し質量が多い」のです。

それは間違いです!という声が……、その通りミカンと林檎でやったら同じ重さです。

しかしこの大きさの世界のことなのです、

ミカンや林檎、人間の体重も「質量保存の法則」にそっていますが、原子の大きさの世界では別の法則が働いています。

そのことをR子ちゃんの手紙から、

アインシュタインは、「この質量の差は、エネルギーに変化した」と考えました.つまり、ぐっと安定した原子核から、バラバラの状態にするには、エネルギーが必要であり、そのエネルギーは質量から生まれると思考したのでした。

この質量の差を「質量欠損」といい、バラバラの状態に持っていくためのエネルギーを「結合エネルギー」といいます。

そしてアインシュタインの有名な公式 

 について

この式の威力を歴史上もっとも身近に感じているのは、日本人でしょう。なぜなら、この式は原子爆弾にも関与しているからです。

この式を用いると、たった1(g)の質量が、広島に落とされた原爆に相当するくらいのエネルギーを持つことが分かりました。

この式の「威力」とは、

全文は、

 

質量とエネルギーの等価性 - Wikipedia

 

 

こうやって日頃非科学的思考に慣れた「つぶやき」を反省しつつ呟いていますと、歩けるうちに歩いておこうかと思えてきます。


無病息災か、 一病息災か

2023-03-23 20:24:38 | どこまで続くかこのブログ

先日、外出しようと玄関にいたら、妻が「マスク持った?」と、「貴方は来月入院するのよ」病身だということを忘れるな、ということなんです。

そうなんです、前立腺が完全に問題無しにはなっていなかったのでした。検査のための手術で2泊3日、その前日にコロナ検査その日に向けて2週間くらい連日の体温を記録してもって行く、なんか急に病人ぽくなって春だと浮かれてはいられない気分です。

いつの間にか、膀胱がんは完治すると自分で決めていた感じでした。6月の検査も無事済み、その後も問題無しになることが既定のことのようになっていたのでしょう。そうなって欲しい、が「そうなる」と。

この間、医者それもがんの専門医ががんに罹患するを書いた本など読みましたが、医師でさえ「そうなって欲しい」が「そうなる」に……。無病息災と思い込んでいたが、実はその間に……、ということなのです。

となると無病息災より、一病息災であった方がベターということなのでしょう。それに相応しい緊張感を持って暮らせ! を自覚するから。

そういう自覚は性分に合っていないなー、とも思いますが……。


彼岸法要 老夫婦の坂道。

2023-03-18 21:35:10 | どこまで続くかこのブログ

昨日は何年かぶりで、京急横須賀中央駅から文化会館へ歩いて向かいました。病院の帰りは、バスで通るので登り坂であることも忘れていました。歩いて行き来していた頃、その登り具合も気にならなかったのですが、昨日はこんなに急だったかと……、反対側を見て、道の傾斜具合がかなりはっきりしているのです。

以上昨日のこと、以下は今日の坂道の話です。

昨夜妻からの出された予定では「朝のうちに資源ゴミを出して、昼頃家を出て墓掃除して彼岸法要に」と言われてしんどいなーと内心思いつつ「ハイ」と。で、朝目覚めましたら雨、シメタ!ゴミ出し無し寝ていられる(紙類なので雨の時は出せない)。家を出たのは結局1時過ぎ、お墓も雨に洗われているから、花を変えるだけでいいし卒塔婆も持って行くのだから法要の後での墓参りになりました。

ここから坂道の話です。雨のなか花を持ち歩き出したら、妻が花は私が持ちます、と。花を渡したら花を上向にして「こう持つのです」と言わんばかり、私の持ち方をチェックしていたのです。そこで私がチェックすることに、後ろからついて行きました。

いつもこの坂を登る妻の足どりは蛇行なのです、私はまだかなり脚力があるつもりで真っ直ぐ登りで何時も妻のかなり先を歩きます。今回はじめて、雨道につく妻の靴跡に私の足をのせて行きましたら、蛇行ではあるがしっかりした足どりで、歩幅も私より広いくらいで、いつも後ろから登ってくる姿からはわからなかったしっかりぶり。そう言えば義姉が足がしんどくてこの坂が登れないを理由に葉山に来ても墓に行かなくなって二十年くらい経つでしょう。義姉の場合は本人ががんを患っていますし、義兄の介護を中心にした生活が、かなり老をはやめていたと思います。

姉は妻より4歳うえですから、妻の健脚ぶりは大したもの。私は義姉と同年齢ですので妻の健脚ぶりをさらにこえているわけです。ただし健康ぶりは脚だけで、胃検査を無事に終えたあと妻に「君は出産以外に入院したことが無いね」と、私は改めて妻の健康に敬意と感謝を表したのでした。

寺に着いて法要、日蓮宗の読経等に元気をもらって、墓の両親に花を届け声をかけて来ました。

以上、老いた二人が共に登る雨の坂道の話でした。