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講話:降臨節第1主日の日課

2014-11-27 15:26:13 | 説教
講話:降臨節第1主日の日課


教会の1年は降臨節から始まる。降臨節は「待降節」とも呼ばれ、英語ではアドヴェント(Advent)と呼ばれる。この言葉はラテン語で「来臨」「到来」「降臨」、つまり、向こうからあるいは上からやって来るという意味である。教会暦がまず「待つ」ということから始まるのは興味深い。これはただ単にクリスマスを「待つ」というだけではなく、キリスト教信仰の本質は「待つ」ということなのだということを意味しているのであろう。つまりキリスト者は「既に」と「未だ」との間を生きている。従って降臨節の課題は「イエスの誕生」を待つということと、もう一つは「イエスの再来」を待つということが含まれている。
本日は、説教でもなく聖書研究でもなく、降臨節第1主日に読まれる9箇所の聖書の言葉を読みたいと思う。

1.聖書と教会暦
プロテスタントの諸教会では教会暦を採用しているところとそうではないところがある。教会暦とは、1年をいくつかの季節、例えば、降臨節、降誕節、顕現節、大斎節、復活節等によって仕分けて教会生活に節目を設けるということを意味する。そのような仕分け方をするということを「うちの教会では教会暦に従っている」という言い方をするが、それはいわば中途半端な便宜的な考えにすぎない。
ほんとうの意味で、教会暦に従うということは各主日にその日(あるいはその週の)特祷が定められ、その主日に読まれるべき聖書のテキストが定められ、その教団に属するすべての教会がそれに従って主日礼拝を守っているということである。

日本聖公会の場合は、現行の祈祷書によると聖書のテキストは旧約聖書から、使徒書(使徒言行録以下の文書)から、福音書からと3つのテキストが読まれ、3年周期(A年、B年、C年)で繰り返される。A年は主にマタイ福音書から、B年は主にマルコ福音書から、C年は主にルカ福音書から、ヨハネ福音書は3年間にそれぞれの主日相応しいテキストが振り分けられている。ただし復活節(復活日から聖霊降臨日までの8回の主日)に読まれる福音書は全部ヨハネ福音書から選ばれている。一寸、例外的なテキストとしては、復活節には旧約聖書に代わって使徒言行録からのテキストが読まれる(オプションとして旧約聖書のテキストも準備されている)。
3つのテキストのうち、中心は福音書で、福音書を中心として使徒書、旧約聖書のテキストが選ばれている。ただし、聖霊降臨後の諸主日では福音書との関連は薄く、使徒言行録以降の文書が万遍なく読まれるように配慮されているようである。
特祷は1年周期で毎年同じ祈りが繰り返される。ところで、この「特祷」、これだけ聞くと「その日のための特別な祈り」と思ってしまう。確かにその通りであるが、実は意味合いが違う。カトリック教会ではこれを「集会祈願」と訳している。これも一寸違う。英語では「collect 」と訳されている。カトリック教会では昔は「集祷」と言っていた。起源となるとかなりややこしいので省略するが、その主日に各教会で祈られる様々な祈りを集めた祈りということを意味しているようである。昔、ローマ市内に7つの教会があった頃、会衆たちはそれぞれの教会で礼拝を行った後、その日に主教が司式をする教会まで他の6つの教会の会衆が行進(プロセッション)して集まり、主教によるミサに参加するという習慣があったと言われている。その時に主教が捧げた祈りが「集められた祈り」という意味で「コレクト」と呼ばれるようになったという。(参照:森譲『信仰を生活する(前篇)』80頁)
現在は逆にこの祈りを各教会で捧げることによって全教会の礼拝が一つの礼拝になると理解されている。つまり全教会は「特祷」によって結ばれ、同じ礼拝に参加しているということを意味している。
古い祈祷書では、降臨節第1主日の特祷は降臨節の期間中、つまり「降誕日の備え日(前日)の朝まで、毎日その日の特祷につづいて用いる」と規定されていた。同様に大斎節では大斎始日(水曜日)の特祷は「当日の朝から受苦日の前夕まで、毎日その日の特祷に続いて用いる」と規定されていた。これらの規定は現行の祈祷書では残念ながら削除されている。
一般論として、どのようなテキストであれ、それが置かれたコンテキストにおいてそのテキストの意味が発揮される。同じテキストでも異なった文脈に置かれたら異なった意味となる。つまり聖書のテキストはその聖書の文脈において理解されなければならない。時には一つの文章を文脈から切り離して一種の「格言」のように理解する場合もあることを排除はしないが、それにはそれなりの注意が必要である。
さて、そこで問題は聖書のテキストを教会暦に従って配置する場合、そのテキストは教会暦によるコンテキストの影響下に置かれることになる。当然ある特定の主日に読まれるテキストはそのテキストが置かれていた聖書のコンテキストを引きずっているであろうが、時にはそうでもない場合もないわけではない。しかし、そのテキストは元の文脈(聖書)とは異なる文脈(教会暦)に置かれているのである。
これを具体的に考えると、そのテキストは聖書研究で読まれる場合と、礼拝の中で読まれる場合とでは異なった視野に置かれている。

2.礼拝で読まれる聖書テキストの文脈
先ず最も大きな外枠としてその主日が含まれている「季節」がある。降臨節には降臨節のインテンション、復活節には復活節のインテンション、それがそのテキストが礼拝の中で読まれる場合の「前理解」である。その内側にもう一つの枠というか「指針」というべき文脈がある。それはだいたい特祷によって示されている。上に述べたように「特祷(コレクト)」はその礼拝が「全教会」とつながっている印として非常に重要な意味を持っている。
降臨節第1主日の場合、先ず「降臨節」という大枠があり、それにこれが教会暦では1年の最初の主日であるという特殊枠が加わり、その内側に特祷という指針が示される。この日の聖書テキストはこの特祷の示す指針によって読まれなければならない。具体的に言うと、この日の聖書テキストはこの特祷と響きあう言葉がポイントとなる。
この日の特祷は以下のとおり。
全能の神よ、み子イエス・キリストはわたしたちを顧み、謙遜なみ姿でこの世に来られました。どうか今、闇の業を捨てて、光のよろいを着る恵みを与え、終わりの日に生きている人と死んだ人を審くために栄光を持って再び来られる時、永遠の命によみがえらせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
一寸余談になるが、祈りの最後の「アーメン」については、その前に「。」がある場合には祈りを唱えた人は「アーメン」を唱えず、会衆だけが「アーメン」というと規定されている。この規定は古い祈祷書にはちゃんと記されている(61頁)が、新しい現行の祈祷書には抜けている。

3.A年のテキスト
マタイ24:37~44
ここでは冒頭の「人の子が来るのは」に注目すべきであろう。ややこしい説明は抜きにして、要するにここでの「人の子」とはイエス・キリストを意味している。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」という比喩はわかりやすく、説明は不要であろう。それを受けて二つの実例が示されている。要するに、ここで述べられているメッセージは人の子は突如に到来するということである。勿論、ここで語られている「人の子の到来」とは再臨を意味している。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44節)がメッセージとなる。

ロマ13:8~14
このテキストでは8節~10節はキリスト者の一般的な倫理であるが、それがかなり強引に終末論に結び付けられている。11節以下は終末に向けてのキリスト者の心構えが取り上げられている。ここでの鍵の言葉は「今」である。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」という言葉は当たり前すぎてほとんど無意味である。特祷との結びつきは「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」である。むしろ特祷のほうがこのテキストを背景にしているものと思われる。「眠りから目覚める時」が緊迫していることが強調され、従って、この世での貸借関係や身辺整理をしておけということが述べられている。

イザヤ2:1~5
ここでは「終わりの日」についての預言が語られている。「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」(3節)という言葉が鍵で、エルサレムで成立した「福音=教会」が全世界に「平和」をもたらすとされる。「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」(4節)。このことを信じて「主の光の中を歩もう」という。この言葉がこの日の使徒書のロマ13:13と響き合っている。
以上のように、これら3つテキストに関しては聖書の文脈と礼拝の文脈とにはほとんどギャップはない。

4.B年のテキスト
マルコ13:33~37
この部分はマタイのテキスト(42~44)の原型である。マタイの引用の仕方がかなり荒っぽいことが分かる。その点でマルコの方はかなり具体的でわかりやすい。マルコでは「目を覚ましているように」という言葉は旅に出かける主人の言葉で、ここでの強調点は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32節)である。つまり、その日程は父なる神の専権事項だという。

1コリント1:1~9
このテキストはパウロの手紙の冒頭部分で、コリントの信徒たちがいかに優れた信仰者たちであるかというおだて上げた文章である。聖書のコンテキストとしては5節がポイントであるが、そのついでに、7節以下の言葉が述べられている。このテキストを降臨節第1主日のテキストとして読む場合には7節以下の部分が重要である。とくに8節の「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」。主が来られた時、私たちは主の前に立ちうるのかどうか、ということが心配であるが、パウロはそのようなことは心配せんでもいいということが強調されている。
イザヤ64:1~9a
このテキストは、主の怒りが爆発した時、この世界どうなるのか、ということが述べられ、神による審判の恐ろしさが強調されている。その恐ろしい神にも「あなたを心に留める者」(4節)に対しては「救い」があることが述べられている。このテキストをこの日の使徒書と組み合わして読む時、私たちキリスト者は「あなたを心に留める者」であると述べられる。

5.C年のテキスト
ルカ21:25~31
ここではマタイとマルコとかなり異なる。27節と28節の順序に疑問が残るが、28節の「このようなことが起こり始めたら」というのは、26~27節で述べられていることあろう。つまり、天体や人間社会で様々な異常現象が起こり始めたら、「身を起こせ」という。要するに、不安な現象が起こり始めたらそれが世の終わりの徴であるが、あなたたちにとっては「解放」の時なのだという。ルカが強調している点は、「突然」とか「思いがけないとき」(マタイ24:44)ではなく、世の中の出来事を注意深く見ていれば、「おのずと分かる」ということである。

1テサロニケ3:9~13
パウロの手紙の中で1テサロニケが最も古く、再臨について最も緊迫した形で論じられている文書である。ここでは13節が肝心である。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」。この信仰がなければ主の到来を「私たちの解放の時」とは受け止められないであろう。

ゼカリア14:4~9
ここでは終末の情景が一幅の絵として描かれている。8節の「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける」という言葉が美しい。エルサレムから流れ出る命の水は全世界を潤し、主の御名が「唯一の御名となる」。それが福音書で語る「神の国」の実現である。

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