ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 12/28

2013-12-29 08:32:13 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昼前に福岡へ、中央市場で昼食、ヨドバシカメラで買い物、天神で本屋。6時半帰宅。テレビは7時から11時まで孫娘の独占状態。娘が仕事を終えて奈良を出て11時5分赤間着。孫息子と家内が駅まで迎えにいく。我が家で一番に笑い声の大きい娘が加わり一段と賑やかになる。11時半就寝。5時起床。体調快調、チュン、チュン。

浜井美喜さん、野間 悦三さん、澤木 俊和さん、他22人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます。
大切な方々をお迎えされて佳い時間を過ごされるって、何にもまさる幸いかと・・・(*^^)v
お守りをお祈り致しつつm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。楽しんで下さい。次男を耳鼻科に連れていきます。良き日となりますように。お祈りいたします。
posted at 05:02:02

文屋 善明
今日の名言:RT @C_G_Jung_jp:
「サタンは唯一、ヤハウェの足を掬い、彼を盲目にして、自ら定めた罰則を平然と破るように誘惑することができた者である。この恐るべき対抗馬は、彼の身内であるため、まことに困った存在であるので、どんなことをしてでも隠されねばならないのだ!-ヨブへの答え-」。(ユング)
<一言>サタンの存在が、ヤハウエ家の唯一のスキャンダル。これは私の言葉ではありませんよ。深層心理学者ユングの言葉ですよ。さすがに面白い見方ですね。

篠崎 悟さん、濱 和弘さん、上野 博志さん、他25人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。もしこれがユングの言葉であれば、僕はヨブ記を読み込んでいませんので勝手な感想ということになりますが、こういういわでもがなのことを口にするようでは、ユングの宗教理解を疑いたくなります。

文屋 善明 お早うございます。そうですね。ユングの宗教理解などどうでもいいですが、ヨブ記が提起している人類の永遠の謎、伝統的には「神義論」へのユング的な見方を示していると思います。一種のジョークでしょうね。神さまにとってサタンは困った息子なんでしょうね。

清水 行雄 ジョークですか(笑)たとえば、先生はゲーテの「ファウスト」に出てくる悪魔をどう思われますか?

清水 行雄 ぶしつけな質問で申し訳ありません。別に回答していただかなくても結構です。質問が悪かった!

文屋 善明 ははは、「ファウスト」は読んでいませんが、荒筋ぐらいは知っています。面白い質問だと思いますよ。考えておきます。

清水 行雄 失礼しました。(^^)

文屋 善明 この種の対話に「失礼」はありません。むしろ、あなたはどう思っているのか聞かせて欲しいですね。それと、「先生」という言い方は必要ありません。あなたと私です。

清水 行雄 私は、「ファウスト」の悪魔は、ゲーテが考え抜いたうえに創作したゲーテにとっての悪魔だと思っています。と同時に、近代西洋人の抱く悪魔像の典型かと思っています。

清水 行雄 小林秀雄は、「モオツァルト」の冒頭で、その辺の事情を、触れていると思っています。

文屋 善明 成る程「悪魔像」ですか。ゲーテが創作した悪魔というより、私はゲーテが抱えていた永遠の謎、「人生の空しさ、虚無感」を解くための「作業仮説」だと思っています。結局、悪魔に魂を売って若返って、もう一度人生をやり直しても、結局、その空しさは埋められなかった。学問の道も、享楽の道も、人間には充実感を与えない。その意味では、悪魔は人生の空しさを暴露する大きな穴、ブラックホールと言ってもいいかも知れませんね。変な話しですが、そして多分、私が軽い人間だからだと思いますが、それも結局キリスト教の影響なのだと思いますが、私にはその虚無感が全く分からないのです。それが私にとっての一種の劣等感になっています。

清水 行雄 鴎外が、「西洋人にとって自我を失うことは、大変苦痛らしい。それが自分にはわからない。それが苦になる。」といっていたと記憶しています。乱暴な一般化ですが、西洋人と日本人とでは、虚無感の質が違うような気がします。

清水 行雄 ところで、先日待ち時間に、パスカルとリルケを拾い読みしましたが、非常に感銘を受けました。(^^)どちらも独身者というのが難点ですが(笑)

清水 行雄 どうも自分の土俵の上で相撲したつもりが、「ファウスト」の自分の理解の浅さをさらけだしてしまいました。(^^;)

門叶 国泰 口を挟みます。ゲーテ曰く(ファウスト第2幕)、「デーモンというものは、誰もが努力目標にしても、誰にも到達できないほどの偉大な人物を時たま作る。ラファエロ、モーツアル、シェークスピア・・・」ゲーテとの対話(エッカーマン)より

文屋 善明 一種の逆説で「狂気」。

清水 行雄 その発言は危険だと思います。何を持って、正気とし、狂気とするのか?キリスト者として穏当な発言でしょうか?
posted at 06:03:24

「昨日のツイート 12/27」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/265fb833962cf2704dbb1f476d23d6d…
posted at 08:38:54

文屋 善明
日々の聖句2013 12月28日(土)
主はアブラムに言われた。「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福の源となる。」(創世記12:2)
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(ロマ12:14)
私の黙想:
こういう状況で、こういう聖句が目の前に出てくる。たしかローズンゲンは機械的な籤で選ばれている筈なのに、そして全世界のローズンゲンの読者が同じ聖句を読んでいる筈なのに、今日、この聖句が私に向かってくる。つい、3日前のクリスマスで公的な牧師としての仕事を隠退した私に、この聖句が語りかける。本当に不思議だ。他でもない。創世記12章のこの箇所で、私はキリスト者として生きることを決意したのであった。もう少し厳密にいうと、この聖句の直前にある言葉である。文語訳で読むと「汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さんその地に至れ」。今日の聖句は、この言葉を受けて、そうすればこうなると言う神の約束の言葉で、その内容(「祝福の源となる」)はあまりにも大きすぎるので、これは私のこととは違うと今でも思っている。ただその直前の「汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れよ」という言葉を聴き、私は「親がクリスチャンだからクリスチャンになる」という道を捨てて、私自身の問題、生き方としてこの道に入ったのである。その後の私の人生を振り返る時、文字通り、両親の信仰から出発し、~~教団と決別し、~~~に離れて現在に至る。もし、あの時、そのままそこに留まっていれば、それなりに経歴を積み、それだけの役割を果たしたであろうが、おそらくそれは「私の道」ではなかったであろう。

濱 和弘さん、浜井美喜さん、丸山 順子さん、他26人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 確かにその様な人が多いですが自分で本当に神様にお出会いして導かれる。本当の信仰だと思います。

門叶 国泰 聖書のみ言葉は、「一人ひとり」の「その時折の状態」に即して迫ってくるのですね。

文屋 善明
お目覚めの花。「もう4年ほど前になりますかね」「そうですね。主教さんが、この家に持って来られたのでしたね」「その時は鉢一杯に咲いていたのに」「今年も何とか花を咲かせることができました」。
写真: お目覚めの花。「もう4年ほど前になりますかね」「そうですね。主教さんが、この家に持って来られたのでしたね」「その時は鉢一杯に咲いていたのに」「今年も何とか花を咲かせることができました」。

磯村 正夫さん、林 巌雄さん、浜井美喜さん、他37人が「いいね!」と言っています。

細野 清明 文屋先生、Selamat pagi ! 新しき年へ向けて、ふぁいとぉ~! assalamu alaikum!

加藤 佑三 この「シクラメン」は、毎年一杯の花を咲かせるのが難しいです。殆ど枯らしてしまいます。

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