ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 03/29

2016-03-31 14:02:48 | ツイッター
お早うございます。主の平和。今日から火野正平さんの「こころ旅」が再開された。東京から北海道までの旅だ。気が向いたらノートすることにする。教会暦におけるオクティヴについて考えをまとめているうちに、復活後月曜日のテキストを読み、興がそそられて、コメントを書いてしまった。『小説吉田学校』続読。佐藤内閣の末期。外出なし。夜、「浅見光彦」を見て11時過ぎに就寝。5時半に起床。血圧(154:86,76)・体調・快調。チュン、チュン。

24小貫 ツマさん、早乙女 実さん、他22人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

藤木 冨士子 おはようございます。

安田 正人 おはようございます。今日もいい一日でありますように、元気と笑顔で!

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りをします。良き日となりますようにお祈りします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 こんにちは。今日も、よろしく、お願いします。


文屋 善明
3月29日 6:06 ·
お目覚めの花。「思い返すと2007年の今日、3月29日に北九州の門司港に上陸したのがここでの生活の始まりでした」「アッと言う間の9年でした」「こうして安心して毎日が過ごせるのも『年金』のお陰です」「その年金が毎年一寸づつ削られています」。
文屋 善明さんの写真

46Susumu Odaさん、加藤 治さん、他44人
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二上 英朗 ガーベラ、花らしい花。

藤木 冨士子 私ももうすぐ年金生活。


文屋 善明
3月29日 6:29 ·
2016 日々の聖句 03月29日(火)
災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。(Ps.57:2)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(Jh.20:19)
私の黙想:
「災いの過ぎ去るまで」、避難と言うこと。避難民のことを思う。「翼の陰」がない。ただ、無目的に災害の現場を逃げ回るしかない。逃げ回る避難民の頭上には敵の翼があり、爆弾が落とされる。敵の強力な翼のもとでは完全に無力である。「あなたの翼の陰」がない。各自が自己責任によって避難所を探し回る。ここなら安全と思ったところでは場所を取り合い、争いが始まる。それが避難民である。
詩人は言う。「わたしの魂は獅子の中に火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように舌は剣のように、鋭いのです」。避難民にとって「わたしの魂」の問題ではない、私の身体の問題である。ただ生きる、生き残るということだけが課題である。
私たちは常に「難民化」する可能性、危険性の中で生きている。・・・・・もうこれ以上は書けない。

22小貫 ツマさん、藤木 冨士子さん、他20人


文屋 善明
3月29日 6:36 ·
今日の名言:@meigenbot
一事を考え終わらざれば他事に移らず。一書を読了せざれば他書をとらず。 (哲学者: 西田幾多郎)
<一言>私には出来ない。同時にあれや、これやを考え、雑多な本を平行して読む。だから凡人である。今の世界、西田先生みたいな生き方を出来る人は変人だ。

22藤木 冨士子さん、播 稔さん、他20人
コメント

文屋 善明 さぁ、今から何を読もうかな。読みかけの本が多すぎて困ってしまう。じゃぁ、読書は止めてネットで遊ぼうか。

櫻井 吉田 啓子 すみません。重箱の隅。西田幾「多」郎です。^_^;

文屋 善明 そうだ。「多」だ。それは決して重箱の隅ではありません。ただし、これは全体としてツイッターの引用のママなので、不注意でした。訂正しておきます。

文屋 善明 慌てて、「ありがとう」を言い忘れました。ありがとう。

櫻井 吉田 啓子 あら、まあ!ツイッターで誤字が出回っていたのですね。
iPhoneの予想変換では「西田幾多郎」と一発です。

藤木 冨士子 FBできる人は本を最後まで読まずに、あれこれと?あちこち?読む人だと思います。


文屋 善明
3月29日 7:59 ·
NHKこころ旅、ここは八丈島、ここから出発です。大嵐の中、何も見えません。山の上の牛牧場で手紙を読む。樫立山のお墓。春の旅、初日から墓参り。下り坂で始まる。八丈カレー発見。元気なおばさん。正平さんの天敵が見える。

11藤木 冨士子さん、播 稔さん、他9人
コメント

川染 三郎 見られなくて残念。八丈島で4年間、楽しい流人生活をしました。

文屋 善明 そうですか。「流人」って何ですか?

川染 三郎 文屋 善明時の権力者に盾をついた 悪人の島流しです。八丈島は流人を大事にしてくれます。宇喜多秀家の墓があります。

文屋 善明 恐ろしい話ですね。その意味では、私は定年退職という名の流人です。


文屋 善明
3月29日 8:10 ·
恥を知れ、「文科大臣」という名の奴隷様
川村 肇さんの写真

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1026323157449211&set=a.276831302398404.65522.100002146096427&type=3&theater

3月27日 6:56 ·
東京新聞「本音のコラム」山口二郎さん。明治時代のジャーナリスト三宅雪嶺の言葉を引いて、現代の奴隷精神を痛罵。独立心をこそ養わねばならない。

34川染 三郎さん、山城順さん、他32人
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播 稔 スポーツ大会の場合、君が代はシラケル。 スポーツ国歌をつくってみては。

藤木 冨士子 品性という言葉がこの国では既に生きていないのでは?


文屋 善明
3月29日 8:43 ·
今日の「折々のことば」。教育における「意識化」とは「点化」ということであろう。何でも「点」で表現できると思うこと。学校で点取り虫が点だけ取って上の学校に行き、また点を沢山とって上り詰め、点取り虫の集団である官僚組織に加わり、点だけが人生という生き方。そこから学教行政を考えるから、何でも点で表現できると思い、点化する。かくして、学校から意識化できないことが無視され、点化できない「人間の信頼」は失われる。それはもはや「教育」ではなく、点取り競争の場となる。教える者も教えられる者も。
文屋 善明さんの写真

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=996221863788608&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

30川染 三郎さん、藤木 冨士子さん、他28人
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播 稔 確かにそうだ。


文屋 善明
3月29日 9:26 ·
復活後月曜日の断想を書いた以上、それ以後も書かねばならないという思いに駆られて、これを書きました。
断想:復活後火曜日の福音書
マグダラのマリアへの顕現
復活後火曜日の福音書はヨハネ20:11~18である。ヨハネ福音書における復活のイエスの顕現を考える場合、この物語を無視することは出来ない。ところが、日本聖公会の祈祷書ではこの物語は、普段の主日でも、復活節の主日でさえも取り上げられていない。取り上げられるのは、マグダラの聖マリアの日だけである。そのためにこのテキストは主日だけの信徒にはめったにお目にかかれない。
この物語の重要なポイントは、マタイ福音書の顕現物語では婦人たちがイエスの足に抱きついたという場面が、ここではイエスが、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言って断る点であろう。このセリフによって復活のイエスの顕現という出来事が短期的な期限付きであることが示されている。復活のイエスの顕現とは、墓から(陰府から)、父のもと、つまり神の右の座への途中下車である。ルカはそれを復活日から昇天日までの40日間という(Act.1:3)。
復活のイエスが姿を現したのはたった40日間だけであった。しかも、それも「時々だ」。そしてヨハネ福音書では一貫して、イエスが「どこから来て」「どこへ行くのか」ということが問われている(Jh.3:8、7:35、8:14、13:36、14:4~5、16:15)。マグダラのマリアへの顕現の場で初めてイエスの行き先が宣言される。「あなた方の神である方のところへわたしは上る」。この場所こそが、イエスの本来あるべき場所であることが示されている(1:1)。イエスはそこから出てきて、そこに帰る存在である(Jh.6:62)。
このメッセージを11弟子ではなく、マグダラのマリアに語られマリアを通して弟子に伝えられた。
この物語には後日談がある。マルコ福音書の付録の部分で、「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(Mk.16:10~11)という。ここに使徒ペトロを初めとする使徒集団に対する無言の批判がある。マリアの言葉を信じなかったのはトマスだけではなかった。

26小貫 ツマさん、藤井 衞さん、他24人
コメント

藤木 冨士子 そのあとも期待します。


文屋 善明
3月29日 11:32 ·
「昨日のツイート 03/27 イースター」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

12文屋 知明さん、藤木 冨士子さん、他10人


文屋 善明
3月29日 13:19 ·
イミタチオ・クリスチ(77):
私たちは他の人に完全であることを求めているのに、私たち自身の欠点は改めようとしない。
他の人たちがきびしく懲らしめられるのを見て喜ぶが、私たち自身が懲しめられるのは嫌だと思う。16:7~8

20川染 三郎さん、村田 多鶴子さん、他18人
コメント

藤木 冨士子 真に卑しい心根です。

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