この秋(10月)以来、サミュエル・ベケットの名作戯曲「ゴドーを待ちながら」(白水社)を繰り返し読んできた。この本のことについてはブログ「ぶんやさんち」で数回(9月18日、10月23日、24日、28日)取り上げている。非常に刺激的な作品である。もうそろそろ、この本について総括しておかねばならないであろう。そうしないと、わたしの机の上から片付けることができない。
二人の主人公エストラゴン(ゴゴ)とヴラジーミル(ディディ)は舞台の真ん中で、ゴドーと呼ばれる不明の相手を待っている。彼らが待っている期間がどれ程長いのか、ほんの数日のことなのかはっきりしない。なぜ、彼らが待ち始めたのかも明確ではない。しかし、彼らは彼らの時間をつぶしながら、気を紛らわせながら、待っている。待ち続けている内に、何を待っているのか、なぜ待っているのかいよいよわからなくなる。それでも、彼らは待つという生き方を変えない。
とうとう、最後に彼らは自殺をしようと思う。ところが、首をつる紐がない。それでは、明日またここに「待つために」やって来るとき、紐を持ってこようという。このユーモアは面白い。
次の会話はもっと面白い。(この会話がこの作品の最後の場面である)。
ゴゴ「ディディ」。
ディディ「うん」。
ゴゴ「おれは、このままじゃとてもやっていけない」。
ディディ「口ではみんなそう言うさ」。
ゴゴ「別れることにしたら?そのほうがいいかもしれない」。
ディディ「それより、あした首をつろう。(間)ゴドーが来れば別だが」。ゴゴ「もし来たら?」。
ディディ「わたしたちは救われる」。
この後に続く、数行の会話は舞台の上での戯れ言であろう。つまり、この戯曲は、ゴドーと称せられる神が来られたら救われる、という会話で終わる。
この戯曲をキリスト教の終末論として読まなければならない理由ははない。むしろ、待つという場合に「待つ相手の空虚さ」が主題になっている。それはキリスト教への強烈はアイロニー(皮肉)かも知れない。しかし、「何かを」待つのではない、ただ「待つ」という在り方、目的格のない待ち方が成り立つのかどうかという大実験である。実は、キリスト教信仰はその瀬戸際に立っている。キリスト信仰から「待つ」という姿勢が失われたら、もはやキリスト教ではなくなる。
二人の主人公エストラゴン(ゴゴ)とヴラジーミル(ディディ)は舞台の真ん中で、ゴドーと呼ばれる不明の相手を待っている。彼らが待っている期間がどれ程長いのか、ほんの数日のことなのかはっきりしない。なぜ、彼らが待ち始めたのかも明確ではない。しかし、彼らは彼らの時間をつぶしながら、気を紛らわせながら、待っている。待ち続けている内に、何を待っているのか、なぜ待っているのかいよいよわからなくなる。それでも、彼らは待つという生き方を変えない。
とうとう、最後に彼らは自殺をしようと思う。ところが、首をつる紐がない。それでは、明日またここに「待つために」やって来るとき、紐を持ってこようという。このユーモアは面白い。
次の会話はもっと面白い。(この会話がこの作品の最後の場面である)。
ゴゴ「ディディ」。
ディディ「うん」。
ゴゴ「おれは、このままじゃとてもやっていけない」。
ディディ「口ではみんなそう言うさ」。
ゴゴ「別れることにしたら?そのほうがいいかもしれない」。
ディディ「それより、あした首をつろう。(間)ゴドーが来れば別だが」。ゴゴ「もし来たら?」。
ディディ「わたしたちは救われる」。
この後に続く、数行の会話は舞台の上での戯れ言であろう。つまり、この戯曲は、ゴドーと称せられる神が来られたら救われる、という会話で終わる。
この戯曲をキリスト教の終末論として読まなければならない理由ははない。むしろ、待つという場合に「待つ相手の空虚さ」が主題になっている。それはキリスト教への強烈はアイロニー(皮肉)かも知れない。しかし、「何かを」待つのではない、ただ「待つ」という在り方、目的格のない待ち方が成り立つのかどうかという大実験である。実は、キリスト教信仰はその瀬戸際に立っている。キリスト信仰から「待つ」という姿勢が失われたら、もはやキリスト教ではなくなる。