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受胎告知についての断想

2015-12-20 08:06:46 | 説教
受胎告知についての断想  ルカ1:39~45 (降臨節第4主日の福音書)

1. ルカ福音書の前物語
本来のルカ福音書は3章からであるという仮説はかなり強い。その議論には立ち入らないが、ルカ福音書の1章と2章とがなかったとしたら、キリスト教は随分淋しいものになっていたであろう。イエスの誕生物語にせよ、マリアの受胎告知や東の方からやって来た占星術の学者たちの訪問物語だけでは淋しい。もちろん、ルカ福音書の1章と2章がなければクリスマスもこれほど豊かなものにはならなかったであろう。その意味では、ルカかあるいはルカの弟子か、ともかく世界中のキリスト者は大人も子供も、これを書き加えていくれた人物に感謝しなければならないであろう。
ルカ福音書が描くヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べていた」(マルコ1:6)預言者ではない。ルカはそんなヨハネ像をかき消してしまう。ヨハネは祭司ザカリアとアロン家の娘エリザベトの間に生まれた祭司の家系に属し、しかも高齢の夫婦から生まれた独り息子で、その出生物語は旧約聖書の最初の預言者サムエルに酷似している。彼が育った環境は「荒れ野」(1:80)で、荒れ野で神の言葉を聞き預言者となった。ここで描かれているヨハネは特異な預言者というより典型的な預言者である。本日のテキストはヨハネの母エリザベトとイエスの母マリアとの出会いの場面である。エリザベトは「不妊の女」(1:36)と言われてきた老女である。マリアは妊娠する心当たりがない乙女である。ところが彼女たちはそれぞれ、別々に特異な受胎の経験をしている。受胎の時間差は6ヶ月。ルカ1:36では、エリザベトとマリアとは親類ということになっている。このことについてはルカにしか記録していないので肯定も否定もできない。ただルカはそのことに関心を持ったということは注目すべきことである。

2. エリザベトとマリアとは親類
マリアは「ナザレというガリラヤの町」(1:26)から「山里に向かい」、「ユダの町」に行った(1:39)。そこにエリザベトは住んでいたと思われる。ユダという地域は死海の西方に広がるかなり広域な山岳地帯で、エリザベツたちが住んでいた町が具体的にはどこの町なのか不明。マリアたちが住んでいたナザレという町はガリラヤ湖畔というよりもそこから少し離れた山村である。従ってナザレの町とユダの町とはかなり離れており、妊婦が簡単に行ける距離ではない。話がかなり先に進むが、マリアはエリザベトの所で3ヶ月滞在している。おそらくそれが妊婦が帰宅するぎりぎりの限界であったのであろう。

3. 「胎内の子が踊った」
マリアがザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶したときに、「胎内の子が踊った」(1:44)。これも本当かも知れないしフィクションかも知れない。本人にしか分からないことである。そのこと自体はいわば「どうでもよい」ことであろう。ただ、このことにルカは興味を示したということは無視できない。胎児が動き出すのは何ヶ月頃からなのか正確なところは分からないが、面白いことにここではエリザベトの胎児だけが踊っているように思える。ここには明らかにこの物語を語るもののメッセージが込められている。エリザベツの体内にいる胎児は旧約聖書の預言者を代表するヨハネである。ヨハネはイエスの登場を感じて踊る。その踊りは新しい時代が到来したことへの喜びの踊りである。旧約聖書の預言者エレミヤは次のように語る。

<主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を。
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。
諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」。
主はヤコブを解き放ち、彼にまさって強い者の手から贖われる。彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て、主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を受け、その魂は潤う園のようになり、再び衰えることはない。
そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。祭司の命を髄をもって潤し、わたしの民を良い物で飽かせると、主は言われる。>(エレミヤ31:7~14)
    
エリザベツの胎内にいるヨハネの踊りは、まさに預言者エレミヤの語る踊りである。要するにルカはこれら二つのこと、さらに言うと、ザカリアがヨハネの誕生に際して、それを告げた天使の言葉を信じなかったため一時的に言語障害になったということも含めて、ヨハネの誕生とイエスの誕生とを強く結び付けているということである。ルカにとってヨハネとイエスとは同時代人である。それと同時に既に見てきたようにヨハネは古い時代に属しイエスは新しい時代に属している(16:16)。

4. 運命的出会い
これらのことを通して、ルカが言いたかったことはいろいろあると思うが、その一つ、特に重要なことは、人間の一生、その誕生から死ぬまで、自分の価値観と決断で人生を過ごしているようであるが、実はそれよりももっと大きな力と意志によって決定されているということである。ヨハネにしても、イエスにしても非常に個性的な生き方をし、また死に方をしている。その二人が誕生以前にすでにその生き方も死に方も決定されていたということ。ルカが第一に言いたかったことはそのことであろう。

5. エリザベトの経験
エリザベトは「不妊の女」と言われていた。しかも彼女も彼女の夫ザカリアもすでに老人であった。ということは、当時の人々の考えでは、「神から見放された人々」であった。この際「神から見放された」のは男の側ではなく女の方であると人々は見ていた。この考えは間違っている。しかしいくら間違っていると言っても当時の人々はそう信じていた。わたしたちは現在の価値観と当時の価値観との対比をここで見るかも知れない。しかし、それでここでの問題を片づけてしまうのは間違いである。
ザカリヤもエリザベトも当時の人である。当時の価値観の中で生きている人である。しかし、このことについては彼らはこの考えが間違っていることをはっきりと知っていたに違いない。彼らはこの偏見の被害者である。被害者からの視点からは偏見の間違いは時代を越えてわかる。彼らはただ子どもが与えられないだけであって、彼ら自身は決して「神から見放された」とは思っていない。神は彼らを決して見放してはいない。これは彼らの確信である。それはザカリアもエリザベトも同じである。
しかし被害の度合いはエリザベトとザカリアでは差があった。当時の人々の偏見を一身に集めて、悲しい想いをしていたのは女であるエリザベトであったであろう。この差がザカリアが天使からヨハネの誕生を予告されたとき、「そんなことはありえない」と一笑に付してしまった理由であろう。そのことによりザカリアは言葉を失う。それに対してエリザベトはヨハネを身ごもったとき、「主は今こそ、こうしてわたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と言う。ここに彼女は人々の偏見に対する彼女自身の勝利を感じたに違いない。

6. <脱線>マリアの名前
マリアというのはギリシャ語の女性の名前である。ユダヤ人にはユダヤ人の名前がある。おそらく新約聖書の中でマリアと呼ばれている女性たちの名前はヘブライ語の「ミリヤム」であったはずで、おそらくマリアという名前とミリアムというという名前とが似ているのでユダヤ人のミリヤムがギリシャ語世界ではマリアにされたのであろう。このこと自体は非常に単純なことであるが、問題はそれだけでは終わらない。
ルカはヘブライ語にも堪能な非ユダヤ人であったらしい。もちろん彼もヘブライ語のミリアムとギリシャ語のマリアとの関係は熟知していたであろう。そこで一つの迷いが出てくる。イエスの母の名前を「マリア」とギリシャ語で記すべきか、ヘブライ語で「ミリアム」と記すべきか。ギリシャ語で書かれている文章に突如ヘブライ語のミリアムという名前を使うのには違和感がある。といって、日常生活でミリアムと呼ばれているイエスの母を「マリア」と書くのにも抵抗がある。その苦肉の策が「マリアム」という変な名前になってしまった。これはルカ福音書だけの現象で、しかもイエスの母以外の「マリア」たちは「マリア」と記しているのに、イエスの母だけは「マリアム」という名称を使っている。しかし日本語に翻訳された場合はそれらの微妙な差異はかき消され全部「マリア」に統一されている。(田川建三『書物としての新約聖書』349頁)

7. 「主がおっしゃったことは必ず実現する」
さて本日のテキストでエリザベトが「聖霊に満たされて、声高に言った」とされる「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)という言葉は非常に印象的である。これは目の前で神の御業が実現している現場に居合わせた者の喜びの声である。ここでの実現とは実現への過程であり、実現へ向けての参加の喜びである。
ここでもう一つ注目すべき点は「必ず実現すると信じた方は」という言葉は不正確である。正しくは「信じた女」である。本日の福音書での出会いは胎内のヨハネと胎内のイエスとの出会いであるが同時に幼な子を宿す「女たち」の出会いでもある。彼女たちは「必ず実現する」ということを実現する前に、未だ実現していない状況の中で「身体で感じた女たち」である。カール・バルトは『降誕ルカ1~2章講解説教』(新教出版社)に収められている「マリアとエリザベツの邂逅」の中でマリアとエリザベツとの間で起こっていことは何かと問い「教会の中における人間の一致と共存」であると答えている。いかなる種類の人間であれ、「神の言葉によって彼らに与えられ、その心の中に語られた希望において深く一つに結ばれている共存しているところにこそ、教会は存在する。そしてこの希望の中にこそ、希望されたものがすでに現存している」(57頁)。

8. 私の人生
私たちは、私たちの人生を歩んでいる。その際、私たちは私たちの思いを、願いを実現しようと私たちの最善を尽くす。人を愛するにも、人と別れるにも、仕事を選ぶにも、子どもを生み、育てるにも、私たちは私たちの知恵と力を尽くして最善の決断をする。そして、その人生は私の人生であり、私の責任において営まれる人生である。
しかし、ふと立ち止まって私の人生を省みるとき、私の人生は私以上の何ものかによって動かされていることに気付く。私の人生を決定づけるような「私たち」の出会いは私の目からは偶然の様に見える。しかしよく見るとそれは私以上の何ものかの配剤である。実は私の人生は私以上の何者か、つまり「主の思い」を実現するものであることに気付く。マリアとエリザベトはそのことを「身体で感じた」。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)。

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